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吾輩は、有言実行内閣だから、不老不死(不老長生)の研究(勉強)に、5年目にして、やっと開始することができました。
補完・代替療法という位置づけで、西洋医学の費用対効果の非効率性をカバーするという役目から食養生が考えられる。
テキストは、がくぶんの薬膳マイスター養成講座で、薬膳とか漢方と呼ばずに、和漢膳と呼んでいます。それは、薬というとmedicineという有効成分だけを精製した即効性があるイメージになっていて、薬膳のようなcomplexity(複雑系)な長期的スパン(ゆっくり)で顕れる効果は、効き目がないとされているからだと思われる。そういう意味で、スピード狂な現代人には、薬膳は目に入らない分野だと思われる。現代中国の医学は、「中西結合」といい中国医学と西洋医学の長所を活かし、高い治療効果を目指しさまざまな研究がおこなわれているそうです。そのうち、薬膳が理解できたら、細胞学や栄養学と組み合わせて、なんで、そうなっているのかを解明したいと思う。この理屈は、ミクロで長時間かかりそうなので、専門家にまかせておこう。ご飯が食えなくなる。栄養・運動・休養・温泉なども必要そうである。2012年正月改正。
霧山人
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食育
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不老不死は、歯の問題とか、ストレスとか、そういうことがあるので食材だけでは、如何ともしがたい。
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食材から料理に至るまで、美味ということが最高と思われるけれども、それでは本当の美味を意味しない。
単純に、美味か不味かを唱えれば、それは好き嫌いの範疇を超えないことになって、結局、飽食とかグルメとかいう言葉に置き換えられて、本当の美味を見落としてしまうことになる。
味の道ということを追求するにあたり、まずは美味とか不味とかの観念を捨てねばならないことに気付いた。それに気付くのに、三年は要した。そこからしか、美味の追求はありえない。北大路魯山人の三書『陶説』『味道』『書論』を読むことができるまでに、そのような年月が必要であった。その論説を薀蓄として、丸覚えして実践すれば、美食の極意は得られそうではないか。しかし、そういうわけではない。人には、それぞれの道というものがあるからだ。その道と謂う言葉は、なぜか魯山人にして、『味道』においてしか用いられていない。後の二書は科学的に説とか論とかが用いられているのだ。そこで、愚かにも、考えてみる。魯山人が芸術の世界・書や篆刻において、困窮をしていた時期に、ふと現われてきた成功の道というものが、料理だったからであろう。そのような自分の意志では考えもしない分野で世に用いられたのだから、あえて味に道の文言を与えたのではないか。
そのように、道というものには決まった法則というものはなく、可能性とかポテンシャルのような不確定な要素から生れてくる。既存の方法とかではなく、未知の方法が突然うまくいく方法となって、現われてくるのだ。だから、これは既存のことを研究する科学によっては導き出せない結果だといえる。既存の法則から漏れでた不可思議のコースに導かれる。これは、発明発見に通じる同等のコースでもあろう。そういう現状を打破するための突破力としての道を模索し得るのではないだろうか。
味の道を辿っていくには段階が必要であるが、その基盤的重要な事柄を覚えなくてはならない。それは、「食べ物を粗末にしてはならない。」と云う事である。これは、食材を自分で作ってみればわかることだが、非常に大変な労力で、それを貶されると食べ物はおいしくなくなってしまうからである。そして、さらに料理人がそれを調理するわけであるから、二重の手間がかかっているという事実もある。そういうこともあるので、そうたやすく味の道の頂点である美食に辿り着けることはないのである。しかし、味についてとやかく美味だの不味だの言わずに我慢して食べることが結果的にして、美味をわかるようにしていくのだから、苦しいことを乗り越えて結果を得るという順序としては間違いはないだろう。
現代人の味というものは、とにかく甘いという味覚を最優先にする傾向があるので、それを打ち壊して、どんな味でも覚え解することができるようにはなりにくいのである。これが味の道に立ちふさがる最大の困難なのである。つまり、現代人の味覚そのものが「食べ物を粗末にしてはならない」ということを邪魔しているのである。たいていの現代人は、その未熟な味覚に邪魔されて、味の道になかなか入れない悲しさに生きている。舌の経験値がアップしなければ、さまざまな妙味を得ることはできないのである。現代人の味覚は、99%の純粋な成分に対しては美味を感じるが、食通の味覚は、逆の1%の隠し味の方に美味を感じる。だから、この民主主義の中においては、食通の美味は失われてしまうのだ。科学的になればなるほど、ホメオパシーのように、美味を否定されることになるのは免れないのだ。だから、今のところ、美味というものを客観的に大衆に表現しきった人物はなかなかでないのだ。『中庸』にある「譬<たと>えば人の飲食せざる者なけれども、能其味を知る者は鮮<すくな>きが如し」と同じことだ。
まだ、緒論であるからにして、味の道の入り口に到着しただけにすぎないが、だんだんとさまざまな食物やさまざまな料理の味を覚え解すようになれば、それをどのような言葉で伝えるのかというところに到達するであろう。それは科学的な言語を用いればうまさが消えてしまうので、当然、文学的な表現や風土そのものに一体化したものになるであろうことは想像にたやすいだろう。あるいは、その人物の個性につながるものになるのかもしれない。そこには、全く科学的な厳格性は見当たらないだろう。味というものは、結局、主観であり、その人の肉体の欲求そのものでもあるからである。だから、味というものには、本来序列というものすらないのである。味に序列がつくのは、売上高とか御客の数とか、そういった副産物による評価にすぎないようである。だから、結局、味自体には、「おいしい!」といった言葉が多様されるのもうなずける話である。
そのように、まだ味の道を歩いていって、結論が導き出せるかどうかもわからない状態での理想を語っているにすぎないのだが、現時点における味への一歩であろう。まだまだ勉強が足りなかったり、十分な摂食がなかったりするので、非常に厳しい一歩である。しかし、それは肥満への道でもあるので、運動を忘れないようにすることも必要である。
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美味というものは、喧嘩のもとである。
美食というものは、喧嘩のもとである。
美味いとか、不味いとかで争いになって、殺すようなことがあれば、どうすることもできない。
美食にもいろいろあるが、貧乏で美味いものを知っていることが一番である。
美食に金儲けが絡むと厄介である。美味の追求で、採算が合わなくなるからである。料理は、食べられればよろしい。
レアなもので、大衆に向けて商売すると、持続不可能な美食になる。
美食とは、恐ろしいものである。
粗食こそが味を鍛え、味を多く覚えさせるものである。
味を知るものが少ないのは、好き嫌いがあるからである。
好き嫌いがなくなって、初めて美食といえる。
味というものに関心がなくなって、もうこれ以上の感傷を持てない。
だから、結局、料理は愛情ということにしておく。了解。
霧山人
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もやしを湯がいて、人参とたけのこ、小ネギ、きくらげも同様に湯がいて、ざるにあげた。若鶏の胸肉 |
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08年05月30日の昼飯・ちゃんぽん
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