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冬月は、北朝鮮について考え始める。北朝鮮といえば、高句麗かと頷くのだった。北朝鮮の人々とは、まだ感覚として、近代というものを知らないで、むしろ高句麗という昔の歴史観の方が強いであろうと推測した。だから、金正男氏は難ともなしにディズニーランドに行こうとしてしまった。国境や主権国家という考え方が未熟であったのだ。だが、やっと、北朝鮮は自分たちの周りの世界が、自分たちの世界観と異なるものになっているということに気付くのだった。近代化したら生活が良くなると気付いたとき、心をひらこうとする。昔の日本人がそうだったように。
それと同じように、最近まで中世以前を貫こうとしてきた国があった。今、復興が進んでいるアフガニスタンであった。タリバン政権は、日本でいえば江戸時代を続けようとした連中であった。先進国という人々は、近代化がされていることを当然と考えているみたいだが、依然として中世以前を保持しようとしている者たちもいたのだった。そもそも、近代とか中世とか、欧米的な発想に過ぎないので、その選択は自由なのであった。ただ、近代化した方が生存には適してくる。
イラクという国家は、メソポタミア文明を抱えており、そのプライドがアメリカに対して、その影響下に置かれることを好まないのだろう。その心境を察しなければ、いつまでも敵対関係は終わらないだろう。つまり、押し付けがましい、おせっかいの民主主義という名の宣教師では、変えられない思想があることに気付かねばならなかった。パレスチナ問題にしても、歴史という鎖につながれた思想がつくりあげた心理というものを理解しなければ解決は進まない。先祖が果たせなかった歴史を踏まえた議論ということなしに、世界の問題に接近をすることができないのだ。その民族の歴史を知るということは、その民族の存在を知ることであるからして、重要である。
そのことを忘れていたアメリカは、超大国になった時点で謙虚さと気配りを失っていた。その結末が、あの同時多発テロによる世界貿易センターの崩壊であった。ワールドという言葉がアメリカ中心主義自身となっていたことが破壊されていた。途上国による「世界は俺たちも含まれているのだ」との叫びのようでもあった。独尊を続けたアメリカが地球という視野に、目を覚まさせる出来事が起きていた。
何度見ても、あのビルに飛行機が突入する姿は信じられない。あの飛行機が存在し、あのビルが存在していた時間は、全く変わらない平穏が続いていたはずだった。しかし、ビルが炎上し、上から下まで轟音とともに崩れ落ちると同時に、人々の平穏も理性も崩れ落ちていた。今までのアメリカ人の思想が強烈に批判されたような衝撃が現れていた。だが、自我の強いアメリカはあごにパンチを突然くらって、意識が遠退いてきても、報復攻撃をおこなっていく。人間は強烈な批判に対しては強硬な姿勢を現すものである。やはり、アメリカもイラクも同じ人類なのだなと冬月の心が唱えていた。
日本が近代化を推進し、成功したのは、欧米諸国が強引に近代化を勧めなかったからだろう。だが、歴史が進むと共に、東洋と西洋の価値観の違いにぶつかり始めるのだった。それと同じ価値観の違いが戦争の引き金になりつづける人間の歴史がある。だが、この価値観の多様性が認められれば、地球という世界は一つになれるほど、時代は進んでいた。
ビン・ラディンという人物は、すでに★になっているであろうが、スーダンにいるときは、独自の組織と思想で発展をさせようとしていたようだ。だが、スーダンを追放されて、アメリカを敵と見なしたことが、歴史の過ちとなっていく。両者が理解不能に陥ったとき、敵対関係になっていくという負の連鎖が生まれた。そこでは、もとより対話という手段が重要であった。自分が持っている世界観と異なるものが存在する時、それを融和させるか、破壊するかという選択がある。日本人は融和させることを得意とする民族であるようだ。だが、砂漠の民族は、融和を苦手とし、破壊するという思考に走っていく。
その考え方を変えるためには、緑の木々を増やすことが重要である。生か死かしか存在しない砂漠では思考が破壊に向かいやすい。生存の選択肢の多い森をつくればよいのだ…。報復の連鎖を取り止めた例が、戦後の日本人でもあった…。小泉首相は広島原爆記念日、終戦記念日から別人になった。これが訪朝へのきっかけかもしれない…。深夜遅くまで、冬月は世界のことを考え続けるのだった。
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やがて、慎二は「日本の底辺から景気を支え踏ん張る会」の声明文を考える時間もなく、仕事に追われることになる。現実というものは、思った以上に過去の放蕩ぶりが大きく、複雑で仕事量が多く、どうしようもないものに思われるのだった。しかも、現実では前世代に創り上げられて蓄積した仕事にすがりつき、カネだけを稼ぐことが仕事となっている現役世代の憐れな現実の姿に直面していた。彼らは、なぜ仕事をしなければならないかという点で忘却していた。その忘却が、社会の秩序にまで影響を与えていた。
残業をしなければならないのは、過去の清算に追われる犠牲である。毎日毎日を着実に怠らず、仕事をこなしてきていたならば、無駄な残業などは行わずに済んでいるはずだった。だが、まずはゼロに戻すことからが始まりなのである。それと、少しずつでもいいから改善していくという気持ちを忘れないことも大事であった。会社の従業員の心理が隠蔽、偽証、怠慢に覆われていた。これが一般的な日本企業の姿であるとは、どうしても思いたくなかった。仕事の全体像を把握していないがため、自分の会社の社会的役割というものが欠如しており、自己中心的な人達は互いに仕事を邪魔して、足の引っ張り合いをしているのだった。
九州南部の景気はマイナスなれど、改善の兆しが見え始めていた。慎二のような真面目な社員が受け入れられる会社が増えてきたのだ。これまでは、真面目な人間より、要領の良い人間が得をする社会であったのだ。その要領の良さが仕事に穴を開け続けていった。その後、彼らがみんな辞めていき、その穴を、新しく入った、至って真面目な連中が埋めさせられる破目になっていた。この欠失を埋める作業は困難ではあるが、楽しく感じられている慎二であった。
ついでに、株価が二十年前の水準まで下がっていった。慎二は当たり前のときの株価にやっと戻ったのだと安心していた。つまり、現役世代が自分たちの手で株価が上がるような仕事をしていこうという目標ができてきたのである。今までは親の世代の労力が創り上げた株価の高水準であったのだ。我々がそれに甘えていただけであった。株価が4万円近くまで上がったのは、世紀末現象にしか過ぎない。株というシステムの本質を見つめ直す絶好の機会である。二十一世紀にふさわしい物亊を作り、売り出す、そのような会社を育て、応援する。それが投資家の真の姿であった。その投資家の期待に応えるのが、企業の心というものである。企業が向上心を失い、カネに腐心する。投資家も役割を忘れ、カネに腐心する。そのツケが慎二に残業という名の苛立ちを与えていた。
慎二はこのように考える事にしていた。
「これから、自分たちの会社を建ち上げていくのだ。それは決して前世代の責任ではない。我々がみんな、創業者なのだ。」
そのような言葉を胸に黙黙と仕事をこなしていく事しか道はないのだった。
現実は厳しいが、その道を行きさえすれば、道が必ず開けているということだけは確信していた。そのようなことを、何度も教えてくれたのが自然であった。人間は苦難を超える度に成長する。人間の気力というものが、大きくなるのだった。慎二が古武術の修行に熱心であった頃、そういうことを学んでいた。どんなに高い山であったとしても、頂上に辿り着くし、どんなに遠いところでも、徒歩でも行く事ができる。さらに、過去の人間が成し遂げたものであっても、現在の人間が成し遂げたものではないということが多い。その癖、現代人は自分ではやってもみないのに、すでに自分が成し遂げたような錯覚にみんな陥っているのだ。自分自身は成長していないのに、社会は進歩したと思い込んでいた。まさに、バーチャルリアルな世界にだけ住んでいるのであった。もっと、現実に挑まなければならない。
発展途上国の現状というものを、テレビや新聞で見聞きされるが、それは日本の田舎の問題と何ら変わらない問題であった。それなのに、なぜ、外国の問題ばかりをクローズアップさせたがるのかの本質が見当たらなかった。だが、根本問題の共通点というものが浮かび上がってくる。貧富の差の問題は、先進国内の問題でもあった。そのことに、目をむけられないから、この貧富の差の問題にはメスが入っていかないのだろう。慎二は、先進国というものに、裏付けがなくなってきている事実に気が付いていた。その先進国という価値を崩すのは、環境問題である。超大国アメリカが嫌がられるのは、そのパワーとインテリジェンスを背景に、カネで価値観を縛ってしまおうとするからである。そのことを先進国は模倣していた。
環境問題という文明社会と同等な価値を持つものが現れた時点で、先進的意識は破壊されてくる。それが直接、株価にも影響を与えるのは必至である。だが、文明によって形成された社会が人間の生存を支える手段として成立し続けるならば、経済というものは廻り続けるのである。だが、それが廻って行かないということは、どこかに社会的欠陥があるということを暗示しているのだ。先進=文明の構図が耐え切れない世紀に突入している。
カネで廻って行くカネ社会の範疇にない、人間社会の全容を把握しなければなるまい。文化、伝統、精神性、環境において、日本は努力しなおさねばならない。社会という人間同士が互いに支えあって生きている現実を取り戻さねばならない。自分だけでは生きていくことはできないということを知らねばならないのだ。絶対に無理であるのだ。自分中心で生きて行こうとする事は、無理なのだ。カネを幾ら積み上げられようとも、無理なものは無理なのだ。なぜなら、みんなが助け合いながら生きているに過ぎない社会であるからだ。そういう社会を崩したから、こういう有様になった。
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