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「十善・五戒は世にいう仁・義などの五常とまったく同じものである。聖人の説く教えは同じではないが |
道徳
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政治的民本主義の基底にあたるものは、人格主義としての民本主義である。吉野のいう「人格主義」と |
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道徳の本質が、人類普遍的であることは、人類が社会性動物であることを示している。日本人は、和を重んじる国民性というが、それはある意味、仲間内だけの排他的な和に過ぎない。どの民族でも、キリスト教徒も、ユダヤ教徒も、イスラム教徒も、異民族に対しては、結構排他的ではある。まあ、そういう面では、日本人だけをわるくいうことはできないのだ。排他的であるということは、視野が狭いということで、ムラ社会とか、自己中心的とか、いうことができる。国際的な視線とは、どの民族も同じ人間であるという思想からはじまる。これは、差別の問題の解決からは、同和ということになる。道徳が人類普遍であり、人間同士をつなぐために必要なものならば、同和をつくりだすものということになる。そして、道徳の遵守と平和は、ルールを守ることでつながってくる。いろいろな民族には、いろいろな言葉があり、いろいろな書物があるが、その文字や言葉の奥にある血脈のようなものを見通さねばならない。つまり、普遍性という血脈である。その文字や言葉の表面だけの違いにとらわれてはならないのだ。その言葉や文字をそのまま解するところから、実際の人付き合いがまずくなるというケースが多い。やはり、臨機応変に発想できることが必要である。そのためには、経験の積み重ねが重要になってくる。身近な経験の積み重ねが、人を育ててくれるのだ。協調から競争への流れの中で、いかにして、道徳という最低限の普遍性を維持するかということが課題になってくるのだが、協調という平等性を破壊せずに、競争という個性の尊重を発揮させるかは、社会に反映してくるであろう。個性を尊重し合うことが、協調性である時代を脱して、個性を尊重することが、競争性である時代になったのだろう。切磋琢磨の時代となったといえる。だが、段階として、国際的強者と田舎的弱者の直接対決は、当然国際的強者の勝利に行き着くことは当然の理であり、この論理は強者必勝の論理であると言うことも忘れてはならない。しかし、たたきあげで、田舎的強者になるものも現れてくれば、面白い競走社会であるかもしれない。まあ、国際協調という言葉があるのならば、田舎協調もあってもよい。国際間では協調があるのに田舎では協調はいけないとなれば、何らかの歪みをいうことができる。国際間の談合は許されて、政治での談合も許される。それなのになぜ、田舎での談合は駄目なのという疑問に発展せざるを得ない。つまり、強者のみが談合が許されるのかということになる。談合が駄目ならば、ある意味国際会議の談合もなしじゃなかろうか。でもまあ、道徳が保たれるならば、弱者をいたわる仁徳が発揮されて、強者が弱者を救済するという流れが生じてくるにちがいない。それが人間性であると思う。その人間性は道徳とか同和とか、国際的強者に与えられた資格みたいなもので、これがなければ、弱肉強食の獣道にしかすぎない世界をつくることになる。 |
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道徳が個人にとって、堅苦しいものであるということは、吾輩でも感じます。しかし、道徳というものを排除しつくすということは避けなければなりません。つまり、最低限のルールなのです。自由を謳歌してても、その自由を謳歌するためには、周りの生活環境が整っていなければ、心地よい自由を得ることはできません。そこに、道徳が関わってくるのです。自由を得れば得るほど、孤独に陥っていきます。それは自分中心という罠に落ち込むからです。いろいろな事件がありました。自由を追求しすぎて、法律を通り越していった人間がたくさんいました。何事も、過ぎたるは及ばざるが如し。自由も例外ではありませんでした。犯罪の自由は、戦争につながります。つまり、行過ぎた自由は恐ろしいものです。心地良い自由を規律するのが、道徳なのです。道を踏み外して、始めて気づく、真実でしょう。孤独に苛まれて、その果てに道徳が見えてくるのです。人と人とのあり方、それが道徳によって、わかりやすく、説かれています。これほど、簡単でわかりやすい文学はありません。すべて、実行できます。 |
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迷いが遠くかき消されて言った。なぜなら、どうにもならない現実は、天命であるからだ。というのは、天地の間に暮らさねばならない人間の基本の「実」からは、どうあがいても逃れられないからだ。天命を知るということは、知ることを重ねることだ。しることは、処世の経験を積むことである。昔、学問とは覚えるというよりも、実行することにあった。実行できないものは学問とはいわなかったのだ。実行できない学問とは、役に立たない。結局、学校で学んだ知識は実行できないものが大多数だ。ほとんどが大学受験とか、入社試験とかいった科挙制度に必要な知識をおぼえるだけである。そこからの脱却が今までの思索の旅において、得られたものであったのだ。結局、江戸時代の古学に行き着く。実学の精神を生んだ、いかに生きるべきかを工夫することということだ。さまざまな情報・知識があふれる中で、人間に最も必要なことは何かということで、食に携わることになった。人間が、世界を、天を知るもっとも身近なものごとは本草であった。そういうことから、生物学を学んだのかもしれない。科学は客観的事実を追い求めるが過ぎたるが故に、人間的本質から逸脱した領域に迷い込んでしまった。その迷い込んだ果てが、人間の住み心地の悪い社会を形成するにいたった。人間の住み心地とは、主観によって守られている。主観から離れすぎた客観性とは、人間の心が理解して実行に移すまでに、戸惑いと懐疑を生み出す。そうなれば、真の心から発せない行動が起きるわけで、人間の自発性の失われた行動が起きてしまう。そういうところから、事故や事件がおきることになる。客観的事実を追い求めるのも大事だが、やはり人間の心が鍛えられなければ、何事もしっかりとした実行を移すことはできないのだ。心身を鍛えてこそ、科学の恩恵を人間が主体になって利用できるのである。文明が発達すれば、やはり、それを使う人間がしっかりしていなければならない。そのための学問である。学問は実際に使えなければ意味がない。現代の形式的に整備された学問だけではだめだ。生活に沿った、「日用の学」に転じていかねばならない。それが学問の道というものである。ある喜びがあるためにやめられないという学問への自己集中から、さまざまなものへの依頼心の訂正を生み出し、自己の確立を目指すのである。 |





