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学問をするには分限を知ること肝要なり。人の天然生れ附きは、繋がれず縛られず、一人前の男は男、一人前の女は女にて、自由自在なる者なれども、ただ自由自在とのみ唱えて分限を知らざれば我儘放蕩に陥ること多し。即ちその分限とは、天の道理に基づき人の情に従い、他人の妨げをなさずして我一身の自由を達することなり。自由と我儘との境は、他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり。譬えば自分の金銀を費やしてなすことなれば、仮令い酒色に耽り放蕩を尽すも自由自在なるべきに似たれども、決して然らず(そうではない)、一人の放蕩は諸人の手本となり遂に世間の風俗を乱りて人の教えに妨げをなすがゆえに、その費やすところの金銀はその人のものたりともその罪許すべからず。 |
悠塾の心得
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『氷川清話』 勝 海舟 1897(明治三十年)
『学問のすすめ』 福澤諭吉
1872(明治五年)〜1876(明治九年)
『福翁自伝』 福澤諭吉 1997(明治三十年)
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学問とは、ただむつかしき字を知り、解し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上に実なき文学を言うにあらず。これらの文学も自ずから人の心を悦ばしめ随分調法なるものなれども、古来世間の儒学和学者などの申すよう、さまであがめ貴むべきものにあらず。古来漢学者に世帯持の上手なる者も少なく、和歌をよくして商売に巧者なる町人も稀なり。これがため心ある町人百姓は、その子の学問に出精するを見て、やがて身代を持ち崩すならんとて親心に心配する者あり。無理ならぬことなり。畢竟その学問の実に遠くして日用の間に間に合わぬ証拠なり。されば今かかる実なき学問は先ず次にし、専ら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。譬えば、いろは四十七文字を習い、手紙の文言、帳合の仕方、算盤の稽古、天秤の取扱い等を心得、なおまた進んで学ぶべき箇条は甚だ多し。地理学とは日本国中は勿論世界万国の風土道案内なり。究理学とは天地万物の性質を見てその働きを知る学問なり。歴史とは年代記のくわしきものにて万国古今の有様を詮索する書物なり。経済学とは一身一家の世帯より天下の世帯を説きたるものなり。修身学とは身の行いを修め人に交わりこの世を渡るべき天然の道理を述べたるものなり。これらの学問をするに、いずれも西洋の翻訳書を取調べ、大抵の事は日本の仮名にて用を便じ、或いは年少にして文才のある者へは横文字をも読ませ、一科一学も実事を押え、その事に就きその物に従い、近く物事の道理を求めて今日の用を達すべきなり。右は人間普通の実学にて、人たる者は貴賎上下の区別なく皆悉くたしなむべき心得なれば、この心得ありて後に士農工商各々その分を尽し銘々の家業を営み、身も独立し家も独立し天下国家も独立すべきなり。 |
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天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり。されば天より人を生ずるには、万人は万人皆同 |
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大河や大海が百谷の王者でありうるのは、それが低きにいて善くへりくだるから、 |
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節義廉恥を失ひて、国を維持するの道決して有らず、西洋各国同然なり。上に立つ者下に臨みて利を争 |


