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小説・霧山幻想2

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冬月と夕子は結婚することができるのか?







ゆっくりと二十歳の生涯の恋人・荒木田未希の存在が明かされていく。


未婚化や少子化から解放されるような心情をつくりあげたい。

「山人会」に進入して、裏で操る謎の集団“Carmilla”の脅威が訪れた…。

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霧山幻想20 中村為彦

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冬月の話す話は、難解な学問の話ばかりだった。しかし、その赤ぼった眼の奥には悲愴が漂っていた。特に、悠塾の話になると、その目の奥の影は深くいりこんでいくのであった。私は、それでも冬月に話しておかなければいけないことがあった。
 「冬月よ。亜季は再婚したらしいぞ。来年、籍をいれた旦那のいる愛知に行くそうだ。」
 冬月の眼の光りが消えてなくなった。それでも、私は追い討ちをかけるように、冬月が亜季との思い出を語り出そうとするのを遮る。それでも、冬月はこれからの旅の数々において、亜季との思い出の幻想に悩まされるにちがいない。だが、それでは我々が廻らねばならない県内各地での仕事がままならないのではないのか、そのように、私は思ったので、冬月に事実を告げたのだった。冬月は、無言でうつむき、振徳堂の方を見ていたのだった。
 「そうであったか。幸せになって欲しいものだ。」
 冬月は、そのように言い放ったものの、やはり亜季への未練というものを滲ませていたのであった。冬月の心の中には、新会社にいる夕子と離婚した亜季への想いでゆれ続けるに違いない。それでも、時は無情にも、冬月たちの仕事をせっつくのであった。
 「ホテルに帰った後、これからの旅の予定と本の出版について、話し合わねばならない。真坂野社長も多分、狂歌をつくっていなさるにちがいない。」
 冬月はだまりながらも、これからの旅の中で、亜季との思い出を整理しなければならない。なぜならば、冬月は亜季と一緒に、県内各地をドライブして廻っていたからである。廻る所々、亜季との思い出に苦しまねばならない。しかし、それを乗り越えることなしには、冬月の心が立ち直ることはできないであろう。これから行こうとした棚田のある酒谷の道の駅も、亜季との思い出が立ちふさがっていた。そこのソフトクリームが濃厚で好きだったのだ。しかし、まだ、冬月にはそこに行く勇気がでなかった。だから、冬月は、過去を振り切るつもりで、新会社宛にはがきを一通書き送ったのだった。
 冬月が、霧山の地を去るとき、綾も夕子もさつきも、まるで悪女のようであった。まあ、会社におけるそれぞれの地位を守るためという建前があったものの、彼女たちは冬月が未練の残る亜季のもとへ帰って欲しかったというのが本音であった。しかし、それはかなわないことであった。冬月に興味がありながらも、一向に心を開こうとしない冬月の胸中に、まだ亜季の幻影が深く根付いており、七年にもわたる関係を越えられない垣根のように思っていたのだ。だから、心を開こうとしない冬月につらく当り、自分達はそれぞれの男を探して行った。だが、冬月は、夕子の場合には、一味違うものを感じていた。最後の長い夜、冬月はうどんのコーナーに残り、夕子は売店の仕事をしていた。夕子の勤番は早晩だったと思う。それなのに、遅番に変わっていた。これは仕事上の都合であったろうが、冬月の心に深く印象を残すのだった。逃げ去るように車を走らせる夕子を見ながら、何だか無理やり冬月を心の中から消し去ろうという哀しみが見えるのであった。夕子は冬月を選ぶこともできたであろう。しかし、社長の激怒やいろいろな経緯により、冬月を留めることは不可能であった。次の日、冬月は事務所に呼ばれて、観光ホテルに行くことになってしまった。
 冬月と夕子は、あまり会話をしなかったのであるが、非常に気になる存在であった。意識していないと、仕事に手がつかないほど、互いを魅惑していたのかも知れない。だから、冬月は仕事において、離れてしまった方が良かったと思った。そして、何か運命のような抵抗できない力に引き寄せられるように感じた。それを夕子も意識していたから、いつも気を張って意識を高めていなければならなかったのだろう。そのような緊張状態が二人の間には存在したので、二人のそろうときには仕事が非常にうまくいったのである。二人は何か違うものを感じていた。その愛のようなものは、おそらく熟さなければ食べてはいけないものなんだろう。だから、冬月は新会社に残ることをしなかった。もし、本当に何らかの縁というものがあるのならば、再び逢うこともあるであろうと賭けにでたのだった。それでも、夕子は冬月の気持ちに気づいていないかもしれない。それならば、もう破局ということになるであろう。
 冬月は長い旅になることを覚悟した。悪女を演じた夕子の気持ちが消えるまで、言えなかった言葉たちが言える日まで、冬月の旅は続くのかもしれない。それと同じく、亜季との思い出が消え去る日まで続くのだろう。ただ一言、「すまなかった」と言いたかった。しかし、今となっては、伝える術もない。ただ、一通のはがきに、取材で飫肥にいるということだけ綴って送るしかなかった。

                             つづく

※この作品は、作者の虚構に基づく完全なフィクションであり、登場する団体、職名、氏名その他において、万一符号するものがあっても、創作上の偶然であることをお断りしておきます。

霧山幻想19 中村為彦

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 西洋と東洋の狭間に位置する日本がある。近代化以前の日本人は、東洋的世界観で、西洋文明を許容していった。しかし、今の日本人は、このグローバルの世の中においては、逆に西洋的世界観から東洋文明を学ばなければならないのかもしれない。冬月は、学問において、そのように認識しているのだろう。日本の現代における教育は、西洋的な学問である。少しは、伝統的な教育も残存しているであろうが、その変遷の過程で、かなりの継ぎ接ぎの部分が生じてしまった。この継ぎ接ぎの部分こそ、特に今の日本の教育において、審議しなければならないと思っていた。今の教育の側面では、合理性ばかりが追求されてきたのであるが、その半面、心の問題が疎かにされてしまった。どうして、合理性と心という二面性が、人間に備わっているのかといえば、人間の脳のつくりとして、左脳と右脳に分け隔てられているからであろう。
 冬月と私は、飫肥の城壁の外へ出て、武家屋敷の続いている、暖かい路地を歩いていた。そこには、和服姿のご婦人や観光客を引き連れたガイドさんの姿も見受けられた。スーツに身を固めた男性もいれば、冬月のように着流しを着た人もいる。こういうのを、平等な世界というのかもしれない。東洋と西洋という区引きを取り除いてしまえば、結局、そこには、個人における自由な姿が生じてくる。それが思想であろうと、習俗であろうと、あまり関係がない。そこに利害関係が絡んでくるから、人の世は住みにくくなるのだ。法律で、世の中の問題を解決できるかもしれないが、その後には必ず心の問題が残る。それは、どこの人々であろうとも同じであると思うのであった。
 法的な問題は、合理主義という左脳の問題の解決である。しかし、心の問題は、感性という、未知にちがいない不思議な右脳における事柄にちがいない。東洋的な感性というものを、合理的に説明するのは、おそらくこれからの学問の役目に違いないだろう。心の問題は、やがて文学の中に閉じ込められていった。そして、歌や絵画などの芸術の世界に閉じ込められていった。その解放というものは、観光地における楽園でしか担えないであろうし、都会という合理性の城壁に閉じ込められた窮屈な世界にとって、住みやすさを提供する心の回復でもあるのだろう。
 私は歩きながら、いろいろと考えていた。冬月は、伊東伝左衛門屋敷の門を見つけると、中に飛び込んでいった。着流しの冬月にふさわしい家屋があった。白い紙の張った障子に、まだ青みの残る畳に、縁側があった。庭には、南国らしく蘇鉄が植えられていたが、南天やキンモクセイなどの庭木が生えていた。武家といえども、そういった平和な世の中では、草木を愛でるという文化が生じていたのだ。冬月は、薩摩の町々を転々と引越ししてきたという経歴があるから、伝左衛門の屋敷のような造りの家にも住んでいた。だから、懐かしい趣きを味わっていたのだった。海の人々、山の人々、武家の人々といっても、平和な世の中で、草木を愛でるという文化としては共通のものがあるのである。
 冬月と私はのどが渇いたので、自動販売機でジュースを買って飲み干すのだった。武家屋敷の人々も、時代に対応したものは、その門構えは残しながらも、見事に西洋文明を取り入れて生きつづけているのだった。冬月は、次の目的地として、最も興味深い学問所『振徳堂』に行くことにした。儒学が飫肥の地に入ってきたのは、寛政年間だったろう。徳川幕府が儒学を入れたのが、慶長五年に藤原惺窩・北肉山人を謁見させたのが始まりだから、それから約二百年が経過している。それでも、明治四年の廃藩置県まで多くの人材育成がなされました。清武町に生家がある安井滄洲・息軒が教授・助教をしていた。冬月は、悠塾を窮々亭と共につくり、あぶれていた学生を集めて、作物を作ったり、勉強をしたりしていたが、やはり未熟さというものがあり、悠塾の解散という憂き目にあっていた。さまざまな事情があったにせよ、この目論見には無理があって、まだまだ己の修練の至らなさが身に染みてわかってきたのであった。また、神・仏・儒という伝統的な心学を講究しなければならない、そのように決心するのであった。

                                    つづく

※この作品は、作者の虚構に基づく完全なフィクションであり、登場する団体、職名、氏名その他において、万一符号するものがあっても、創作上の偶然であることをお断りしておきます。

霧山幻想18 中村為彦

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 鵜戸神宮の社殿を後にする冬月と私は、鵜戸山八丁坂と呼ばれる、約800mもの石段をかえることにした。行きには気づかなかったが、石段はまっすぐと山の頂上まで続いており、その山頂には別当の墓地が広がっていた。別当とは、神宮寺の寺務を司る者で、ここにお寺があったことを意味していた。明治の廃仏毀釈のときに、廃寺にされたのだろう。それまでは、神仏習合とか言って、別段、厳密に神や仏を分けて信仰していたわけではなかった。神と仏を分けて祀ろうとし始めたのは、合理的な思考というものが西洋から入ってきたためだろう。鵜戸山では、両部神道という神仏習合した一大道場となっていて、「西の高野」とも呼ばれていた。
 このような信仰が可能であったのは、あの山幸彦・海幸彦の伝説があったからであろう。海幸彦は退けられてしまったが、山幸彦と海神の娘は仲がよかったので、沖縄のほうでは、オボツ・カグラ、ニナイ・カナイといい、奄美のほうではテルコ・ナルコと呼ばれる信仰になったのだろう。つまり、山の神・海の神を一緒に祀ったということである。もともと、八百万の神々という多神教的な世界観をもっていたくらいだから、山の神と海の神を同時に祀る事くらい造作もなかっただろう。そして、山の神の上に仏教がのっかってきた。そのような感覚で、海の人々は信仰していたのかもしれない。こういうことは、理屈が先ではなく、感覚的に察するしかないだろう。だいたい、日本人は感性の鋭い人種で、こういった時代に合理的に考える人は、ほとんど稀であったにちがいない。だから、神様と仏様を一緒にしたりする大胆さがあった。現代日本人には、ちょっと理解できないかもしれないが、それで神様と仏様が争うということがなくなったということは、量りがたい平和という恩恵であっただろう。物事が緻密すぎると、かえって争い事が生じてしまうという欠点がでてくる。それが、幕末・明治以降の戦乱に巻き込まれた歴史を生み出している。神と仏を分断するということは、それまで仲良くしている者共を引き裂いてしまったのだった。和を以て貴しと為すという聖徳太子の教えは、大和の思想につながっているのだ。
 我々は、次の目的地・飫肥の城下町に行くことにした。日南海岸を経て、飫肥に至ると、ほぼ日本の歴史の流れがわかってくる。神話の時代から、仏教伝来、そして武士の世の中である。冬月たちの乗ったタクシーは、油津を抜けて、飫肥の町にやってきた。油津は、小さな港町で、吾平津と呼ばれ、神武天皇の日向での妻・吾平津姫の生誕地として伝えられる場所である。神武天皇の実在は伏せられているが、おそらく大和と日向のある事件での確執が絡んでいると見られるが、これは時代の問題であるので、時代と相談して、進むべきであろう。吾平津姫は、ここでは乙姫とも呼ばれるから、神武天皇は浦島太郎だったのかな。
 飫肥の城下町というからには、お城があって、武士が住んでいたということになる。寺島良安著の『和漢三才図会』によると、「武士(もののふ)。武は戈(ほこ)と止からつくる。戈を止め武をなすという意味である。物部。剛く彊く道理に実直なのを武という。勇ましい彊さが徳に匹敵するのを武という。また、よく過乱を平定するのを武という。民を刑し、克く服させるのを武という。学んでたゆまず自分の地位を保持しつづけるのを士という。神武天皇の時代に、ウマシマチノミコト・道臣命の武功すぐれた二人があった。道臣命が司っている軍兵を来目部と称したが、ウマシマチの司っている軍兵には物部という姓を賜った。それから武士のことを物部(もののふ)と称するようになった。」という。
 武家にもいろいろあるが、武士の始まりはこのようなものらしい。農・工・商の人々が二刀を下げてはいけなくなったのは、江戸時代からであるそうだ。物部氏についてだが、聖徳太子がいたころ、蘇我氏との政争に敗れた物部氏は、ここ日南より南の地、大隈半島の有明・原田まで逃げてきたという言伝えがあるらしい。これでは、今から千五百年もの歴史を述べなくてはいけなくなる。とにかく、鎌倉時代から武風が強くなり、戦乱の多い歴史を背負うこととなったようであるのだ。福澤諭吉は、封建遺制を酷く憎んだのは、それだけ自由がなく、雁字搦めであったためであろう。
 やがて、飫肥城の駐車場についた。冬月はタクシーを下りて、見渡すと真坂野交通のバスが停まっていた。飫肥を舞台に、『わかば』というドラマがあった。おみやげやの前を通っていると、中年の男が、「もう、舞台が変わっているからな。」と、移りやすい今の人々の心情を吐露していた。それでも、過去の記憶とは関係なく、その意気込みだけは残っているように見受けられた。荒城の月とは、よく言ったものではあるが、さまざまな人々が武士しか入れなかった城壁の中に入れるようになったのは、明治維新の賜物ではあったろう。飫肥で有名なのは、小村寿太郎であるが、日露戦争でのポーツマス条約の功績については、国民の側から見れば、現在につながるものであるために、非常に複雑な思いを抱く冬月がいた。日本の借金はどうなってしまうのであろうか。
明治政府は、薩長による武家政権であった。明治維新で失業を余儀なくされた武士たちの拠り所であった。官になったり、先生になったり、商売に身を染めた武士もいたであろう。君主のいなくなった武士たちは、忠君愛国という言葉をつくって、保身を図っていた。
本丸へと向う冬月は、ぶつぶつと何かを唱えている。飫肥城は、伊東氏の居城として、二百八十余年も続いたが、廃藩置県で、飫肥県から都城県へと移る過程で、館や楼・櫓のすべてが破壊されてしまった。冬月は、新会社へ移行したときの身の境遇を、ここで失業した武士たちの身の上に重ねていたのだった。城の内部には、飫肥小学校のグラウンドができていて、その西側にある小高い所に本丸の跡がある。本丸跡に向かう途中に、なんじゃもんじゃの木が生えていた。学名はヒトツバダゴというらしい。いろいろな植物が生えている。もう、サクラはいつの間にか散っていた。登る石段の脇には、ツワブキがあった。石段を登りきると、そこには『わかば』の主人公が元気を取り戻したという旧本丸の姿があった。飫肥杉が植えられてはいたが、岩やタブノキなどの当時の名残も確かに現存していた。冬月は、その残された息吹を感じて、少しばかり元気を取り戻しつつあった。飫肥の名産品・杉材も日本を飛び立っているのだった。その本丸跡の断崖に立つと、木々の暗がりに向こうに、酒井川が流れているのが見えるのだった。失われていく歴史というものがあるのかもしれない。

                                    つづく

※この作品は、作者の虚構に基づく完全なフィクションであり、登場する団体、職名、氏名その他において、万一符号するものがあっても、創作上の偶然であることをお断りしておきます。


 

霧山幻想17 中村為彦

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 海際の席に座っている冬月だが、冬月はどうも陸地の方のフェンスの向こうに生えている植物に興味があるみたいであった。タクシーはスピードに乗っているので、すぐに通り抜けていく。
 「あそこに生えているのは、ダンチクじゃないか。小生、ウガヤフキアエズノミコトのウガヤは、このダンチクじゃないかと思うんだ。イネ科の植物で、秋にかけて、鵜の羽に似た花を咲かせる。海の人々が母屋をつくるときには、これを茅葺屋根に使ったんじゃないかな。文化の違いが、鵜の鳥の羽という表現に落ちつかせたにちがいない。茅はチガヤやススキなどのイネ科の植物の総称で、屋根を葺くのに使うね。イネ科の植物には、葦があって、豊葦原中国の代表的な植物となっている。葦をアシと読んでいたけど、ヨシと読むようになったのも、歴史の背景があるんだね。日向神話の前には、国譲りの神話があったからね。よく、葦の髄から天井を覗くというじゃないか。」
 私は、ピンと来た。日向神話に抜け落ちていた点である。
「そういえば、大淀川の南側には、中村恵比寿があるよね。日向神話には、国津神の存在が忘れ去られているね。高天原神話と出雲神話も同列に語ることができなければ、日本の神話は、民主主義的にはならないなぁ。皇民化政策の抜け落ちていた視点であるね。」
「しかし、日向においても、高天原系の神社は少ないね。どちらかといえば、国津神の神社のほうが多いよ。なぜならば、国譲りの神話を大切にしてきていたからだ。でも、だんだんと武力で制圧するように、歴史が変わってきたんだ。日向の一ノ宮は、大国主を祭る都農神社だからね。神武天皇が大和に行くまでは、その約束を誠実に守っていたと思うんだ。だから、都農神社を造っている。」
「神話の世界も、現代社会に似て随分複雑なんだね。次の目的地、鵜戸神宮は、豊玉姫が、ウガヤフキアエズを生んだところなんだろう。鵜戸の岩窟の中に、産屋を造ったのかな。」
 やがて、二人を乗せたタクシーは、鵜戸神宮の赤い鳥居を潜り抜けた。タクシーが駐車場に止まる。冬月と私は、車を降りると、露店の脇の階段を上り始めた。サザエの焼ける匂いが香ばしい。鵜戸神宮は、一昔風にいうと、官幣大社という称号がついていたらしい。国家神道の名残であろう。しかし、敗戦後、帝国の斜陽と重なり、さびれた小さな店と共に、哀愁を漂わせていた。田舎の個人商店がシャッターを下ろしていることも思い浮かぶのだった。帝国の残影の上に、希望の一字を乗せることができるのだろうか。倒れ臥した帝国の上に築かれた、民主主義国・日本の姿は健康とはいえない。
 冬月が小腹が空いたといったので、目に入ったおみやげ屋の二階にある食堂へ入ることにした。目に止まった張り紙に、地鶏すきやきとあったので、それを二人は頼むことにした。かかっている音楽は、あの橘公園で耳にしたフランスの曲に似ていた。
 「芸術の都・宮崎か。」
 ふと、私は口に出していた。平和の塔がエッフェル塔で、大淀川がセーヌ川ということになる。パリの街にも、ブローニュの森とか、バンセンヌの森とか、さまざまな森がある。それと同じように、宮崎市内には、さまざまな森や公園がある。平和台公園のはにわ園、市民の森、一ッ葉のシーガイア、神宮の森、文化公園がある。南に目をやれば、木花の運動公園、青島のこどもの国がある。これだけの観光資源が、宮崎にある。自由・平等・博愛の国、フランスだ。
 冬月に言わせれば、自由とは日本人にとって、菩薩になる道だという。餓鬼修羅畜生から抜けて、人間になって、自立自尊できたとき、菩薩の道が拓けるというのだ。それを自由と呼ぶ。昔の人々は、仏になれるのは一部の人間だけで、仏になるということは死ぬことだと思っていた。しかし、日本にやってきた大乗仏教は、みんなが仏になれるという教えだった。冬月は、仏になるということを、夢を叶えるというように解釈したのだ。夢を叶えられる人間になるために、それぞれの道で修行をしているのであるのだ。
 しかし、冬月にしてみても、パリの人々が夢見た、平等で、博い愛に溢れた社会というものがまだつかめていなかった。人々は、社会は平等でないということを身に染みて感じている。菩薩の慈悲の心に達するほどの人間愛に到達できるほど、余裕がない。私も冬月も日向神話の物語から、平等と博愛が感じられないということに気がつくのだった。『古事記』の世界観に、不足しているものがあるのだ。
 やがて、くつくつと煮立った地鶏すき焼きが運ばれてきた。白菜などの野菜が盛り高く積まれていた。
 「ひっくり返してから、お召し上がりください。」というので、それに従った。ご飯と赤だしにわさび漬けがあった。テーブルに目をやると、「鵜戸神宮霊橋」とかかれた小文が目についた。これによると、古来、人間社会から神の世界への架け橋として、反り橋は深く信仰の対象として敬われていたそうだ。神仏混淆の両部時代に遡るという。諸仏充満の聖地には、穢れある者は渡ることができないらしい。
 冬月は、亜季と二人でこの鵜戸神宮にやってきたとき、亜季がそこから先に進むことを断ったという話をした。亜季は都会的なアメリカ文化が好きであった。そのような趣味の違いが離婚の原因であったのであろう。冬月は日本の伝統文化を背負ってしまっているところがあった。このように、冬月と亜季との生活習慣の違いが、日向神話の世界に妙にマッチしているという嘆きがあった。
 だんだんと、白菜も地鶏もしょうゆで茶色に染まっていく。それを卵につけて、食べる。わさび漬けとご飯を食す。赤だしをすする。すべてを食べ終わった後、完全なる空腹で倒れそうであった肉体が活性化された。徐々に固形燃料の火が消え、鍋の食材も尽きた頃、冬月は、遠くに見える太平洋の大海原と黒々した岩々を眺めた。
 「さて、岩窟に参ろう。」
 「ああ、そうだな。」
 冬月は私を置いて、先に店を出ようとした。しかし、冬月は間違って、その店の厨房の入り口へと入ろうとしていた。私は冬月を引き止めて、出口に引っ張り出し、階段をつたって下に降りさせるのだった。冬月は、まだ料理の世界にも未練があるようだった。おみやげ屋を出て、鳥居をくぐる。しばらく、砂利道を進むと、お婆ちゃんとその孫が会話をしている。
 「昔とだいぶかわってしまったでしょう。」
 「ああ、だいぶ変わったね。」
 道もきれいに舗装され、橋の欄干もきれいな真っ赤に塗り込められている。それでも、家族が神宮参りをするということは、変わっていないのだ。
 先に進む冬月は、鵜戸神宮霊橋と呼ばれる断崖絶壁の前で待っていた。冬月は、身の潔白をはかるかのように、ゆっくりと、その橋に足をかけた。ゆっくりと、ゆっくりと、橋を渡っていく。
 そして、その霊橋を渡り終えた後、「やっぱり渡れた」と喜ぶ冬月がいるのであった。
 冬月は、石段を降り、展望台までやってきた。霊橋を下から眺めて、証拠の写真を携帯電話のカメラで写した。さらに、亀石も写した。冬月は、運玉を買い、亀石の縄の中に投げた。しかし、やせ細った冬月の身体では、亀石までとどかずに、運玉は岩にはじかれて、砕け散るのだった。冬月は、こんなもんだろう、と言って、岩窟の鳥居をくぐり、奥へと入っていった。あわてて、私もその後を続いた。岩窟の信仰は、岩戸の信仰と同じなのだろうか。冬月は、鵜戸神宮の厄除けのお守りを買い、他人から運がもらえるように、運玉の入った袋も買うのであった。自分には運がないので、他人に運を委ねて、その運をもらおうというわけである。
 それは、作家の仕事と一緒だと私は思った。作家とはある意味僧侶だと思っていた。みんなのお布施によって、書いた本を買っていただけるのだ。そのおかげで、生活できるからなのだ。鵜戸の御社の周りをまわると、今までの神話の推測がすべてわかった。つまり、神話の真実の部分である。しかし、それは知る人のみぞ、知る事なのだろう。

                                    つづく

 ※この作品は、作者の虚構に基づく完全なフィクションであり、登場する団体、職名、氏名その他において、万一符号するものがあっても、創作上の偶然であることをお断りしておきます。

霧山幻想15 中村為彦

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 冬月と私は、会社の用意したタクシーに乗り込んだ。黒塗りの重々しい車である。二人は、後部座席に乗る。私が先に乗り込み、冬月が後から乗った。そうなれば、運転座席の後ろに私で、助手席の後ろに冬月が乗ることになる。タクシーが動き出すと、だんだん、その意味が分ってきた。冬月は海側で、私は道路側になるのだ。「しまった」と思ったが、冬月の沈み込んだ姿を見ると、何も言えない。仕方なく、仕事の話になる。
 「神話の世界なんだが、これはどうも異文化をもった人々の交流の歴史なのだ。小生、植物の生態系や帰化した植物を思い浮かべた。日本原産の植物がいるのだが、後から入ってきた植物もある。後から入ってきた植物には、中国原産の植物もあり、ヨーロッパ原産の植物もある。さらに、温帯に生息する植物や亜熱帯植物も存在する。今から行く青島は、亜熱帯植物の生い茂る所だ。そして、神話においても重要なところだ。」
 「あの海幸彦・山幸彦の伝説と関わる島だろう。巨人軍がキャンプの時によく訪れる。なんで、青島なのかよくわからないね。縁結びの神様だろう。」
 「うん、その答えは、島に着くとわかるだろうよ。」
 二人を乗せたタクシーは、だんだんと市街を離れて行き、センターにフェニックスが植えられ並んでいるバイパスを突き進んでいった。空はだんだんと、晴れ間を覗かせていた。
 私は、ホテルの三階を見て廻っていた時に、カエルが小僧に水をひっかけているオブジェを見つけたのを思い出していた。そのオブジェを見て、このカエルは冬月なんだなと思った。しょんべん小僧がカエルにしょんべんを引っ掛けても、カエルの面に水だ。そのカエルが逆に小僧に水をひっかけている。カエルは、多額の負債を抱える真坂野交通でもあるのだ。真坂野社長は、冬月を怒鳴り散らしたが、冬月にとってはなんということもない。そして、真坂野交通もカエルで、多額の負債もなんということもない。逆境こそ力。七転び八起き。転んでもただでは起きてはいけない。カエルが小僧に水をひっかけるくらいの意気込みがあれば、必ず立ち上がることができる。
 こどもの国を通り過ぎて、しばらく行くと、「ういらう」の看板が見えるが、なんて書いてあるのかよくわからない。やがて、おみやげ屋の立ち並ぶ青島の入り口にやってきた。この青島の入り口には、新会社に統合されたレストランがあった。ここに、おそらく冬月を料理の世界に引き入れた前の料理長がいるはずだ。
 冬月と私は、タクシーを下りると、そのレストランに入った。おみやげ屋の雰囲気は南国情緒であるんだが、やはり高速のレストランと似ている気がした。もっと、奥に行き、食堂へと進んでいく。なんだか、庶民的なものである。厨房を覗いて見たが、その料理長はいないみたいだった。
 仕方なく、二人は店を出て、青島の方へと向うことにした。細長い小道を進んでいくと、白い砂浜と青い海、澄み切った空が融合していた。青島と陸地をつなぐ架け橋の上に立てば、左にシーガイアのホテルの建物がうっすらと見え、右には白浜の海水浴場が見えた。真正面に、青島が見える。青島は、淡島と呼ばれていたと聞く。また、別名、歯朶之浮島とも呼ばれていたようだ。シダ植物に覆われていたのだろうか。
 橋を渡り終わって、青島の砂地に足を踏み入れる。砂浜の周りは奇形波蝕痕という学術用語に覆われていた。鬼の洗濯岩といったほうがいい。青島には何回か来たことがあったが、取材で来たのは初めてだ。冬月は足早に鳥居をくぐっていく。そして、ある古木の方に目をやって、私に呼びかけた。
 「これがアコウの木だ。小生も赤穂浪士になろうかなと思ったが、この木は「親孝行の木」「命の再生」を意味するらしいね。クワ科でイチジクの仲間だ。この葉っぱを採取しておこう。やはり、ここは亜熱帯で、海の人々らしい土地だね。霧山の植生とは、大いに異なっている。非常に興味深いではないか。」
 「そうなのかい。私にはよくわからないが、命の再生という言葉には心惹かれるね。是非、真坂野交通の再生に、願掛けておかないとね。観光宮崎の再生か。県民の生活がよくならなければ、そこにある会社もよくならんだろう。とにかく、手を合わせておこう。」
 私は祈るように、この木を拝んでいた。鳥居をくぐったということは、青島神社の境内にいるということだ。神話の館あり、おみくじを売っている社がある。青島の水は枯れていた。歩を進めると、大きな石碑が建っている。彦火々出見命と豊玉姫の歌である。

 赤玉は緒さへ 光れど白玉の 君がよそひし 尊とくありけり

 沖津島鴫就く 島に我が寝ねし 妹は忘れじ 世のことごとに

 この歌を読んだとき、冬月の脳裏には、杉原夕子との別れが浮かんでいた。夕子を霧山のショップ&レストランにおいてきたことを思い出した。冬月は、この歌に潜む思慕の情と、胸に湧き上がる夕子への思いが重なり、思わず涙があふれ、うつむくのだった。冬月は、空を見上げて、さらに神社の奥に入っていった。そのとき、晴れ間はいっそう輝きをますのだった。
 実際、この歌は『古事記』にも載っている。彦火々出見命が豊玉姫のお産のシーンを見た後に、姫は海の向こうに帰っていってしまった。姫は八尋鮫(わに)の姿をしていたとあるが、お産のときに仰向けでなく、うつ伏せになっていたことを指した比喩表現ではなかったろうか。信州のどこかで、うつ伏せで出産しているところがある。海から山に登ったのだろう。おそらく、出産における文化の違いが別れの理由だろう。そうであっても、見られてしまったことに恨みを抱いたとしても、恋しい心は忍ぶことができずに、生まれた子どもを養育するために、妹の玉依姫を付添わしている。そのときに、この歌のやりとりがなされた。最初の歌が豊玉姫、それについで彦火々出見命のお返しの歌である。
 私は、彦火々出見命と豊玉姫の出会いの方が興味深い。海幸彦と山幸彦の伝説だ。あるとき、山幸彦は海で漁をしたいと思って、海幸彦に申し出て、三度目にやっと、釣り道具を貸してもらった。海で釣りをしていたが、なんと、その釣り針をなくしてしまったそうだ。海幸彦はなかなか釣り針をなくしてしまったことを許してくれない。そこで、海の国へと行く。浦島太郎の竜宮伝説と重なる。おそらく、海の国は、竜宮すなわち琉球であろうと思う。海の人々は、古神道という神道の原型をもっていたのであろう。しかし、この場合、沖縄まで行ったかはわからない。うまし路という潮路だから、黒潮を逆流したとは考えにくく、開聞岳の兒水浦という説が有力だろう。南九州にしぼっているが、倭人文化といえば、海の人々の文化の方が強いような気がする。柳田國男も南方説を押している。とにかく、海神の娘、豊玉姫と出会う。
 南島文化では、祭祀というものは、その村々における一門の長者の家によって行われ、その家では女性がその専業をしていたそうだ。その女性は神と人との間に立って神意を伝え、その指導をもとに、肉親の兄弟、父または夫を援けたといわれる。そういった妻の助けで、山幸彦・彦火々出見命は、兄海幸彦を退けるのであるが、豊玉姫というのは、奄美などに見られる祝女(ノロ)と同じではなかったか。

                                つづく

※この作品は、作者の虚構に基づく完全なフィクションであり、登場する団体、職名、氏名その他において、万一符号するものがあっても、創作上の偶然であることをお断りしておきます。


 

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