平成17年4月6日から平成23年9月6日までのブログ

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小説・霧山幻想2

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冬月と夕子は結婚することができるのか?







ゆっくりと二十歳の生涯の恋人・荒木田未希の存在が明かされていく。


未婚化や少子化から解放されるような心情をつくりあげたい。

「山人会」に進入して、裏で操る謎の集団“Carmilla”の脅威が訪れた…。

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 夕子は、冬月の心の中に住む女性の影に気付いていた。去年の今頃、冬月は夕子に「夢のために別れよう」と言い残して、高速レストランを後にした。それは、冬月の心の奥底に深く眠る古い失恋の傷跡があることによるものだった。夕子は、冬月の心の扉を何枚も何枚も開いて、やっと最後の一枚の扉を開いて、冬月の心を掴み取ったと思った瞬間、凍りつく思いをしたのを思い出した。この人は、人を愛することができないのではないか。そういう傷ついてボロボロになった心を垣間見たとき、夕子はさっと身を翻すように、冬月と距離を置いたのだった。どうやら、その古傷は前の妻・亜季との離婚よりも昔のことであり、亜季と幸せになりきれなかった原因であり、冬月に普通の人生を歩ませない道を選ばせた理由でもあった。この事実は、夕子と冬月との結婚生活において、深刻なダメージを与えるにちがいない。だが、それは夕子の愛で癒せるにちがいあるまい。
 女というものは、そもそも自分だけを愛してくれないと満足しない。特に現代の女性はその傾向が強い。それは、父性の欠乏が非常に多かったためである。戦後の敗戦の深手は、日本人から親父像を喪失させた。親父は仕事に責め続けられ、古来の家長制がなくなって、ムラ社会の絆もだんだんと失われてしまった。こういったものは、長所も短所ももっているが、兎にも角にも失われていくのだった。市町村合併は、そうしたムラ社会の破壊によって、少子高齢化した過疎地域の窮乏策であって、小さな字や地区が消えていくという手前であった。郵便局の民営化もそのような流れの上におこった。その出来事の良し悪しはともかくとしても、そのような激流の中を日本人は経験していたということになる。
 冬月の妻は、冬月の性格を把握することなしには務まらない。夕子は心配になる。彼の可能性だけで、結婚を選んでしまったけど、心の中に私以外の女性の幻がいる冬月に耐えられるだろうか。また、その幻の女性を乗り越えて、本当に冬月の心を自分のものにできうるものであろうか。これからが、本当の夕子の愛の戦いの始まりのようであった。冬月は、容易に夕子に近づかない。またもや研究室の一室に閉じこもったままだ。なんとも臆病で用心深い心なんだろう。いや、人間を恐れている。私を恐れている。女を恐れている。一体、冬月はどのような心の傷を持っているというのだろうか。
 私の頭の中には、霧山の歴史が浮んでいた。霧山の森が島津領だったころから、開拓されて、牧場の桜が植えられていった頃、そして冬月が転々として、この地の変貌に直面していた頃。平成の大不況、それは今までの伝統的な生活が困難になったことを意味した。それは、パソコンと携帯電話の普及によるものが大きい。都会と田舎の垣根は、情報量の違いというものであった。宮崎は民放が二局しかなかったために、大きく時勢から取り残される結果を残した。インターネットと携帯電話は、田舎でも都会と同等の情報を得られることを可能にした。それは、アルビン・トフラーの『第三の波』に予兆されていた。宮崎県民が守っていたもの、それは神話的世界の体現である。それを、未来の流れの中で、どのように処理していくのかが、非常に難しい。私は、黄泉の国をこの霧山に見ている。

                            つづく

※この作品は、作者の虚構に基づく完全なフィクションであり、登場する団体、職名、氏名その他において、万一符号するものがあっても、創作上の偶然であることをお断りしておきます。

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 私が出の山公園のレストハウスと呼ばれる民宿に宿泊しているのは、冬月と夕子の結納のためだけではなかった。やはり、仕事のためでもあったのだ。新連載が決まって、新しい小説を書くためでもあった。題名は決まっている。『運命に刈りとられた愛の芽』というものだ。冬月を主人公にするが、名前を変えて、少しばかり創作を凝らしてみようかと思う。私の師匠でもある窮々亭今旧は、冬月の前妻の父であった。だが、窮々亭は死んでしまった。その無残な死に様は、書き残さずにはいられない。そして、冬月と亜季とのつらい別れというものもあった。そのままで、書くと彼らに迷惑になるので、かなり脚色しなければならない。しかし、現実は小説よりも奇なり、というが、本当に現実の方が小説よりも面白かったりするものである。私の力では、現実の奇怪さを陳腐なものにしてしまいそうである。しかし、池でも眺めながら、着想すれば、きっといいものに仕上がるであろう。
 この霧山の地が、観光地・伊豆のようになってくれるのか。そして、観光宮崎の復興が成し遂げられるのだろうか。綾の叔父(※フィクション)が県知事になるなど、私がここで執筆している間に、随分と情勢が変ってしまった。宮崎のPRに余念がないであろう。宮崎の地域興しは、総力戦となってきている。そして、はじけたバブルの傷跡は深く、その暗い影が漂う十年間であった。あの朦朧としたけだるさの中で、県民は食べることだけは困らないという風土によって、だらだらと過していた。だが、どげんかせんにゃいかんとの掛け声の下、少しばかりのまぶしい光が差し始めるのを感じる。地方自治というものが、市民の声を反映した政治をもたらす二十一世紀の始まりになる予感がした。だが、失うものも、多いであろう。だから、我々は失っていけないものを決めて、守り続けねばならなかった。
 気がつけば、二十世紀が終焉し、二十一世紀になっている。そして、団塊の世代の時代は、薄れつつある。だが、その時代のせめぎあいの折、互いの残すべきものを模索していかねばならなかった。それが、東洋だった日本の継承という儀式になる。観光宮崎ということも、遠い過去になりつつ今、それを知るものたちは焦りを感じていた。すべての伝統文化が喪失してしまうのか。それだけは、阻止せねばなるまい。この霧山の山奥には、古来の日本を留めておくべきであった。その要塞は、観光の名の下に存続せねばならない。世知辛い、このカネ社会において、日本の良き伝統が切り裂かれて、人々の心はすさんでしまった。だが、それでも、人々は戦いを止めようとはしない。すべてが画一化されていく中、人間らしさという人間とけものを分ける境目を失ってはいけないだろう。それが、こころにちがいあるまい。
 宮崎の新婚ブームは、1960年の昭和天皇の五女で、もちろん新婚だった島津貴子さま夫妻がやって来たことが始まりであった。フェニックス・ハネムーンと呼ばれていた。フェニックスとは、不死鳥のことである。敗戦後、その奇蹟の復興を象徴したものだ。不死鳥のように甦った日本において、その未来を託すために、宮崎の新婚ブームが燃焼し始めたのだった。そのとき、生を受けた者たちが再び結婚の時期に来ているはずだった。1962年に、天皇陛下・皇后さま(当時、皇太子・皇太子妃)は宮崎を訪問した。それによって、ますます宮崎の南国風情は、カップルのあこがれとなったのだ。さらに、1965年に川端康成の小説『たまゆら』がドラマ小説として放映され、宮崎の観光地としての地位が確立していった。その土台には、1936年からだんだんと青島、堀切峠、鵜戸、都井岬へとつづく道路沿いにフェニックスなどの樹木を植えていったM交通の創始者の努力があったからだろう。かくして、1974年には、105万組の新婚夫婦のうち、37万組が宮崎を訪れるという新婚旅行のメッカとなっていったのだ。だが、その過去を知る人も記憶を薄め始めていた。
 宮崎の新婚ブームをかき消していったのは、経済大国日本の貿易黒字による富裕化であったろう。新婚さんは、沖縄やハワイに行くようになってしまった。海外旅行がブームになってしまった。そして、成田で離婚するという悲劇も幾度となくくりかえされただろう。宮崎の観光は、観光客を呼び戻そうと、必死になった。その必死な言葉は、リゾート地というなんともバブリーな響きを持つ、巨大な建造物と巨額の財政赤字を積上げていった。なんとも無残なバベルの塔が残された。カネを使えば、使うほど、首が廻らなくなって行く。火車となった宮崎は、業火にのみこまれている。その火車の中から、再びフェニックス宮崎は生まれ変わることができるのか。
 結納をすませた冬月だったが、彼は研究に没頭している。不老不死の料理を研究していて、そのぶつかった壁があまりにも大きい事に気付いたのだった。肉体の老化現象は生命および物質に不可逆的かつ不可避なものであるという事実を突きつけられ、その老化というものの根本の問題は、物質にはなく、それは時間という一方通行の未知にあるということに行き着いた。現在の我々には過去および未来へ行く術はないようだ。過去を記憶することはできる。その記憶こそが過去そのものかも知れない。そして、予想というものは確実というわけではない。予想を予知に変えるものは、その実行力しかない。未来は、未知数であるということ、そして現在は現在にしかすぎない。過去に悔いを残す冬月は、過去の選択肢の幾分に分かれた別の可能性を想像する。そして、過去の選択、つまりあのときあのようにすればどのようになったであろうかと思索する。それは、過去に戻って、やり直したいという意識が生み出す。それは、過去の痛みを消し去りたいと思う気持ちそのものだった。それは、タイムマシーンという幻想につながる。冬月は、過去へと通じるパスポートを書物の記録の中に認めていた。精神と時間の問題がある。記憶があるから、人間は過去があるということを知ることができる。記憶がなくなれば、人間の精神活動はなくなってしまう。つまり、過去を失ってしまうという事だ。過去の記憶があるからこそ、未来を予想することができる。記憶と時間の問題もある。過去の時空と記憶の関係性はあるのか。もし、その関係性があれば、別の時空の鍵を握るのは、精神にあるということである。ただ、残念ながら物体が時間を旅行することはできそうにもない。ただ、精神においてだけが許されたタイムトラベルの可能性を見出すのだった。それが冬月の新設した進化研究所であるのだ。進化とは、すなわち時間の流れを研究するということなのだ。

                                     つづく

※この作品は、作者の虚構に基づく完全なフィクションであり、登場する団体、職名、氏名その他において、万一符号するものがあっても、創作上の偶然であることをお断りしておきます。


 
                                      

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 私と綾が、出の山公園にやってきたのは言うまでもない。夕子と冬月との結納をすませるためであった。 池のほとりにあるレストハウスで、宴会をしようというのである。これで、二人は晴れて許婚の仲になるわけである。ハーブ園を逃れた冬月だったが、今でも山人会の手の平で踊っている状態だった。しかし、何とか私と綾との協力によって、二人の結納にまでこぎつかせたわけだった。我々は、夕子と冬月との仲人ということになるだろう。それでも、古風なる山人会の慣習は破れずして、結納の儀を厳かに行うこととなってしまった。少しばかり堅苦しいかもしれないが、永久の幸福は確定したようなものである。しかし、問題もないわけではない。大体、女というものは開明派が多いというのが通説で、夕子もその説を離れていないということだろう。昔は女が慣習に縛られすぎていたことによる反動が今になって現われて来ているといえるだろう。そして、今では男の方が古風を保つという保守になりがちであった。だから、家庭を持つにすれば、そのアレンジこそが目下の課題ということになってくる。
 では、冬月は一体何の仕事をしているのか。我々もよくわからなくなっている。この出の山公園と高速レストランとの間に神の原というところがあるが、その丘のうえに三番目の研究所を建設してしまっていた。どうやら進化の研究に入るらしい。不老長寿の料理の研究をしているうちに、大学時代の目的を思い出したというのだ。しかし、やはり山人会は不老長寿の研究をさせようとしていて、それを誤魔化すために進化の研究と銘打っているようなのであった。それに、出の山には、なぜかチョウザメがいるので、キャビアの研究までしろといわれる始末なのであった。冬月は、天邪鬼なところがあるので、チョウザメを脇において、田舎料理の定番である鯉こくの秘密をさぐっていた。まあ、チョウザメも鯉も哺乳類も、生殖ホルモンは同じようなので、取れたての白子や卵の入るような料理には効き目があるのは当然であるのだ。冬月も一ヶ月の間にウエイトが三キロも増えた。つまり、冬月は虚弱体質の改善食を見つけたのだった。テストステロンが含まれているであろう鯉こくに滋養強壮作用があるということだ。実は、卵巣に含まれるエストロゲンというステロイドホルモンは、雄性ホルモンでもあるテストステロンを経緯して作られる。エストロゲンは、肝臓に作用して卵に含まれる栄養分をつくらせるようにはたらくのだ。これが卵黄を形成する素になるのだ。これは、キャビアにおいても、鶏卵においても一緒だろう。こういうわけで、こういったステロイドホルモンを食すれば、含有するテストステロンの作用である第二次性徴および成長作用が促進されて、肉体においての発達が促されるのではないかという推論である。コレステロールから作られるステロイドホルモンは、料理での加熱くらいでは破壊されないであろうから、〆た食後の鯉の白子や卵にはたっぷりとホルモンが含まれているに違いないとみた。理屈ではそのようになるだろうが、実際に筋肉がついたのだから論より証拠である。だが、その一月の間、みっちり料理の修行でしごかれたのは言うまでもないことだ。
 ただ、第二次性徴というものは複雑であり、まだまだ解明されない事が多い。しかも生物の進化におけるカスケードは、それぞれの発達や器官を有していて、その類似性だけで物事を判断できないという垣根も存在する。基礎は同じだが、その発達や進化によってさまざまな多様性をもって、環境に適合しているものが生命体といえるようなのだ。だが、その生命の基礎が同じなので、我々は食材として食すということによって、健康の維持のために利用できるということだろう。たとえ動物や植物といっても、その生体構成物質の種類が重なっているので、食材として用いる事ができるのだ。蛋白質、炭水化物、脂肪というものである。だが、含まれる物質で、害を与える物もある。それを毒という。当たり前であるようだが、食材に毒が含まれていては、料理ではなくなってしまうから、注意せねばならないのだ。そこは料理人としての素養でもあろう。古来より、不老長寿を求める集団がいて、生命力の極めて強く、長寿である鯉に目をつけていたにちがいない。ある記録では、鯉の最長寿命記録は二百二十歳?とも言われている。そういう生命にあやかってか、鯉こくという定番ではあるが、オーソドックスな料理が続いているようなのだ。鯉は、不老長寿のシンボルにも違いない。
 私は、不思議な冬月の縁に魅せられて、少しばかり現代と違う世界に入りこんだようだ。今までの私ならば、鯉ならば恋と称して、ピンクの鯉の絵柄を付して、アットホームな家庭への入り口を連想させようとしただだろう。だが、夕子と冬月の結納の儀を見た後では、家庭を築くということは、そのように簡単なことではないということにも気付き始めていた。それは、東国原綾にしてみても同様なのだ。人々は、生活をするということにおいて、子孫繁栄や無病息災を願ってきた。そして、それを維持してきたものが古来の伝統的生活であったことを知れば、その智恵から何かを学んで生きていかねばならないと感じるのだった。そして、その何かはこの出の山公園のほとりにはひっそりと息づいている。名水百選に選ばれた湧水の中にも、ある種の生存の逞しさがある。生きぬく力、はたまた生命の素なのだろうか。限られた条件の中で生活していく、この智恵は恵まれた環境では得られない力だ。そして、進化の源に違いない。あるいは、世代間の断絶を埋めるべく、継承の土台となる部分を先代から受け継がねばなるまい。それは、文明の浸透によるあらゆる様式の変化を越えるものであろう。それは、人類が存続するために必要なすべてであろう。形式に捉われず、そのような根源を伝統文化から抽出しなければ、輝ける未来文明は存続しないだろう。時代が変っても、それでも変らないという家族のあり方が常に存続しなければいけない、そのような着想が私の脳裡に浮ぶのだった。

                                       つづく

※この作品は、作者の虚構に基づく完全なフィクションであり、登場する団体、職名、氏名その他において、万一符号するものがあっても、創作上の偶然であることをお断りしておきます。

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霧山の冬は澄んで清い。
そのような空気に包まれると、身がひきしまる。
それが生きている実感である。一つの恋が終わりを迎え、一つの愛が始まる。
愛の始まりが一つの物語を作り上げる。それが夫婦生活というものだろう。
夢と希望という旗を掲げ、祝福されながら、家庭を築く。
その困難な作業に、挫折と試練が立ちはだかっていようとも、それに立ち向かうことが愛の結晶を生むのだと信じた。そこに、愛の歴史が生まれ、さまざまな造詣ができあがる。
 我々はその歴史の上に乗っかっている。そう思うことからしか、守れないものもあるかもしれない。そういった歴史が残された我々に委ねられていた。私はM観光ホテルを離れ、小林の出の山公園にやってきていた。いでんやまと呼び習わしている。おそらく井出の山であろう。古来、井戸は神聖なものであった。観光宮崎の復興のために、真坂野社長に頼まれたのがきっかけだ。ついでに、東国原綾もくっついてきた。まあ、昭和三十年代の観光ブームというものがあまりにでかかっただけに、平成の不況はその光を奪っていた。そして、人々が自然の光を望まなくなって久しい。その暗い影は、ついに県庁までも覆っていたのだった。暗い話題は多いのだが、なぜか自然の情景だけは輝きを失っていないのが不思議だ。人々が足を遠のけるにつれて、自然の光は回復したという皮肉がある。 観光客が増加すると、ゴミも増加し、マナーが守られなくなった。ここが観光地を破壊した一因でもあった。人々はやがて家に閉じこもり、自然の美しさに興味をもたなくなった。だが、如何に人々の趣味が変わっても、感動というものだけは在るものなのである。感動が在る限り、観光というものは決してなくならない。いや、人生があるかぎり、観光とは必要十分なものであるのだ。人生の節目というものがある。その節目に訪れた各地での思い出の記憶というものは、その観光地の風情と共に思い浮かんでくるものである。だから、この地には老夫婦の訪れが止まないのだろう。つまり、末永く幸せに結ばれたカップルたちだったのだ。
 「やっぱり、この池にはジンクスがあるのかしら。」
 綾が遠くに泳いでいるカモの群れを眺めながら、私に聞いてきた。
 「何のジンクスかい?」
 「それは永遠に恋人どうしでいられるっていうことよ。だって、若いカップルだけじゃなく、年老いた夫婦がやってきているじゃない?」
 「まあ、そういうこともあるかもしれないね。昔、この地に諸県の君・泉媛という女主人がいてね。ここに熊襲征伐の折にやってきた景行天皇と暖かい情愛で結ばれたそうだ。でもね、景行天皇は京に帰らねばならなくなった。別れた後も、泉媛の想いは強く、景行天皇のことを一生涯思い続ける一途さに、この池に身を投げてしまったという話があるようだ。だから、そういう一途な恋が永遠のカップルたちに作用し続けているのじゃないかな。」
「そういうことってあるのかしら。ふつうなら、若いカップルを見ると、嫉妬したくなるんじゃないかしら。」
「いや、日向の女性は昔から大らかで人情味豊かだから、自分が不幸であったとしても、他人の幸福を祝福してくれるんだよ。本来、日本人とは、そういう民族なのさ。それにね、他のカップルを祝福していると、自分もきっと、そういう廻り合わせに逢うということを知っているのさ。とくに、宮崎という土地は、怜悧な理性よりも、暖かい人情によって、成り立っているのさ。」
「それじゃ、経済的に成立しにくい土地なのね。だから、観光地としてやっていくしかなかったのね。」
 私は少しばかり苦笑いしたが、真面目な口調で言った。
「世の中が利口になりすぎて、世の中が住みにくくなった。だから、人々は憩いの場所を求めるのだろう。それが観光の原点だと思う。何にも考えずに、ぼーっと佇む。それだけで気が休まるじゃないか。」
「あんたみたいに、ずっとホテルの一室に箱詰めじゃ無理もないわね。」
「言ってくれるなよ。」
 二人は笑いながら、池の周りを歩くのだった。

                                     つづく

※この作品は、作者の虚構に基づく完全なフィクションであり、登場する団体、職名、氏名その他において、万一符号するものがあっても、創作上の偶然であることをお断りしておきます。



 

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 霞仙女の愛を信じて、ハーブ園を辞した冬月は、春陽草庵に戻ってきていた。霞仙女は、冬月の許には訪れなかった。霞仙女は、そのハーブ園に縛られていて、そこを抜け出すことはできなかったのだ。それは、仙女としての宿命なのであろう。もし、少なからずの愛があったにしても、それは偽りに近く、未熟なものであったに違いない。だが、それは時を重ねれば成就するにちがいなかったが、冬月にはソレに対する忍耐も気力も失っていた。だから、その時を待たずして、別れを選んだのだろう。愛とは時の積み重ねである。冬月は、心の中に過去の幻影を持っている間に、女性と付き合うということにおいては、失礼ではないかと思っていた。だから、霞仙女との生活を許すことができなかったのだ。
 ハーブ園に残った霞仙女は、椅子に座りながら、つぶやいていた。
「もし、今ここにあなたが一緒に居てくれたら、夢を叶えられたのに…。」
 皮肉にも、冬月が夕子に言った言葉と反対のことであった。「夢のために、別れよう。」と言った冬月は、夢を追いかけ、愛を失い、その夢が愛と共にあったということに気付くのであろう。だが、それにやっと気付いたときには、そこには愛はなく、寂寞のわびしさだけがひっそいと胸を苦しみ続けているだけだったのだ。その苦しさもありながら、さらに夢すらも失いつつある。
 冬月は、部屋の中で、夢のために別れた夕子のことを思い出す。取り返しの付かないことをしたと思いながらも、どうすることもできないでいた。そこにあるのは、茫然自失した冬月の白い顔だった。冬月は同じ過ちを何度も何度も繰り返す人形のようであった。それに気付いたときには、自分の周りには何も遺されていない。だが、すでに亜季との離婚による悲哀というものは、何もかもを失いつつある今日には、やがて夕子との別離の記憶と融合しつつあった。そして、霞仙女との出逢いが、それらの悲哀を完全に消滅させてしまったようだった。水に映っている幻の月を追いかけている悲哀は、だんだんと打ち消しあって、次々と現われくる女の幻影によって塗りつぶされていった。人間というものは、無常なものである。数々の思い出が浮かんでは消えていく中、冬月は一体誰を選んだのであろうか。
 悲哀の後には、歓喜が訪れるであろう。霞仙女は去ってしまった。冬月はぽつんと独り残されてしまった。だが、運命というものは、不思議なものである。愛なくして、夢を叶えることができないと知ったとき、冬月の心に浮かんできたのは、蕩けるような夕子の笑顔だった。そして、口をとがらせるがっかりしたような表情であった。冬月は、夕子に会いたいと思った。
 あのバブルの夢は、国家の破綻をすら想像させた。その幻想は未来を奪いつつあった。さらに、不老不死の幻想は、未来の子供たちの存在を脅かした。夢を追いかけることによって、愛を失って、家庭という現実を喪失していたのだ。我々の過ちは、深く大きい。先祖の遺産を食いつくし、子孫に多大な重責を残して去っていく。彼らには、不老不死による永遠の苦悩だけがふさわしいと思えた。だが、それは叶わぬ夢と成り果てた。冬月は夢に溺れ、夕子もまた夢の幻想に溺れ、目の前に現われる家庭という現実から逃げ惑った。その結果は、夢に惑い、愛を失うというつらい現実しか残すことはなかったのである。亜季との離婚すらも、夢へと逃げた冬月の幻想の果てであった。その悲痛というものは、現実を取り戻すために神が与えた愛の歎きそのものであったのだろう。真実が正解とは限らないと悟りながらも、結局正解が実行できるとも限らないと至った、この現実の哀れがある。崩れ行くバビロンの黄金伝説のうように、兵共は夢を散らせて行く。
 冬月はバイクに跨り、夕子の働く高速レストランに向っていた。夕子がまだ待っていることを望みながら…。冬月は、過去の未練をすべて断ち切っていた。猫とこたつのある生活が待っている。バイクを走らせながら眺める景色には、ツワブキの黄色い花がたくさん揺れていた。
 冬月がレストランに到着すると、すぐに夕子が休憩室にいることがわかった。あの笑顔があることがわかった。いつもは職場では近づく事も難しいというのに、こういう切羽詰まったときには、チャンスが横たわっている。いや、用意されているようだ。
 冬月は、部屋に入って夕子を見つめると、愛しくなった。そして、訳がわからないながらも、
「君と共に夢を叶えよう。」
と言葉をつないでいた。
 夕子は、別に戸惑ったふうもなく、当たり前のように、
「ええ、そうしましょう。あなたにかけるわ。」と答えた。
 すれ違って居ながらも、短い期間だけで、呼応するように互いの存在が惹かれあった瞬間であった。ただ、これだけのことであるのに、永遠にくっつくことのできないような停止した時を過ごしてきた二人のようである。だが、これで過去の未練を捨て切れずに、夢へと逃亡していた冬月が、やっと現実に戻ることができたのだった。それが、愛のある生活だった。過去の幻想ではなく、ここにいる夕子との現実に、愛を求めようと決意した言葉であったのだ。愛なくして、何が夢であろうかと。

 ハンガーに小さな子供服がかけてある。そして、大事な宝物を抱えるように小さなベイビーを抱いている。
                                二部へ つづく

※この作品は、作者の虚構に基づく完全なフィクションであり、登場する団体、職名、氏名その他において、万一符号するものがあっても、創作上の偶然であることをお断りしておきます。


 


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