平成17年4月6日から平成23年9月6日までのブログ

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冬月研究所

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コンビ二畑

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 農業というものは、いかに食費を浮かすかを工夫するために必要である。空想というものは、現実を踏

まえるための乙案である。だから、これは実行に移すための甲案ではないことは当然である。実行に至る

までの代案であるということであるのだ。もし、金品が不足して、食料を得られない場合、どのように工

面するか。また、余裕がある場合にも、少しでも貯蓄のために、どうすればよいか。農業を用いるのがよ

い。農業と言っても、何十ヘクタールもの土地は必要ない。なぜならば、商品作物をつくるわけではない

からである。かつての農家は、町人や武士たちを賄うために、広大な田畑をまかされてきた。だが、今は

どうだろうか。農家を傷つける階級は何もない。農家を傷つけるのは借金漬けだけであろう。もし、自由

な農業が実現できたら、園芸感覚の農芸というものがうまれてくるにちがいない。その農芸というもの

は、田舎の農村地帯を田園に変える内容を持つ。その内容は、だんだんと膨らんでくるであろう。知識だ

けの学問から、実社会に沿った学問をすれば、農業に行きつく。だが、都会に住む多くのサラリーマン

は、町を離れられない。これは、悲劇であるが、田舎のサラリーマンは、残業がなければ、コンビニのよ

うな田畑を作ることが可能である。コンビ二には必要なものが売っている、その感覚で健康維持に必要な

作物を多種類植えるのである。その作物の選択方法は、栄養学を基にした要素の作物がよい。そして、そ

の作物は一体どんな料理に活用できるかを勉強しておけばよい。料理法を知っていれば、自分で高級料理

をこしらえることができ、さらに経済的である。健康に注意した料理が作れれば、病院代がいらないの

で、さらにお徳である。そこまでできれば、少ない収入でも、かなり豊かな生活が築けるのではないかと

思う。カネの力では、自由が得られないので、それを工夫で得ようということなんである。

                                   古城 啓介

不老不死の研究

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 冬月研究所では、経済・社会の研究の他に、不老不死の研究が委ねられてしまった。冬月は、不死化す

るための遺伝子とは存在しないと言い張る。私としては、詳しいことは知らないけれども、一応、文献を

探して、チェックしている段階であった。冬月は、どんどんと本草の知識を持ち寄ってくる。そして、私

に、その整理をまかせっきりで、中村先生と二人、ぶらりとどこかに行ったっきりになっている。冬月

は、不老不死を目指すならば、不老不死の薬を探求するよりも、不老不死の環境を探求したほうがよい

よ、というのだった。小さな天秤、大きな天秤? ともかく、長生きの秘訣は、環境にありというのだ。

確かに、分子生物学や細胞学などを修めている冬月が言うのであるから、正しいのであろうが、まだ私に

は彼の言うことがよくわからないのだった。突然、料理の世界に踏み込む始末だし、また、どっかにふら

りと旅に出てしまった。まったく、冬月は、気違いなんじゃないかと心配している。

                                     古城 啓介

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冬月は、研究の方向性について、二点の視点から進めている。なぜ、二点なのかといえば、現在と過去の精神性を比較するためである。現代人の生活や思考法というものは、人間という種が長年培ってきていた精神性あるいは人間性というものから、どのくらい変化してしまったのかを探っていた。つまり、過去の人類の精神性というものが、人類を生存に導いてきたものとして、新たに見直されるべきではないだろうかという視点があった。現に、それらの精神性が喪失してから、この世は乱れてきたと感じる人々が増加してきているようだ。
過去の精神性とは、宗教であったり、倫理であったり、道徳であったり、様々であるが、それらを合理的に解釈し直し、現代人が理解し必要性を覚えるものとして説明し直さねばならないのだ。そのことは、このグローバル社会においては、さらに重要である。この発端として、冬月は自然と文明の共存の切断面といえる、環境と科学の協調的関係性に注目していた。この環境と科学というものは、物質的視点から捉えねばならず、自然と文明といえば、精神的視点で捉えねばならない。また、物質と精神というものは、相互依存関係にあり、どちらが中心であるかという議論は適切ではなく、どちらかが存在しなければ、もう片方も存在しなくなってしまうのだ。我々、人間というものは、まず、精神の方を変換しなければ、周りの物質を変化させることはできないものだ。現実でいえば、部屋を片付けるためには、頭の中をきれいな状態にして、心を落ち着けねばならないのと同じである。これを、さらに推し進めて、社会に反映させようとすると、社会人の意識が清浄な心を生み出さなければ、環境は良くなってはいかないのだ。
このことは、環境だけでなく、経済でも同じであり、どんなに一個人、一公人が経済を活性化しようと思い巡らしても、それが社会全体に波及しなければ、経済効果というものは空想に等しいものとなってしまう。絵に書いた餅をどうやって食うかという議論ではなく。現実的に、もち米の種籾をどう工面し、どのように田んぼに蒔き、育てていくかを計画して、実行してくかが大事である。さらにどのようにして、もち米を餅の形状に仕上げていくかまで行わなければ、餅を食うことはできないのだ。自分の頭の中に巡らした構想をどうやって、現実の物質に反映させて、動かしていくかが実行力として問われてきている。これが欠けている今の政治力は、パフォーマンス的といわずには居れないのだ。
以前、冬月が行ってきた速川の地で出会った神々はすべてが大祓詞に出てくる神々であった。大海原に罪を持ち去る瀬織津比売、渦潮のように罪を呑み込む速秋津比売、罪を息と共に地底の国に吹き放つ息吹戸主がいた。しかし、そこでも出会えなかった神がいた。それは最終的に罪を持ちさすらって無くして下さる速(はや)流(さす)離(ら)比(ひ)売(め)であり、地底の国に住んでいるようであった。そのことは、我々がバブルで犯した罪汚れを精神的に洗い流すことから、縁遠くなったこととも関連していた。地底の国を探索するのも一興であるが、それは老後の楽しみとしておくとしよう。とにかく、「祓え給え、清め給え」という言葉に代表される、精神の清浄さを取り戻す言動が、文明に汚染された心を、古代人のような自然な心に近づけるためのきっかけになるに違いない。文明と自然との共存とは、文明社会に生活していても、自然の心を忘れず、その心を文明社会に融合させることなのだ。これは、日本人的な方法論なのかもしれないから、もっと違った言葉でも、自然と文明の共存を説明する必要がありそうである。
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文明と自然の共存ということが、持続可能な社会形成のために必要なことは自明の理である。「調和」とか「統合」の関係が求められた。冬月が生きていく21世紀は人類の繁栄期とも衰退期ともいわれている。今生きている人々が従来の20世紀文明を忘れ捨てない限り、人類の進展は後退へと向かう。その予兆を一部の知識人は認知しているに違いないが、実業家や政治家の多くはそんな世界の大局を見つめているものが数少ない。そこを嘆いた冬月は市井に身を窶(やつ)し、社会の研究と装って、厭世的な世渡りを続けるのである。
冬月は現実に出会う様々な出来事に対し、文明と自然の関わりを踏まえて、熟考する癖がついていた。そのことは、冬月を取り囲む社会の具象を見つめることから始まっていた。専門家の言葉というものは、あまりにも抽象的であり、そうなのかもしれないが、どのようにすればその言動が波及していくかを教えられることはなかった。対立から共生への変革が必要であると知らされても、何をどのように行い、思案すれば良いかは全く掴みようはなかった。エネルギーの大量消費をやめるといっても、庶民には大量消費などとはいえない、取るに足りない消費だし、代替エネルギーに変換するにしても資金があるわけでもなかった。
冬月は研究所の中にある書斎の机を前に、例のノートを開き、自然と文明の共存、さらに経済と産業への影響、思想・哲学の対立などを交えて、思索タイムへと趣いていた。考えているうちに、コーヒーはすっかり冷めてしまっていた。だが、冬月の熱意だけは冷めやらぬ温泉である。
対立から共生へ、というテーマというもの自体がテロリズムによる無差別攻撃によって遠ざかっていく。北朝鮮問題やイラク攻撃にしても、対立姿勢の現れそのものとなった。だが、その出来事自体が20世紀文明により利潤追及してきた者の隠れ蓑に利用され始めていた。自然と文明の対立というものが、都市の発展を生み出してきたが、都市と自然の隔絶が公害を生み、精神病も生み出していた。その反省の上に、今日の社会は成立していると信じたいが、実は未だに利益追求と保身の元に、この社会を動かす実力者の姿が見え隠れしているのであった。その利益追求と保身によって、経済と産業はやせ細っていき、いまだに「共生」という理念まで到達することはなかった。自然界において、朽ちた老木は倒れた後も若木の成長の糧となるが、この社会の人々は若者の生存に貢献するどころか、その生命までも脅かそうとしている。若者の雇用が少ないし、結婚や生活も困難な社会だけが残されていく。ここまで自然の摂理というものを喪失した文明社会の秩序というものは、まさしくコンクリートのボロボロと崩れていく様と重なり、荒廃した砂漠のような光景を生み出すに違いなかった。
廃棄から循環へ、ということも自然の摂理そのもので、生態系から物質循環、経済活動にまで及ぶものである。化学物質の製造は、分解や物質循環系の範疇外に及ぶ物質を生み出し、それと同じように、都市社会というものも、経済活動の循環を狂わせてしまう要素を多く生み出していた。循環ではなく、徴収のような経済になってしまった。農民から武士が年貢を吸い取るように、田舎から都市へと貨幣が一方的に流れていく社会。年貢となった米には種があるが、貨幣には種のような一粒万倍となるような要素は見つけにくい。貨幣の流れは人の流れと重なり、過疎化を生み出していた。人々が仕事よりも、カネで遊ぶということは、そのカネは廃棄されているのに等しい。その生かされぬカネによって、社会全体の経済循環が崩壊していく。
大量生産、大量販売、大量消費による増収増益ができなくなり、大量廃棄を再利用していく。数々のスーパーやデパートが淘汰されていく。棲み分けを怠り、多角経営に手腕を染めていった当然の報いである。大量廃棄に関わる産業が貨幣経済の循環に組み込まれれば、ある程度の大量生産、大量消費の容認ができるようになる。だが、それは十分な環境産業と呼ばれる分解者が調わなければなるまい。科学というものは、本来、自然と神を知る手段として始まっていた。だが、いつの間にか、自然を征服して、神を超えようという欲望へと変化していった。その欲望がやがて自然との接点を減らし都市に埋もれることで、人間が自然を征服したという幻想へ現実逃避していくことになった。それが現代都市文明による擬似的楽園の創造となり、バブル経済を生み出していくことになる。そのバブルが生み出し、大量の夢の残骸が大量の廃棄物として山積みされていた。この廃棄物を見つけた人々は、都市文明の儚さを知り、人間性の回復ということに目を配り始める。あの地下鉄サリン事件や阪神淡路大震災の惨劇の中、人々が人間とは、幸福とは、と忘れかけていたものを見直そうとしていた。その中で科学というものも、自然を見つめるための手段であったという初心に戻る学者たちも出てきていた。まだ、社会に影響力を及ぼすレベルではないかもしれない。しかし、そのような人々の広がりが社会を覆い尽くしていった果てに見える未来は繁栄に続いている。
欲望から抑制へ、という人間の精神の回復というものが求められる。快適性、利便性を追求してきた人間は、それでも、もの足りなさを感じ始めている。人間が行動をするということ自体が失われていた。ゲームをする子供たちは、快適性・利便性の追及されたマネー社会では生きるに適した頭脳を形成されている。そのゲーム社会では、自分の欲望を満足させることが目的であった。点数を集め、道具を集め、ゲームをクリアすることが、欲望の消化となっていた。そのような人間の形成する社会は、与えられた仕事をこなすことはできるが、与えられてはいないが解決しなければならない問題に気付き、取り組んでいこうという人間を生み出すことはない。つまり、その社会自体の致命的欠陥の存在が、その社会を滅ぼしてしまうまで、大きくなってしまうのだ。そのことに気付いた人々は、快適性・利便性の罠から抜け出そうと、スローな生活を望み始める。自分たちの足下は大丈夫であろうかという確認作業というものが、その活動の心理なのであろう。
抑制という言い方は、「足るを知る」という言葉である。すべてを抑制することは文明自身を拒絶することになりかねない。だが、消費こそ美徳という幻想は、過剰な物的氾濫を生み出していた。「欲しい」という一時的な衝動が生み出す部屋に積まれた品々は、ゴミの予備軍であり、思い入れの少ない、心を満足させることのない空虚感の現れであった。精神の空虚と物質の過剰は、バランスのとれない社会の状況である。「足るを知る」ための節約という考えが必要であろう。
朝になっても、まだ、冬月は眠りにつくことはなかった。まだ、答えが出ていない。持続的発展が可能な社会というものの姿が頭に映像として浮かぶまで、その思索タイムは続いていく。冬月は冷たくなったコーヒーを飲み干し、カップに温かいコーヒーを注ぎ込んだ。冬月は胃に優しいアメリカンが好みであった。西部開拓時代に貴重なコーヒーを長持ちさせようとの智恵が口の中に広がっていく。冬月は百年前のイメージが頭に浮かび始める。自然の豊饒の広がりと共に、文明の芽生えが育まれる時代が見える。

景気回復へ9 古城啓介

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慎二が勤めている会社というものは、今の日本と同じように問題をたくさん抱えているのだった。現状を維持することに追われて、改善させることにまで手が回っていかないのが現状と言わざるを得なかった。しかも、誰がその改善策を実施していくのかということだけに問題が集まっていたのだった。そういうわけであるから、いつまで経っても、問題解決への糸口には触れることがないのである。これは現在の日本の景気対策へも言えることであり、誰が行っていくかということが問題ではなく、どのような方法で原因を究明し、改善していくかの方法論が問題なのであった。
しかし、何処も同じであるが、現状を維持するということを重視し過ぎて、何故、このような事態に陥っているのかという原因が見えなくなってしまっていた。不景気であるという現状に目をつぶって、闇雲に対策だけを思案して実行しようと試みる。だが、原因の芽を摘み取らない限り、慎二の会社にしても、日本の財政にしても、良い結果へは結びつかない。そのことを北朝鮮の話題で巧妙に、煙に巻かれているのだった。
慎二の製造会社では、とうとう、ボーナス・カットに加え、二回目の給料10%削減という事態に陥っていた。先月の売上げは、やっと黒字を回復させたが、製品の不良によって、かなりの損失が増えていた。大量生産をすればするほど、損失リスクが高くなるという、悪循環に陥り兼ねなかった。社員は、残業に次ぐ、残業で、ストレスが頂点に達し、残業手当もつかないという境遇に陥っていた。失業率の悪化により、転職するということも難しくなっていることが、その背景にはあった。慎二もいつの間にか残業が増えている。
久保田主任においては、もはや、一ヵ月ほどの残業と休日出勤により、ストレスと過労が極まっていた。慎二にしても、毎日が胃の痛みと食欲不振に苛まれるのであった。肩から背中にわたっての重く圧し掛かるものが、体調を悪くしていた。それでも、残業はなくなることはなく、仕事をしても、まったく、変化の訪れない日々が続いていくのである。
このような状況に陥ってしまったのは、決して主任ら従業員の問題ではなく、すべては会社の始まって以来、先送りされてきた負の蓄積の結果であった。我々が引き起こした原因ではなく、先人の引き起こした、いわゆる負の遺産を清算せねばならない後継世代の重荷は並大抵のものではないのだ。バブルや技術革新で、調子にのって大事なものを喪失してしまったツケというものが我々や子孫の肩に無責任に預けられて行く。我々は会社(国家)のシステムのみを受け継ぎ、真の仕事への取り組み(精神性)ということは伝えられてはいないのだ。先人たちは、カネを使うだけ、使って、あの世に旅立っていくのだ。せめて、自分の汚物ぐらいは処分していって欲しいと願う、慎二であった。
過去に大人たちが子孫にこのような処遇を与えたまま、この世を立ち去ったであろうか。過去の偉人は、少なくとも生存の可能性を残してくれた。だが、我々はそれを自分の手で切り開くしかないのか。この不公平さを嘆きながらも、この会社を、また社会、経済を改善していかねばならない現実があった。仕事の過労で死んでいった人々に、涙の一つでも零(こぼ)してやれたのだろうか。失業で仕事をすることができない人々に希望を与えることができるのだろうか。
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慎二は、そろそろ今の会社から身を引こうと考えていた。慎二は高原町の皇子原と高千穂峰北麓との間の森林にある彼所有の研究所に戻ろうと思った。慎二の別名、冬月とは、このWinter Moon Laboratoryにおいてのコードネームであった。このネーム時の慎二は、あらゆる分野に対し興味を注ぐ人物であった。研究資金が費えたとき、冬月は慎二として、出稼ぎに出るのであった。資金ができると、冬月は研究室にこもり、様々な思索を試みるのであった。
冬月の研究課題は、自然と文明の共存がテーマといってよいが、その守備範囲は理系文系を問わず、古代から現代まで多岐に亘った。特に、科学へのこだわりは半端ではなく、伝説や伝承においても、地質学や遺伝学の裏付けなしでは考えないくらいであった。そのような冬月を理解する者はなく、周りからは変人の追称を与えられていた。だが、生活するために、冬月は慎二に成りすまし、たくましく様々な職種をこなしていくのだ。
慎二は様々な職業遍歴を持っている。コンビニ販売員を始め、ガソリンスタンドの店員、営業マン、様々な工場の工員や検査員、肉屋さん、木材市場、ドブさらい、すし屋の皿洗い、屋台のアルバイト、世論調査など、数えあげればキリがないくらいだ。そのため、彼の家族からは仕事が続かないと嘆かれつづけた時期もあった。だが、それらの仕事で蓄えた資金で小さな掘建て小屋の研究所らしきモノを建てると、自分の世界を作り上げることに専念した。冬月は慎二として歩んで来た社会遍歴によって、この社会のモデルを掴もうとしている。その一言として、やはり、この社会は数十年前よりもかなり疲弊していると感じずにはおれなかった。
労働条件の悪化や雇用の激減、モラルの低下、さらに勤労意欲の減退など、末期的状況にいると認識していた。最初の労働条件から段々と厳しい労働条件に変えられるし、言わなければ健康保険や年金もつけてくれないのも普通であった。とにかく、雇い主が強く、役所の声などあってもないに等しいのだ。この社会では正義がなく、人間が生活するよりも、カネを生み出すことが最優先される傾向があった。これでは人間自身が創り出している社会にもかかわらず、人間は幸せにはなれないという恐ろしさがあった。
また、カネ回りの良いところと、カネ回りの悪いところがあるらしく、ポンと百万円と出せる人種の存在がやるせなさを感じさせるのだ。カネ回りが悪いところほど、過酷な労働を強いられ、それなりの報酬は見込めない社会がある。そこに活気を生み出そうとしても、病気と赤字が増えていくというところもあった。そのように、腐った組織を持つ社会が日本の内部に点々と病巣のように存在する。高額をつぎ込み、公民館を造ったり、公園設備を整えたりしても、人々が集まることのない、無残な夢の後先が転がる地域も数多かった。
かの江戸時代には、90%以上が農民であり、自給自足が当然であった。しかし、それから考えてみても、現在の自給自足の意識を保有している人々の何という数の少なさであろうか。昭和三十年代では、まだ自分の食糧は自分でまかなえるという人が多かったが、今では多数が食糧はカネを稼いで、カネでまかなうという考えになっている。つまり、すでにカネなしでは生きていく手段を与えられることもないのだ。この意識の変革が社会の構造や人間自体を変えてしまった。木城町で武者小路実篤が「新しき村」という自給自足の生活を志して失敗したのが今でも象徴的である。そこのところのバランス感覚が、文明と自然の共存ということになるのかもしれない。そこに人間の社会というものの難しさがある。
冬月が天孫降臨経路を探索している途中で、大淀川第一発電所のある轟ダムにやってくると、そこに水生の浮き草の密生したダムの湖が広がっていた。その光景を見て、その美しさに目を奪われていた。山々の間に淀んでいる水面に空の雲片の白が反射し、それを覆うように濃緑色の浮き草がダムの存在までも包み込んでいる。その浮き草が一瞬、ハスの葉に見え、そこに観音様が座しているような輝きがそこには見えていた。一匹のフナが湖面に波紋をつくり、冬月をそちらの世界に誘っているようでもあった。そこに、自然が文明を優しく包みこんでいる姿があるのだ。そのような自然に対する美意識や畏敬の念とやらを持つ人間も激減してやしないか。
このような調和を見つけるということも、冬月には欠かせない。このぎすぎすした社会で、自然らしい心を傷つけられたとき、いつも、そのような場所を求めてしまう。周りの自然を失いすぎて、人工物によって形成された心は繊細さを失っている。その刺々しく、角々しい心というものが、カネを媒体に単純化された社会を形成していくのだ。そのような社会では、ヒトを思いやることも、合理的でもあるが、情が残るというバランスのとれた人格が生まれにくい。破壊によって生じた精神からは、何も生まれては来ないのだ。
何事もバランスが肝腎ではあるが、そのバランスを万人にわかりやすく、説明することもまたむずかしい。この世の中には、様々な人間が住んでいる。化学物質の氾濫した社会もある。人間性が問われる社会もある。人間の生存に必要不可欠な自然環境があり、さらに文明技術も存在する。そんな複雑系から、何を壊さずに、何を捨て去っていけば良いのかを見極めなければならない。そのための研究というものが、冬月の仕事なのである。やがて、冬月は工場を辞めて、研究に没頭することになる。

                                 つづく

景気回復へ8 古城啓介

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冬月は通常の生活に戻ると、慎二という別の顔に戻る。これは別段、精神統合失調症というわけでもなく、名前の使い分けによる気分の違いに過ぎなかった。だが、過去においてはカウンセラーに通うほどの精神の痛手を被っていた時もあった。その精神の痛手というものが噴出しないように、故意に名前をつけて、そのストレスを発散するのだった。
慎二は、会社の過去を清算するために、構造改革を推進していかなければならなかった。悪況の中でも、現状を維持し続けようとする抵抗勢力との静かな戦いである。偽証・隠蔽・怠慢体質の従業員に、無意識的に、意欲ある向上心を植え付けねばならない。そのためには、ゴマ化しながらも、仕事の楽しみとやりがいを導いていかねばならないのだ。慎二はとやかく言うよりは仕事を実行していくのだった。
会社というものは、何よりも採算というものを重視するものだ。そのことが、最近の様々な不祥事の原因となっている。確かに採算が合わなければ、倒産の憂き目にあってしまうかもしれない。その視点にばかり、目がいってしまっている事が向上心を失わせていた。カネは天下のまわりモノである。採算を合わせることだけ考えていたから、採算に見合う仕事自身が疎かになっていく。そのツケというものは、重く大きく膨らんでいく。これは国家であろうと、企業であろうと、同じ精神構造を孕んでいた。
慎二に謂わせれば、カネを仕事より重視する人が多数を占めるから、採算が合わなくなるのだ。カネより仕事を重視すれば、仕事の量が大きいだけ、後々カネのプラスが蓄積されていく。今はカネを重視するから、仕事のマイナスが蓄積されていくのだ。すると、後々カネはマイナスを被ることになる。つまり、これからはカネよりも仕事重視の人が多数にならなければ、まさに日本は破産してしまうということになる。成功というものは、カネは後からついてくるということが当然なことなのである。
慎二は残業を続けながらも、怠慢をいましめる。自分に厳しく、他人には優しく努めていく。今まで機能していなかったシステムを作動させるために、さらに気付いてもらうために、小事であろうとも、片付けていく。品質管理というものは、製品が型通りにできているかを確認して、保証する部署であった。慎二としては納得できない製品であっても、客に売らなければならない場合が多かった。それは、会社の都合上、致し方ないものと思っていたが、品質向上という修正を少しでも加えていけば、改善へと向かうことに気付くのであった。
だが、改革というものは一筋縄ではいかないものだということに、慎二は悩まされた。特に、そこに利益の問題が絡んでくると、改革は進みがたくなる。現状維持を続けながらも、修正を加えていくという作業は根気がいるものだ。上司は様々な難題を投げかけてくるために、通常業務ですら、おぼつかない状況に何度も陥っていた。だが、その難題を成し遂げることは、鍛錬であるという考えにおいて、乗り越え続けるのであった。乗り越え続ければ、周りも変化せざるを得なくなる。どんなに困難なことと思えることでも、乗り越えてしまえば、それをできないと思い込んでいただけであると気付くものだ。それを気付かせることができれば、後は自然と動き出していく。
慎二が残業生活をしている最中、小泉純一郎首相は北朝鮮に向かっていた。様々な懸念が示されている中、飛行機を降り立つ小泉首相は毅然とした態度を崩さなかった。そこに一介の侍の姿が見える。それをけなす連中はきっと嫉妬しているだけにすぎない。自分自身が侍のような行動ができないから、ただ、言論によって罵るだけである。そのような中、人間として当然の結果といえる、正常化交渉への進展が成立していく。
拉致という問題をあれこれと騒ぎ立てているが、これ以上の拉致者が出ない状況へと進むことが望ましいといえた。この拉致事件の犠牲者に対しては何もいうことができないほどの無念さがある。だが、過去においては、日本人は同じ過ちを起こしていた事も事実である。過去をとるか、未来をとるかの選択でもある。朝鮮の人々を連行して、炭坑で無理やり働かせていたし、従軍慰安婦のようなこともしてきた。これは拉致と同等の行為であることは否めない。拉致事件の補償をしてもらい、両者ともが遺恨をのこすことのない方向へ進んでいかねば真の平和というものは訪れ得ない。北朝鮮という国は戦争中の日本と同じ思考が残っていたのだ。日本人は過去に目をそらすために、北朝鮮をののしるのだ。早く国交正常化して、離れ離れになった人々が容易に出会える世の中になってほしいものだ。
北東アジアの和平が進展しても、日本経済に対しては進展が見えてこない。日本銀行が銀行株を買うという、戦後におこなったような策を採ったにもかかわらず、その信用は向上していかなかった。権威というもののおぼろげさが見え隠れしていた。だが、それでも日本経済を再建しなければならないという意気込みだけは好意に値するのであった。仕事に対して堕落した文明社会の維持という問題がここに来て大きく立ち塞がっていた。この問題というもの自体が、我々、大人が先送りしつづけてきたものでもあった。
便利さが極まってくると、人間が怠惰に染まっていく。その怠惰さが社会の根源を揺さぶり始めてくる。慎二はラジオを聞きながら、その問題に思考を捧げていた。すると、ラジオの中から、興味深い発言が飛び出してきた。
「このようにハイテク技術で便利になった時代だからこそ、ローテクといわれる物事の面白みが見えてくるという事もありえる。囲碁がはやりだしたり、筆を使う若者が出てきたりするのも同じだ。」
「なるほど。」、と慎二は思った。
ハイテクが使えるからといっても、結局、電気がなくなれば、それは無いものと同じになってしまう。それではいけないから、ハイテクが担うものの基本をしっかりと身につけなければならない。そうでなければ、異変が起きたときに簡単に人類は滅亡してしまう。
「これからの教育はハイテクもローテクも両方ともできる人間ができてこなければいけない…。」
そのような言葉とともに、慎二は自分が目指しているものが見えてきたようだった。
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慎二は毎日毎日、赤字体質の改善のために奮闘していた。かなり、工場内の製品に対する心掛けが良くなり始めていた。今までの先送りと虚偽の上塗りで発生した現実改善とのズレが、書類だけの仮想改善に陥るのを防ぐために、毎日の仕事をこなしていく日々が続いていた。現実を改善させるためには、毎日の仕事の完了が最低限であった。とにかく、最悪なことでもぶち当たり、砕けようとも、改善していくという気力だけを頼りに突き進むだけである。
日々のクレームの山は過去の蓄積であるという事を忘れず、現在の仕事の結果が来期に現れてくることを心に信じた。現在の低迷というものは過去の仕事の結果に過ぎず、現在の成果が駄目であれば、さらに改善していく努力を惜しんではいけないのだった。品質管理部の仕事が、単なる製品のチェックから、製品の品質向上や問題発見にまで至るようになるほど、仕事は進展していた。この進展は慎二をはじめ、主任共々、日夜の労働の賜物であったのだ。どんな抵抗も無視し、巻き込んでいき、改善の恩恵を味わいさせるのだ。
その改善のおかげで、無駄な残業時間というものが激減していった。客先とのトラブルが多発したこともあったが、「雨降って、地固まる」というごとく、互いの疑念が消し去り、信頼がかえって高まっていったのだ。やはり、大切なものは、客先に欠点を隠すのではなく、欠点でも誠意で改善の心を見せることであったのだ。それをやらなければ、いつまでやっても先に進むことができないと気付く慎二たちであった。
そんな折、株価が急激に低下し、バブル崩壊最安値を下回った。不良債権問題やデフレ改善策の無策がたたって、経済の指標ともいえる株価に影響を与え続けたのだった。また、北朝鮮の問題によって、経済への関心がそらされた懸念も無きにしも非らずであった。先日、小泉内閣が改造を行い、竹中氏が経済改革に対して一本の策を編み出そうという地場ができた。だが、たとえ、公的資金を投入したとしても、単に投入しただけでは、効果の有無を国民に明確に示し出す事はできない。従来のような公的資金の投入は、ヤブ医者が原因不明の病気に対し点滴を打とうと考えるのと同じである。やはり、病状と効果を考えた処方箋を考えて、投じるのが名医の行う治療というものであろう。
そういうことを考えては、「日本の底辺で景気を支え踏ん張る会」の会長・慎二は、来年の景気回復に対して、手ごたえを感じ始めていた。慎二の会社にしても、日本にしても、最悪という膿は出尽くしたかに見える。その膿というものをひた隠しに隠してきた結果が現在の不況なのであった。改善するためには、不正を顕わにしなければならない。その後の信頼回復は、不正に対する誠意ある対応にしか見当たらなかった。隠すということは、嘘の上塗りで破局に近づく。不正を乗り越えて、不正を悪と認識した人々だけが改善という美酒を味わえる。
そのような信頼回復の積み重ねが日本社会を健全にして、さらに日本経済にまで復調に導くといえた。労働条件や賃金の回復など、日本企業が取り組むべき問題は蓄積しているが、仕事がしっかりできなければ、土台から崩壊するだけである。それを食い止めるために我々は働き、失業者を減らせるように企業の利益を増加させる改善を推進していくだけであるのだ。そのために慎二は自分の働く会社を向上させるために腹をくくっていた。


                           つづく

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