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悠塾の心得

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『文明論之概略』 福澤諭吉 1875(明治八年)
『氷川清話』   勝 海舟 1897(明治三十年)
『学問のすすめ』 福澤諭吉 
   1872(明治五年)〜1876(明治九年)
『福翁自伝』   福澤諭吉 1997(明治三十年)

明治の時代背景を考慮して読んでいただきたい。


 丸山真男によれば、福澤諭吉は「脱亜入欧」なんて言っていないらしい。儒教の道徳は、ちゃんと認めていた。
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本藩の扶持米を辞退す

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 これまで申したところでは、何だか私が潔白な男のように見えるが、なかなかそうでない。この潔白な男が本藩の政庁に対しては、不潔白とも卑劣とも名状すべからざる挙動をしていました。話は少々長いが、私が金銭のことにつき数年の間に豹変したその由来を語りましょう。王政維新のその時に、幕府から幕臣一般に三カ条の下問を発し、第一王臣になるか、第二王臣になって静岡に行くか、第三帰農して平民になるかと言って来たから、私は無論帰農しますと答えて、その時から大小を捨てて丸腰になってしまい、ソコでこれまで幕府の家来になっているとはいいながら、奥平からも扶持米を貰っていたので、幕臣でありながら半ばは奥平家の方から貰っている六人扶持か八人扶持の米も、御辞退申すと言って返してしまいました、と申すはその時に私の生活はカツカツ出来るか出来ないかというくらいであるが、しかしドウかしたなら出来ないことはないと、おおよそその見込みが付いていました。前にも言う通り私は一体金の要らない男で、一方では多少の著訳書を売って利益を収め、また一方では頓と無駄な金を使わないから多少の貯蓄も出来て、赤貧ではない。これからさき無病堅固にさえあれば、他人の世話にならずに衣食して行かれると考えをきめて、ソレで男らしく奥平家に対しても扶持方を辞退しました。スルト奥平の役人たちは、却ってこれを面白く思わぬ。「ソンナにしなくても宜い、これまで通りやろう」と言って、その押問答がなかなか喧しい。妙なもので、此方が貰おうというときには容易にはくれぬものだが、要らないと言うと向こうが頻りに強いる。ソレでもしまいには、ドウもお前は不親切だ、モウ一歩進めると藩主に対して薄情不忠な奴だと言うまでになって来た。それから此方も意地になって「ソレなら戴きましょう。戴きましょうだが、毎月その扶持米を精げて貰いたい。モ一つ序でに、その米を飯か粥に焚いて貰いたい。イヤ毎月と言わずも毎日貰いたい。すべての失費は皆、米の内で償いさえすれば宜いからそうして貰いたい。ソレでドウだと申すに、お扶持を貰わなければ不親切不忠と言われる。願いの通りそのお扶持米が飯か粥になって来れば、私は新銭座私宅近所の乞食に触を出して、毎朝来い、食わしてやると申して、私が殿様から戴いた物を、私宅の門前において難渋者共に戴かせます積りです」というような乱暴な激論で、役人たちも困ったと見え、とうとう私の言う通りに奥平藩の縁も切れてしまいました。

 (『福翁自伝』 一身一家経済の由来 本藩の扶持米を辞退す より )

一身一家経済の由来6

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                乗船切符を偽らず

 右様な大金の話ではない、極々些細のことでも一寸とごまかして貪るようなことは私の虫が好かない。明治九年の春、私が長男一太郎と次男捨次郎と両人を連れて上方見物に行くとき、一は十二歳余り、捨は十歳余り、父子三人従者も何もなしに、横浜から三菱会社の郵便船に乗り、船賃は上等にて十円か十五円、規則の通りに払うて神戸に着船、金場子平次というかねて懇意の問屋に一泊、ソレカラ大阪、京都、奈良等、諸所見物して神戸に帰って来て、また三菱の船に乗り込むとき、問屋の番頭に頼んで乗船切符を買い、サア乗り込みというときにその切符を請け取って見れば、大人の切符が一枚と子供の半札が二枚あるから、番頭を呼んで「先刻申した通り切符は大人が二枚、子供が一枚の筈だ、何かの間違いであろう、替えて貰いたい」と言うと、番頭は落ち付き払い「ナーニ間違いはありません。大きいお坊っちゃんのお年もお誕生も聞きました。正味十二と二、三ヶ月、半札は当然です。規則には満十二歳以上なんて書いてありますが、満十二と二、三ヶ月でも二、三日でも規則は規則だ、是非規則通りに払う」と言うと、番頭もなかなか剛情で「ソンナ馬鹿なことは致しません」と言って議論のように威張るから、「何でも宜しい。乃公は乃公の金を出して払うものを払い、貴様にはただその周旋を頼むだけだ。何も言わずにくれろ」と申して、何円か金を渡して、乗船前、忙しいところに切符を取替えたことがある。これは何も珍しくない、買物の代を当然に払うまでのことだから、世間の人もそうであろうと思うけれども、今日たとえば汽車に乗ってみると、青い切符をもって一寸と上等に乗り込む人もあるようだ。過日も横浜から例の青札をもって、ソット奴の手に握ってる中等切符を見て、さてさて賤しい人物だと思いました。
 
 (『福翁自伝』 一身一家経済の由来 乗船切符を偽らず より )

一身一家経済の由来5

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                子供の学資金を謝絶す

 それにまた似寄ったことがある。明治の初年に横浜のある豪商が学校を拵えて、この慶応義塾の若い人を教師に頼んでその学校の始末をしていました。そうするとその主人は、私にみずから新塾に出張して監督をして貰いたいという意があるように見える。私の家には、そのとき男子が二人、娘が一人あって、兄が七つに弟が五つぐらい。これも追々成長するに違いない、成長すれば外国に遊学させたいと思っている。ところが世間一般の風を見るに、学者とか役人とかいう人がややもすれば政府に依頼して、自分の子を官費生にして外国に修業させることを祈って、ドウやらこうやら周旋が行き届いて目的を達すると、獲物でもあったように喜ぶ者が多い。嗚呼見苦しいことだ、自分の産んだ子ならば学問修業のために洋行させるも宜しいが、貧乏で出来なければさせぬが宜しい、それを乞食のように人に泣き付いて修業をさせて貰うとは、さてもさても意気地のない奴共だと、心窃にこれを愍笑していながら、私にも男子が二人ある、この子が十八、九歳にもなれば是非とも外国に遣らなければならぬが、先だつものは金だ、どうかしてその金を造り出したいと思えども、前途甚だ遥かなり、二人遣って何年間の学費はなかなかの大金、自分の腕で出来ようか如何だろうか、誠に覚束ない、困ったことだと常に心に思っているから、敢えて恥ずることでもないし、颯々と人に話して「金が欲しい、金が欲しい、ドウかして洋行させたい、今この子が七歳だ五歳だというけれども、モウ十年経てば仕度をしなければならぬ、ドウもソレまでに金が出来れば宜いが」と、人に話していると、誰かその話を例の豪商にも告げた者があるか、ある日私のところに来て商人の言うに「お前さんにあの学校の監督をお頼み申したい、かく申すのは月に何百円とかその月給を上げるでもない、わざわざ月給と言っては取りもしなかろうが、ここに一案があります、外でもない、お前さんの子供両人、あのお坊ッちゃん両人を外国に遣るその修業金になるべきものを今お渡し申すが如何だろう、ここで今五千円か一万円ばかりの金をお前さんに渡す、ところで今いらない金だからソレをどこへか預けておく、預けておくうちに子供衆が成長する、成長して外国に行こうというときには、その金も利倍増長して確かに立派な学費になって、不自由なく修業が出来ましょう、この御相談は如何でござる」と言い出した。なるほどこれは宜い話で、此方はモウ実に金に焦がれているその最中に、二人の子供の洋行費が天から降って来たようなもので、即刻、応と返辞をしなければならぬところだが、私は考えました。待てしばし、どうもそうでない、そもそも乃公があの学校の監督をしないというものは、しない所以があってしないとチャント説をきめている。ソコで今金の話が出て来て、その金の声を聞き、前説を変じて学校監督の需に応じようと言えば、前にこれを謝絶したのが間違いか、ソレが間違いでなければ今その金を請け取るのが間違いである。。金のために変説と言えば、金さえ見れば何でもすると、こう成らなければならぬ。これは出来ない。且つまた今日金の欲しいというのは何のために欲しいかと言えば、子供のためだ。子供を外国で修業させて役に立つようにしようという目的であるが、子を学者にするということが果たして親の義務であるかないか、これも考えてみなければならぬ。家に在る子は親の子に違いない。違いないが、衣食を授けて親の力相応の教育を授けて、ソレで沢山だ。如何あっても最良の教育を授けなければ親たる者の義務を果たさないという理窟はない。親が自分に自ら信じて心に決しているその説を、子のために変じて進退するといっては、いわゆる独立心の居所がわからなくなる。親子だと言っても、親は親、子は子だ。その子のために節を屈して子に奉公しなければならぬということはない。宜しい、今後もし乃公の子が金のないために十分の教育を受けることが出来なければ、これはその子の運命だ。幸いにして金が出来れば教育してやる、出来なければ無学文盲のままにして打っ遣っておくと、私の心に決断して、さて先方の人は誠に厚意をもって話してくれたので、もとより私の心事を知る訳けもないから、体よく礼を述べて断りましたが、その問答応接の間、私は眼前に子供を見てその行末を思い、また顧みて自分の身を思い、一進一退これを決断するには随分心を悩ましました。その話は相済み、その後も相変わらず真面目に家を治めて著書翻訳の事を勉めていると、存外に利益が多くて、マダその二人の子供が外国行の年頃にならぬさきに金の方が出来たから、子供を後回しにして中上彦次郎を英国に遣りました。彦次郎は私のためにたった一人の甥で、彼方もまたたった一人の叔父さんで外に叔父はない、私もまた彦次郎の外に甥はないから、まずお親子のようなものです。あれが三、四年も英国に居る間には随分金も費やしましたが、ソレでも後の子供を修業に遣るという金はチャント用意が出来て、二人ともアメリカに六年ばかり遣っておきました。私は今思い出しても誠に宜い心持がします。よくあの時に金を貰わなかった、貰えば生涯気掛かりだが、宜いことをしたと、今日までも折々思い出して、大事な玉にキズを付けなかったような心持がします。

 (『福翁自伝』 一身一家経済の由来 子供の学費金を謝絶す より )

一身一家経済の由来4

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                  事変の当日約束の金を渡す

 ソコでもって慶応三年、すなわち王政維新の前年の冬、芝新銭座に有馬家(大名)の中屋敷が四百坪ばかりあるその屋敷を私が買いました。徳川の昔からの法律によると、武家屋敷は換え屋敷を許しても売買は許さないというのが掟であった。ところが徳川もその末年になると様々な根本的改革というようなことが行われて、武家屋敷でも代金をもって売買勝手次第ということによって、新銀座の有馬の中屋敷が売り物になると人の話を聞いて、同じ新銀座住居の木村摂津守の用人大橋栄次という人に周旋を頼んで、その有馬屋敷を買うことに約束して、値は三百五十五両、その時のことだから買うといったところが、武家と武家との間で手金だの証書取換せなどということのあろう訳けはない、ただ売りましょう然らば則ち買いましょうというだけの話で約束が出来て、その金の受け取り渡しは何時だと言うと、十二月二十五日に金を相渡し申す、請け取ろうと、チャント約束が出来ていて、それから私はその門が締まって潜戸まで閉ざしてある。それから門番に「ここを明けてくれ、何で締めて置くか」と言うと、「イーエここは明けられません」「明けられませんたって福澤だ」と言うのは、私はアメリカ行の由縁で、木村家には常に出入して家の者のようにしていたから、門番も福澤と聞いて潜戸を明けてくれたはくれたが、何だか門番が騒々しい、ドタバタやっている。何事か知らんと思って南の方を見ると、真黒な煙が立っている。ソレで木村の玄関に上がって大橋に会って、大変騒々しいが何だと言うと、大橋がヒソヒソして「お前さんは何もしらぬが、大変なことが出来ました、大騒動だ、酒井の人数が三田の薩州の屋敷を焼き払おうという、ドウもそりゃ大騒動、戦争でござる」と言うから、私も驚いて「ソリャ少しも知らなかった、なるほどドウも容易ならぬ形勢だが、それはそれとして、時にあの屋敷の金を持って来たから渡しておくんなさい」と言うと、大橋が「途方もない、屋敷どころの話じゃない、何のことだ、モウこりゃ江戸中の屋敷が一銭の値なしだ、ソレを屋敷を買うなんてソンナ馬鹿らしいことは一切やめだ、マアそんなことをしなさるな」と言って取り合わぬから、私は不承知だ。「ソリャそうでない、今日渡すという約束だからこの金は渡さなくてはならぬ」と言うと、大橋は脇の方に向いて「約束したからといって時勢によったものだ、この大変な騒動中に屋敷を買うというような馬鹿げたことがあるものか。仮令い今買えばと言っても、三百五十五両を半価にしろと言えば半値にするに違いない、ただの百両でも喜んで売るだろう、とにかくに見合わせだ、やめだやめだ」と言って相手にならぬから、私は押し返して「イヤそれは出来ません。大橋さん、よくお聞きなさい。先達これを有馬から買おうというときに、何と貴方は約束なすったか、ただ十二月の二十五日すなわち今日、金を渡そう、受取ろうと、ソレより外に何にも約束はなかった。もし万が一、世の中に変乱があれば破約する、その価を半分にするという言葉が、約束の中にあるかないかというに、そんな約束はないではないか。仮令い約条書がなかろうと、人と人と話したのが何よりの証拠だ。売買の約束をした以上は当然に金を払わぬこそ大きな間違いだ、何でも払わんければならぬ。しかのみならず、マダ私が言うことがある。もし大橋さんの言う通りにこの三百五十五両を半価にせよとか百両にせよとか言えば、時節柄有馬家では承知するであろう。ソコで私が三百五十五両の物を百両に買ったと、こうしたところで、この変乱がどんなになるかわからない。今あの通り酒井の人数が三田の薩州屋敷を焼き払っているが、これが何でもないことで、天下泰平、安全の世の中になるまいものでもない。さていよいよ天下泰平になって、私があの屋敷は三百五十五両の約束をしたが、金の請け渡しのその日に三田に大変乱があったそのために百両で売った、福澤は二百五十五両、得をして、有馬家では二百五十五両、損をしたと、通るたびに睨んで通るに違いない。口に言わないでも心にそう思って忌な顔をするにきまっている。私はソンナ不愉快な屋敷に住もうと思わない。何はさておき、構うことはない、ドウぞこの金を渡して下さい。皆無損をしても宜しい。この金をただ渡したばかりで、その屋敷に住まうどころではない、逃げ出して行くというような大騒動があるかも知れない。有ればあった時の話だ。人間世界のことは何が何やらわからない、確かに生きていると思う人が死んだりする。いわんや金だ、何でも渡さなければならぬ」とねじくれ込んで、とうとう持って行って貰いました。そういう訳けで誠に私が金ということについて極めて律義に正しくやっていたというのは、これは矢張り昔の武家根性で、金銭の損得に心を動かすのは卑劣だ、気がうえるというようなことを思ったものと見えます。

 (『福翁自伝』 一身一家経済の由来 事変の当日約束の金を渡す より )

一身一家経済の由来3

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 ソコデ私が金を大事にする心掛けの事実に現われた例を申せば、江戸に参ってから下谷練塀小路の大槻俊斎先生の塾に朋友があって、私はそのとき鉄砲洲に居たが、その朋友のところへ話しに行って、夜になって練塀小路を出掛けて、和泉橋の所に来ると雨が降り出した。こりゃドウも困ったことが出来た、とても鉄砲洲までは行かれないと思うと、和泉橋の側に辻駕籠が居たから、その駕籠屋に鉄砲洲まで幾らで行くかと聞いたら、三朱だと言う。ドウも三朱という金を出してこの駕籠に乗るは無益だ、此方は足がある。ソレは乗らぬことにして、その少し先に下駄屋が見えるから、下駄屋へ寄って下駄一足に傘一本買って両方で二朱余り、三朱出ない。それから雪駄を懐に入れて、下駄をはいて傘をさして鉄砲洲まで帰って来た。デその途中私は独り首肯き、この下駄と傘があればまた役に立つ、駕籠に乗ったって何も後に残るものはない、こんなところが慎むべきことだと思ったことがありますが、マアそのくらいに注意していたから、外は推して知るべし、一切無駄な金を使ったことがない。紙入に金を入れておく、ソレは二分か三部か入れてある、入れてあるけれども何時まで経ってもその金がなくなったことがない。酒はもとより好きだから朋友と酒を飲みに行くことはある、ソンナ時には金も入りますが、ただ独りでブラリと料理茶屋に這入って酒を飲むなぞということは仮初にもしたことがない。ソレほどに私が金を大事にするから、また同時に人の金も決して貪らない。ソリャ以前、奥平家に対して朝鮮人を気取ったのは別な話にして、その外というものは決して金は貪らないと、自身独立自力自活と覚悟をきめました。

 (『福翁自伝』 一身一家経済の由来 駕籠に乗らず下駄傘を買う より )


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