平成17年4月6日から平成23年9月6日までのブログ

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科学

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観測機械も分析機器もないので、科学とはいえないかも。

科学はいたちごっこだ。

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生命現象―老化―

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 吾輩が若い頃は、生命現象を追究しようと、日々勉学に励んだものだ。そして、忘却の末、十年が過ぎ

た。吾輩は、遺伝子の分野から、心理学、文学の方面に興味の対象を移行してきたが、ついに初志を思い

出すに至り、生命の老化現象を調べる事になってきた。老化現象の原因というものは、精神的ストレスか

ら来る拒食による栄養素のバランスの乱れが始まりだと思える。老化というものは、決められたサダメで

あるが、そのサダメが早いか遅いかは外部の環境因子に委ねられる事になる。老化の始まりは、うつ病か

らやってくるということが、ピンと来た推測である。多大なストレスは、多くのエネルギーを費やすが、

そのために副腎からのアドレナリンの大量放出がなされ、多くの栄養素が消費されてしまう。もし、その

ストレスから解放されない場合、どのようになるのか。人間は、低血糖ゆえに、うつ状態に陥って、食欲

を無くしてしまうのだ。そうなれば、大量に消費された栄養素のバランスを回復させるという方向に、ホ

メオスタシスが働かず、多くの代謝機能の低下をもたらしてしまうだろう。そうなれば、体内のホメオス

タシスを回復させる事は、非常に困難になるのだ。なぜならば、運が悪ければ、遺伝子の発現作用までも

が低下してしまうことになるからである。そうなってしまえば、もはや栄養療法では、手の施しようがな

くなる。栄養素の欠乏とは、ほとんどがアミノ酸、脂肪酸、ビタミン、ミネラルの欠乏ということがいえ

るあろう。現代において、糖分が不足するということはまず考えられない。だが、アミノ酸や脂肪酸など

にも多くの種類が存在するので、一体どの成分が不足しているかを見極める事は非常に困難である。それ

を病状や体質なんかで見極める事ができれば、食事によって、その欠乏した栄養素を補ってやる事で、老

化を遅らせる事も可能ではないかと思うのだった。生命の老化現象は、宿命的なことであっても、少子高

齢化の社会においては、避ける事のできない重要な課題である。なかなか困難な課題だけに、研究のやり

がいがあるようだ。

                                    霧山人

老人の健康

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 老人の肉体というものは、次々と機能が低下していくものである。ある食事の栄養素のバランスが崩れ

ることによって、だんだんと代謝機能の酵素が働かなくなってくる。とくに、ビタミン、ミネラル、アミ

ノ酸、必須脂肪酸の不足というものが、老化現象の引き金となっているだろう。だから、寿命はともか

く、病気を防ぎ、老化を食い止めるには、食事の栄養素がきちんと摂れているかということが重要となっ

てくる。だが、個人個人の肉体において、それぞれの肉体の状態は異なっているために、たくさんの老人

の食事を考えるときには、どの人々に中心を据えるかということによって、食事の種類が変わってくる。

それぞれの老人の症状に沿って、メニューを作れれば一番よいだろうが、通常食やミキサー食といった物

理的な問題もあるので、栄養素だけの面で、メニューを考えるということは非常に難しくなる。ミキサー

食の人々は、栄養素の低下によって、嚥下障害に陥った可能性があるので、気をつけねばならないだろ

う。栄養素、特にビタミン、ミネラル、アミノ酸などの摂取量の低下が、それぞれの機能低下に及ぼす影

響は計り知れないにちがいない。ビタミン、ミネラルを効率的に取るということは、野菜などの食材だけ

では難しくなってきている。これも、非常に問題である。健康の秘訣は、食事、運動、睡眠である。健康

を維持するということは、ふつうのようなことだが、少しのことで病気になってしまうこともあるから、

気をつけねばならないだろう。老人における精神障害も、ビタミン、ミネラル、アミノ酸、必須脂肪酸の

欠乏によるところが多いらしい。精神にかかわる神経伝達物質の生成不能ということが、大きく関与して

いるようである。だから、それらの物質が正しく行き渡り、神経伝達物質が正常に生成されれば、心の病

が治癒できるかもしれない。心の病は、たいてい食欲不振による栄養不足から始まることが多いように思

える。だから、どんなに落ち込んだときも、無理やり食べるということは必要である。そういうときに

は、梅干しやらっきょうなど食欲増進作用のある食物を押さえておくとよいかもしれない。栄養素と食材

が対比できれば、それらを含む料理を考えることによって、さまざまな症状をもつ人々に合致した料理を

作ることができるようになるであろう。だが、食事による療法の結果というものが現れるには、一ヶ月か

ら三ヶ月はかかるそうであるから、気が長くなければ、こらえられないであろう。

                                       霧山人

不完全な現代文明

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 雲めぐりにおいて、大量の雲が発生していくのが、わかったと思う。晴れ間が雲を呼び、雲が洪水を生み出した。雲の大量発生の原因が熱であることは、霧の発生を調べればわかる。水分が霧になりやすいエネルギー状態が維持されている。もう少し、エネルギー状態が低ければ、水分は霧にならないで水として地表に留まっているだろう。つまり、雲があまりできないので洪水をもたらすような雨を降らせにくくなる。目に見える物質は、汚染しているかどうかはすぐにわかる。だが、熱、目に見えない物質あるいは電磁波なんかは、その影響をはかることはできない。ダイオキシンや環境ホルモンは、目に見えない。だが、害があることは知られている。目に見えないということは、事実と言うものを理解させることを難しくする。目に見えないことがらを、人々に信じてもらうということは非常に難しい。つまり、言葉を尽くしてもわからないものはわからないからだ。それならば、少ない言葉で伝えたほうが有効だ。だから、わからないことは、神様に任せて、天罰とか、ばちが当たるとかいう表現を使ってきたようだ。それで、十分に物事を防げたのだ。癌の原因だと思われる発癌性物質や放射能や電磁波は、現代文明が発達して作られるようになった。原因が目に見えないからといって、因果関係がないというわけではない。癌の発生率の増加と電化製品の普及率の増加傾向を重ねれば、癌の身近な原因は、電磁波にあるのではないかと思いつく。だから、吾輩は二十歳以降、テレビをあまり見なくなった。電化製品は、パソコンだけを常用している有様だ。
 熱というものは、目には見えないが、暑さとして感じることができる。それが熱ということである。皮膚にある温覚・冷覚をつかさどる細胞が熱を感じる。この二種類の熱受容体に分けられるので、五性というものは、熱・温・平・涼・寒というようになるのである。だから、この五性というものは、人間の感覚による主観としては正しい判断だといえる。だが、科学の場合、客観性を重視するために、この人間の感覚による主観を度外視するようになってしまった。さまざまな人間による主観というものは微妙に異なっているからである。条件を統一するためには、感覚の主観によらない方法を取らねばならなかった。つまり、測定器具をつくって、多用することになった。科学が人間の主観を取り去り、客観的事実だけによって、社会を形成し始めた。人間の感覚の主観から作られた社会からだんだんと、客観的事実によって作られた社会にずれるようになってくる。つまり、住みにくい社会になった。人間の感覚というものは、個人個人では誤差があるけれども、人間の感覚における範囲というものは存在する。その強弱をすべて計れば、客観的事実で作った社会は改善されるはずだった。だが、狭い客観的事実というものがある特定の範囲の基準を基にして作られた社会ならば、その特定の基準からはみ出した人間達は住みにくい。そして、その基準から外れた人々を不良と定義した。これが間違いのもとであった。狭い客観的事実といったのは、まだ完全にデータがそろっていないということであって、まだ一部の人々の主観であって、完全な客観的事実ではないということである。そういった不完全な価値基準で、社会を規定しているので、不完全な社会といえよう。つまり、一部を見て、全体を見ているわけでないので、不完全な科学といえるのだ。
 『ガイア理論』というものがあるが、あれは全体を総合的に眺める思想である。そういった全体のつながりを考えてみようということを説いている。個人主義の呪縛から解放されるにちがいない。これは、日本社会、世界全体における視点を考えてみるにも有効である。社会を改善するためには、社会がまずどのようになっているのかを実地において調べなければならない。これが実学に基づく科学というものである。決して、事務的な数値で得られる視点ではない。社会の成り立ちがわかれば、どのように不完全な現代文明を改善していけばいいかがわかっていく。そして、人間の主観が生きてくるような社会とはどのような社会なのかということを、客観的事実によって、形成していくということが重要である。それが人間が住みよい社会とは、どういうことかを知るということである。部屋の中は涼しいが、外に出れば熱いという社会は住みよくはないであろう。そういう状態から脱出するには、どうしたらよいかを考えるのが科学者の役割であって、微細なことや言語上の問題よりも優先されるべきことである。

                                     霧山人

水遣りの効能

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 鉢植えや庭木などの植物に水を遣るだけで、随分と涼しくなる。それを科学の言葉では気化熱を促すか

らという。水が蒸発するときに、まわりの熱を奪って、飛び去ってしまうから、あたりは涼しくなる。植

物というものは、地中から水分を吸って、葉っぱから水蒸気として蒸散させるもんだから、葉っぱの熱を

奪って、葉っぱの辺りを涼しくしていく。だから、木蔭や木漏れ日というものは、やさしくおだやかにな

るのだ。直射日光と木漏れ日では、木漏れ日のほうがやさしいということは誰でもわかる。つまり、この

世にはエネルギー状態の違いがあるということになる。古来の人々は、それを大概“気”と呼び表してお

った。この気というものは、肌に感じられない微弱なものから、自然現象を左右するほどの強大なものま

で、存在する。もっとも強大なものは、原子力エネルギーであろう。たいてい、人々は強さを求めるもの

だが、強さというものは弱いものを感じなくさせるものである。強いエネルギーは、弱いエネルギーを駆

逐してしまうからである。だから、強いものは弱いものを感じる余裕が必要となってくる。強ければ強い

ほど、身動きがとれなくなるのは、自分の強いエネルギーを操れなくなるから、生命の原理から外れてい

くからである。

 生命の原理というものは、ある範囲内のエネルギー状態の中においてしか正常に働くことはない。単純

にエネルギー状態の高い状態とは、温度では熱いという状態である。熱すぎると、物質は溶けてしまう。

これは、生命においても同じで、火傷をすることになる。エネルギー状態を判断するには、人間はさまざ

まな感覚器官や計測器具を用いる。そして、そのさまざまな感覚なんかで、自分の生存するにふさわしい

環境を見つけたり、探したりするものである。もし、人間がふさわしくないエネルギー状態の環境にいな

いで、さまざまな極限状態にさらされた場合、人間は病気になってしまう。だから、病気になりにくい環

境というものも、存在するということになる。生命に適合した環境というものがあるのだ。それはさまざ

まな因子によって成り立っているが、それもそれぞれで見きわめなければならない。まあ、吾輩は植物を

植えて、それに水を遣ることによって、生命に適合する環境のモデルとしている。水遣りというものは、

仕事に忙しい人々には面倒であろうが、植物は水を与えなければ枯れてしまう。これは、赤ン坊を育てる

のと同じで、ちゃんとミルクや食事なんかをしないとまともに育たない。あまりにも強いものばかりが、

のさばっている社会というものは、弱い赤ん坊にとってふさわしい社会ではない。だから、人間より弱い

植物を大切にする社会のほうがものすごく素晴らしい社会であるのだ。部屋の中に観賞植物を飾っても、

水遣りをしないで枯らすような人間が子育てができるとは到底思えない。観賞植物に朝起きて水を遣るだ

けで、すこしばかり涼しくなる。植物を枯らしてしまうということが、科学技術ということならば、月や

火星に移住したほうがいいかもしれない。吾輩は科学技術が植物と相容れない理由もわかっている。その

還元主義は一部分の原理ばかりを見るから視野が狭くて、人間が生きるためには何が必要であるのかを見

落としてしまいがちになるのだ。だから、植物が枯れていても、何とも感じない。何とも感じないのなら

ば、おそらく自分以外のものには何ら興味を持ってはいないだろうことが推測される。植物が枯れていて

も何とも思わないという社会は、人間の生きるのにふさわしくない社会なのだ。社会を人間の生きるにふ

さわしくない環境にしてしまったから、人々はカネを得るためにあくせくと働かねばならなくなったの

だ。そのあたりが気がかりである。

                                   霧山人

エネルギー状態

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 現代社会のエネルギー状態を10だとすると、明治時代の社会のエネルギー状態は5以下であろう。この数値は適当であるが、地球温暖化などで、地球内のエネルギーは飽和状態になって、科学知識による合理主義によって、エネルギーが解放されすぎてしまったようだ。従来は、神秘主義と合理主義が半分程度の割合で、易の思想なんかはそういう思考法だったのだが、それが完全なる合理主義を求めて、あれこれ神秘の部分にメスを入れすぎて、現在のような地球環境になってしまっている。吾輩は、一般の人間は、知らないでもよい知識の方が多いように思うのだ。そういう部分を、神秘主義によって隠匿していたのだろう。オカルトという。吾輩はすべてを合理化して謎を解明したとしても、幻想を抱けるだけの柔軟さを許容する社会というものを望んでいる。だから、幻想というものを大事にするのだ。それは夢ともいうだろう。たしかに、現実は厳しいが、現実を厳しいと思っている人々が多数いればこそ、現実が厳しくなるということも心理として成立する。そうなれば、現実は優しいものだという人々が多数になれば、その社会も優しくなるということも心理である。これが民主主義というものであろう。
 優しさは仁でできてる。つまり、思いやりである。料理を作ってやるときも、食べる人を気遣って作れば、優しい料理が出来上がる。だから、人の心がわからない人に食べさせる料理はないのだった。優しい社会をつくるには、人々が厳しい現実を緩和して、もっと穏やかなエネルギー状態にまで戻してやる必要がある。烈しいエネルギー状態の世の中だからこそ、地球温暖化は止まらないのである。もっと、怒りを抑えて、穏やかに、心を静める修行をする必要がある。世の中、怒りに満ちている。つまり、高いエネルギーに満ちているということだ。穏やかな社会は、もっと低いエネルギーの状態にある。そうするためには、烈しい性質の物質を除去していく必要がある。物質と精神は密接であるらしく、微量の物質が精神に作用するらしいことがわかっている。その代表物質が環境ホルモンなどである。ハーブの香りが精神を穏やかにしてくれるのは、微量でも精神に影響を与えるからだろう。しかし、現代社会は、そういったか弱い微量なものはないがしろにするような社会であるから、精神性よりもむしろ物質のほうを重んじる傾向がある。つまり、眼に見えるものがすべてであるらしいのだ。確かに、空気は眼に見えないが、空気がなければ生きられない。そのような微量な物質をないがしろにするという精神性が現代文明の病巣となっているのだ。眼に見えないものを信じられないということは、本当に実存する微量な物質にも気付かないということであろう。そういう精神性で人類が進むのならば、その微量なものの不在によって、滅亡してしまうということになる。だから、吾輩は神秘主義を復活させようと、幻想までに高めたのだ。神秘主義とは、知らないことは知らないということである。だが、そういうものが存在するということだ。謎が解明されるまで、心理を満足させるまでに存在し続けるものである。しかし、科学がすべてを解き明かしたところで、その言葉が莫大に膨れ上がっただけで、それが一体どこで役立つのか、わからない。それならば、わからないときと同じであるのだ。人類に役立つようになってから、世の中に飛び出してくるべき言葉たちも存在するのだ。それまでは、穏やかな神秘の世界で、世俗は満足しているだろう。言葉とエネルギー状態の研究というものが、おそらく言霊というべきものの理論的位置づけになるだろうが、言葉の世界は四次元的に並べねばならないので、非常に難しい。現実を知るために、作られた言葉だから、現実と言葉が合致したときに、言論と言うものにはパワーが乗っかってくるのである。それが言論の本当の力である。それが時代に言葉がのっかるという現象だ。穏やかな社会にするためにはどうすればよいのか。それは、熱化していく環境や精神をもっと静めるのが一番であるのだ。穏やかな物質、草木を植えたり、野菜のスープを拵えたりするだけで、随分穏やかな社会になるのだ。

                                     霧山人

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