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私と冬月は真坂野観光ホテルで話し合っていた。冬月は、話の合間にしきりに霧山に帰るといいだすのだった。ホテルの西館は、だいたいの改装を終えていた。私は非常に気に入って、合格点を与えていたが、冬月は全然気に入らないようであった。冬月は、その空間が和風になってほしかったようなのである。しかし、大淀川沿いの風景と比べて見れば、パリ風のカフェがやはりふさわしいと思ったが、しっかりと南国風のアロエベラやシュロが植えてあって、独特の風采を与えていた。通路には、バショウなんかの観葉植物が飾ってあり、おしゃれな空間に生まれ変わっていた。 |
小説・霧山幻想2
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冬月は、日南海岸から飫肥にかけての旅によって、一つの問題解決を思った。それは、日本社会がかかえて、おきざりにしてしまった問題だったのである。宮崎は経済的にも貧しく、とても離婚率が高い地方であった。冬月が亜季と生活できず、さらに夕子との恋愛の進展ができなかった理由もわかってきた。それは、この地方に根付いている南国の伝統文化に原因があったのだ。亜季の父・窮々亭今旧は武家であり、その妻は、南九州ではノロ(祝女)と呼ばれる巫女の家系だったのではないか。そうなれば、亜季は巫女の伝統をかかえることになる。武家は、父系制家族制度を敷いていて、女性は相続から除外されていた。つまり、父系の血統を尊重する意識に覆われていた。嫁入り婚が一般化しており、女の一生は当主である父・夫・息子の扶養と支配を受ける隷属的身分を強いられていた。また、武家の女性は儒教的封建道徳に縛られて、「三従」の生活を強いられるのだ。これは江戸時代の武家の家族制度であり、明治の薩長政府は、このような制度で家というものを強制してしまったようなのだ。それが教育勅語のように国民国家としての国民的模範とされていったようなのだ。江戸時代の日本人は、さまざまな習俗を持つ人々によって、いわば住み分けをしていた。だから、武家と百姓が結婚するということは許されていなかったのだ。それは、文化の接触が行われないということである。しかし、明治維新後、四民平等となって、さまざまな男女が恋愛関係に落ちて、家庭を築こうとするとき、そこにそれぞれの人々の家々における文化の違いによって、食い違いが生じてくる。しかし、教育水準や文化の違いによって、そのような問題を解決する方向に進まず、武家の家族制度を押し付けてしまったようである。だが、それまででも庶民の女性は家業を分担していたこともあって、家庭内ではいくらかの発言権と意志の自由をもっているのだった。そのように、武家でも巫女の出る家でも、伝統文化は別にしても、平等な家庭生活を考慮しなければならなくなる。 |
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冬月が悲痛の海の中に沈んでいる。亜季との離別の後、杉原夕子との思い出というものが、亜季の後に開いた傷跡を嘗め尽くし、幻想によって、古傷を塞がざるを得ない苦難を再発した。冬月が亜季と出会う前の出来事を、夕子は繰り返してしまったのだ。だから、冬月は流されるしかなかった。夕子との出来事が、冬月の傷跡を癒してくれるということを期待していたが、旅に出るということによって、その期待は遠く遠く離れていくのであった。冬月が若かりし頃に受けた失恋の痛手は、干支が一回りした今日に至って、再び浮かび上がってきた。その失恋の胸の痛みは、五年ほど続く長いものであった。それは、亜季との出会いによって、緩和されていた類の古傷であった。 |
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冬月と私は、真坂野観光ホテルに戻っていた。冬月は振徳堂に行ってから、悠塾の一件と亜季との離婚のことで、頭がいっぱいになっていた。亜季との離婚のことは、冬月にとってかなりのダメージであったが、離婚の原因が悠塾と関わっていたということに、今さらながら気づくのだった。それまでは、新会社の設立なんかで、全然考える暇がなかったのだが、ホテルでゆっくりと考えて見ると、どうも悠塾を解散させるということが目的にあったのではないか、と思えてきた。悠塾があったから、亜季と離婚したのか。離婚したから、悠塾が解散したのか。いや、どちらでもいい話だ。そこで、杉原夕子の会話が思い出されてくる。 |
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この旅は長くなるというが、これは逃避行ではない。冬月の心は、菩薩の心に定まっていた。冬月の霧の中の仕事が残されていたのだった。浜口内閣の改革で、どれだけの地域が立ち遅れているのかを秘密裏に調査しなくてはならなかった。これは、再生機構の山川秋水に密かに伝えられた指令でもあったのだ。 |





