平成17年4月6日から平成23年9月6日までのブログ

日本の四季を大切にしよう。引越し先でも閲覧可。下の一言が入り口↓ 容量2GBを超えたので引越ししたよ。

悠塾の心得

[ リスト | 詳細 ]

『文明論之概略』 福澤諭吉 1875(明治八年)
『氷川清話』   勝 海舟 1897(明治三十年)
『学問のすすめ』 福澤諭吉 
   1872(明治五年)〜1876(明治九年)
『福翁自伝』   福澤諭吉 1997(明治三十年)

明治の時代背景を考慮して読んでいただきたい。


 丸山真男によれば、福澤諭吉は「脱亜入欧」なんて言っていないらしい。儒教の道徳は、ちゃんと認めていた。
記事検索
検索

品行家風6

イメージ 1

 また家の中に秘密事なしというのが私方の家風で、夫婦親子の間に隠すことはない、ドンナことでも言われないことはない。子供が段々成長して、これはあの子に話してこの子には内証なんて、ソンナことは絶えてない。親が子供の不行届きを咎めてやれば、子供もまた親の失策を笑うというような次第で、古風な目をもって見ると一寸と尊卑の礼儀がないように見えましょう。
 その礼儀のことについて申せば、家の主人が出入りするとき家内の者が玄関まで送迎してお辞儀をするというようなことがよく世間にあるが、私のところでは絶えてソンナことがない。私の外出するには、玄関からも出れば台所からも出る。帰るときもその通りで、ただ足の向いた方に這入って来る。或いは車に乗って帰って来た時に、車夫また別当共へ、玄関のところでお帰りなんて余計なことを言ってくれるな、という訳けであるから、いくら玄関でどなっても出て来る人はない。その一点になると、世間の人じゃない近くは内の御祖母さんが怪しんでいましょう。この老人は土岐家の後室、本年七十七歳、むかしは奥平藩士の奥様で、武家の礼儀作法を大事に勤めた身であるから、今日の福澤の家風を見て、何分無作法で善くない、さればとてこれが悪いという箇条もない、妙なことだと思っているだろうと、私はひそかに推察します。

 (『福翁自伝』 品行家風 家の秘密事なし 礼儀足らざるが如し より )

子供の活動を妨げず

イメージ 1

 養育法は着物よりも食物の方に心を用い、粗服はさせても滋養物はきっと与えるようにして、九人とも幼少の時から休養に不足はない。またその躾方は温和と活発とを旨として、大抵のところまでは子供の自由に任せる。例えば風呂の湯を熱くして無理に入れるようなことはせずに、据風呂の側に大きな水桶を置いて、子供の勝手次第に、ぬるくも熱くもさせる。全く自由自在のようなれども、さればとて食物を勝手に任せて何品でも食い次第にするという訳けではない。また子供の身体の活発を祈れば室内の装飾などはとても手に及ばぬことと覚悟して、障子唐紙を破り諸道具に疵つけてもまず見のがしにして、大抵は乱暴には大きな声をして叱ることはない。酷く剛情を張るようなことがあれば、父母の顔色を六かしくして睨むくらいが頂上で、如何なる場合にも手を下して打ったことは一度もない。また親が実子に向かっても嫁に接しても、また兄姉が弟妹に対しても名を呼び捨てにせず、家の中に厳父慈母の区別なく、厳と言えば父母共に厳なり、慈と言えば父母共に慈なり、一家の中は朋友のようで、今でも小さい孫などは、阿母さんはどうかすると怖いけれども、お祖父さんが一番怖くないと言っている。世間並にすると少し甘いように見えるが、ソレデモ私方の孫子に限って別段に我儘でもないし、長少戯れながら長者の真面目に言うことはよく聞いて逆らう者もないから、余り厳重にせぬ方が利益かと思われる。

 (『福翁自伝』 品行家風 子供の活動を妨げず より )

妻を娶って九子を生む

イメージ 1

 ソレカラ私方の家事家風を語りましょう。文久元年旧同藩士の媒酌をもって同藩士族江戸定府土岐太郎八の次女を娶り、これが今の老妻です。結婚の時私は二十八歳、妻は十七歳、藩制の身分を申せば妻の方は上流士族、私は小士族、少し不釣合いのようにあるが、血統は両人共すこぶる宜しく、往古はイザ知らず、凡そ五世以降双方の家に遺伝病質もなければ忌むべき病に罹りたる先人もなし。妻は無論、私の身に悪疾のあるべきようもなく、夫妻無病。文久三年に生まれたのが一太郎、その次は捨次郎と、次第に誕生して四男五女、合わして九人の子供になり、幸いにして九人とも生まれたままみな無事で一人も欠けない。九人の内五人までは母の乳で養い、以下四人は多産の母の身体衛生のために乳母を雇うて育てました。

 (『福翁自伝』 品行家風 妻を娶って九子を生む より )

品行家風5

イメージ 1

 元来私は生れ付き殺風景でもあるまい、人間の天性に必ず無芸殺風景と約束があるでもなかろうと思うが、何分私の性質というよりも少年の時から様々の事情がコンナ男にしてしまったのでしょう。まず第一に私は幼少の時から教育の世話をしてくれる者がないので、ロクに手習いもせずに成長したから、今でも書が出来ない。成長の後でも自分で手本を習うたら宜さそうなものだが、その時は既に洋学の門に入って天下の儒者流を目の敵にして、儒者のすることなら一から十まで気に入らぬ、就中その行状が好かない。口に仁義忠孝など饒舌べりながら、サアというときにはそれほどに意気地はない。殊に不品行で酒を飲んで詩を作って書がうまいと言えば評判が宜い。すべて気に食わぬ。よしよし洋学流の吾々は正反対に出掛けてやろうという気になって、あたかも江戸の剣術全盛の時代に刀剣を売り払ってしまい、かねて嗜きな居合もやめて知らぬ風をしていたような塩梅式に、儒者の奴らが詩を作ると言えば此方はわざと作らずにみせよう、奴らが書を善くすると言えば此方は殊更に等閑にして善く書かずに見せようと、飛んだところに力身込んで手習いしなかったのが生涯の失策。私の家の遺伝を言えば、父も兄も文人で、殊に兄は書も善くし、画も出来、篆刻も出来るほどの多芸な人に、その弟はこの通り無芸無能、書画はさておき骨董も美術品も一切無頓着、住居の家も大工任せ、庭園の木石も植木屋次第、衣服の流行など何やら少しも知らずまた知ろうとも思わず、ただ人の着せてくれるものを着ている。あるとき家内の留守に急用が出来て外出のとき、着物を着替えようと思い、箪笥の引き出しをあけて一番上にある着物を着て出て、帰宅の上、家内の者が私の着ているものを見て、ソレは下着だと言って大いに笑われたことがある。殺風景も些と念入りの殺風景で、決して誉めた話でない。畢竟少年の時から種々様々の事情に逐われてコンナことに成り行き、生涯これで終るのでしょう。とかく世間の人の喜んでいるようなことは、私には楽しみにならぬ、誠に損な性分です。ダカラ近来は芝居を見物したり、または宅に芸人などを呼ぶこともあるが、これとて無上の快楽事とも思われず、マアマア児孫を集めて共に戯れ、色々な芸をさせたり嗜きな物を馳走したりして、一家内の長少睦じく互いに打ち解けて語り笑うその談笑の声を一種の音楽として、老余の楽しみにしています。

 (『福翁自伝』 品行家風 不風流の由来 より )

イメージ 1

 前に申す通り、私は江戸に来て六年目に初めて上野という所を見て、十四年目に初めて向島を見たというくらいの野暮だから、もちろん芝居なども見物しとことはない。少年のとき旧中津藩で、藩主が城内で田舎の役者共を呼び出して芝居を催し、藩士ばかりに陪観させる例があって、その時に一度見物して、その後大阪修行中、今の市川団十郎の実父海老蔵が道頓堀に興行中、ある夜、同窓生が今から道頓堀の芝居に行くから一緒に行こう、酒もあると言うから、私は酒と聞いて応と答え、ソレカラ行く道で酒を一升買って、徳利を携えて二、三人連れて芝居に這入り、夜分二幕か三幕見たのが生来二度目の見物。ソレカラ江戸に来て、江戸が東京となっても、芝居見物のことは思い出しもせず、またその機会もなくしている中に、今を去ることおよそ十五、六年前、不図したことで初めて東京の芝居を見て、そのとき戯れに、
              誰道名優伎絶倫 先生遊戯事尤新 
              春風五十独醒客 却作梨園一酔人
 という詩が出来ました。これを見ると私が変人のようにあるが、実は鳴物は甚だ好きで、女の子には娘にも孫にも琴三味線をはじめ、また運動半分に踊りの稽古もさせて、老余唯一の楽しみにしています。

 (『福翁自伝』 品行家風 初めて東京の芝居を観る より )


.
霧山人
霧山人
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

エコロジー

日本的なもの

標準グループ

感覚として

健康について

わーるど・ネット

小説家たち

政治勢力

料理ひと

Yahoo!からのお知らせ

友だち(8)
  • ゆきの@冬地蔵
  • RYUMYAKU
  • C-KOA
  • 杉山 浩司
  • ayumu
  • oxauco
友だち一覧
検索 検索

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事