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杉原夕子は、高速レストランで、昼食をとっている。須藤さんというパートのおばちゃんが隣に座った。須藤さんは、子供の学費をかせぐために、レストランで働いている。その疲れた頬が動いて、夕子に語りかける。 |

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杉原夕子は、高速レストランで、昼食をとっている。須藤さんというパートのおばちゃんが隣に座った。須藤さんは、子供の学費をかせぐために、レストランで働いている。その疲れた頬が動いて、夕子に語りかける。 |
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夕子は、高速レストランの仕事の帰りに、冬月の春陽草庵に立ち寄った。冬月が、山人会の料理の競合に出品するメニューを考えていると思ったからだ。しかし、春陽草庵で留守番をしている古城啓介に聞いても、知らないというばかりであった。夕子は、もしやと思い、今まで帰って来た道をさかのぼり、やがて冬月の進化研究所に急いでやってきた。鍵がかかっているはずのドアが開いていた。そして、薄暗い部屋の奥底には、真っ赤に血まみれになった冬月の姿を見かけた。冬月は、チョウザメの腹を割いては、卵を調べていたのだった。そして、あちこちに内臓の積み上がった汚物が散らばっていた。夕子は叫んでいた。いやーーー。夕子は、ポケットに忍ばせていたPower Essence No.8 ROSEと書かれた薔薇の香水のビンを冬月の眼鏡に向かって投げつけた。砕ける眼鏡のレンズと香水のビンが散乱する。辺りには、血の臭いを押しのけるように、薔薇の香りが広がっていった。夕子は、何も伝えることはできなかった。ただ、その血まみれの白衣を見るのが、もう限界だったのだ。チョウザメの稚魚が台風で流れて以来、魚の研究はしないように約束していたのに。それでも、こっそりと夜遅く、働いている私を尻目に研究を続けていたなんて…。夕子は、茫然とした。これで終りかもしれない。 |
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杉原夕子は、秋風の中、物思いに耽っていた。冬月と一緒になる道を選んだものの、現実では重い扉を開いたようだった。夕子の過去、これが結納を済ませた後の冬月との間に残る重い扉だった。夕子と冬月の前に立ちはだかった重い扉が一年の空白を生んでいた。その空白の原因は、冬月が「夢のために別れよう」と言った数ある理由のひとつだった。冬月の心の中には、亜季への未練もあったが、やはり大きかったのが、その当時まで、夕子がつきあっていた男性がいたことだった。その男性とは、実はM交通の真坂野社長のご子息であったのだ。だから、私と東国原綾が仲人になって、結納まで進めざるを得なかったのだ。綾は夕子から冬月への想いを告白されたとき、家柄もよく財力もあり、申し分のない相手を断ることは勿体無いと思った。でも、一生、寄り添っていられるかしらという夕子の言葉を聞いたとき、真坂野社長のご子息との結婚をあきらめることに賛同したのだった。本当に好きで結婚をするということは当然のことと思える。でも、社会においては生活をすることができなければ結婚は成立しない。原始の時代ならば、好き同士ならば、親の反対がなければ、自然に結婚するにいたったであろう。しかし、世の中が複雑になり部落が村になり、村が町になり、町が都市になってくれば、男女の仲も複雑になってくる。その複雑に絡んだ赤い糸は、打算のときもあれば、純愛のときもあった。こういった二つの駆け引きが男女の仲で揺れ動き、くっついては離れ、離れてはくっつくという現象を生み出している。簡単に離婚届を出せる世の中では、結婚という儀式はそれほど重要ではなくなった。でも、盛大に経費を使うからこそ、簡単に離婚できないという事実もある。もし、愛のない結婚に気付いた場合、どんなに衣服や宝石で着飾ったところ、その心の寂しさを埋められない。また、その寂しさに耐えることができるだろうか。夕子は、その寂しさに耐えられると思っていた。でも、引き寄せられる運命の引力は強い。どんなに強い女を装っても、その心の空虚と痛みだけは事実だった。孤独というものは、真に強い人間だけに与えられる試練だ。その孤独を知るものは、互いに引き寄せられた。暗い影の引力は、影を増す。そして、やがて消滅する。 |
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ボウモア12年物。私は、『霧山の歴史』をまとめていた。ガラスの向こう側の夜景をのぞみながら、12年の歳月を飲み干す。バブルが崩壊したとはいえ、まだまだ、その悪影響に気付かずに、繁栄を謳歌していた1994年。勝者と敗者の分岐点があったように思えた。このボウモアは、冬月からもらったものだ。冬月も、琥珀色の液体に閉じ込められていたようだ。そして、それは、この12年ものの恋の傷が癒えずに、一度目の結婚の失敗、婚約後の別居を続けるという悪酔いから抜けられない結果をもたらしていた。冬月は、心境をこの酒に託した。まだ、研究所から出てこようとしなかった。もう、七ヶ月になるだろうか。チョウザメとの出会いは、二十歳の初恋への未練を示していた。この未練がある限り、冬月の心は埋められないのかもしれない。そして、その未練、生物学への未練をチョウザメ、そしてキャビアの夢に乗せているのだった。キャビアが、あの博多の女への贈与品となることを欲した。しかし、そうだとしても、歳月は八年もかかるのだった。それでも、忘れることができず、あきらめきれない冬月の醜い執念があった。その女との約束が、学問にあったのだ。必ず、学問で大成する。だが、それは叶わず、俗世に落ちた。そして、放浪のようなフリーター生活となった。 |
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冬月の心は、研究に蔽われていた。半年も、研究室の中に閉じこもって、魚の研究をしていた。魚のほかにも、不老不死の研究もつづけていた。薬膳料理である。その研究への没頭は、過去のえぐれた傷跡を忘れるためのものであった。魚を解剖して、血まみれになっても、涙が流れ落ちていた。前の妻・亜季のことを、どうしても忘れることができない。だが、忘れることができないでいても、忘れるときはきっと来る。夕子と婚約しても、忘れることができないものは、忘れることができない。その別離の重たい心の傷をかかえながらも、夕子とのこれからを築き上げる自信はない。だから、冬月は完全に過去を吹っ切ろうとして、狂気さながらに、研究に没頭するのだった。その重たい心の傷は、ぶつぶつと独り言を唱えさせた。完全にノイローゼ状態だといえた。だが、会社を追放され、愛する人を失ったという二重の苦しみは、冬月をそのような状態にしないはずがなかった。そして、正気の人間ならば、必ず精神的な打撃を受け、放浪または自殺するにいたるに違いなかった。だが、冬月の場合、もう二度目の精神崩壊である。二十歳の頃、完全に壊れてしまった。そして、人間の道から外れて、狂気に覆われたのだった。酒と旅に逃げ、何もかも捨て去った。それでも、壊れてしまった自分を支えていたものがあった。それが、学問であった。大学を卒業してからのほうが、冬月は勉学に励んだにちがいない。そして、勉学に励むことによって、壊れた精神を修復し、さらに大きい人間に成長したように見えた。だが、そうなれば、世間から見れば、浮き出た存在になってしまう。 |