|
これまで申したところでは、何だか私が潔白な男のように見えるが、なかなかそうでない。この潔白な男が本藩の政庁に対しては、不潔白とも卑劣とも名状すべからざる挙動をしていました。話は少々長いが、私が金銭のことにつき数年の間に豹変したその由来を語りましょう。王政維新のその時に、幕府から幕臣一般に三カ条の下問を発し、第一王臣になるか、第二王臣になって静岡に行くか、第三帰農して平民になるかと言って来たから、私は無論帰農しますと答えて、その時から大小を捨てて丸腰になってしまい、ソコでこれまで幕府の家来になっているとはいいながら、奥平からも扶持米を貰っていたので、幕臣でありながら半ばは奥平家の方から貰っている六人扶持か八人扶持の米も、御辞退申すと言って返してしまいました、と申すはその時に私の生活はカツカツ出来るか出来ないかというくらいであるが、しかしドウかしたなら出来ないことはないと、おおよそその見込みが付いていました。前にも言う通り私は一体金の要らない男で、一方では多少の著訳書を売って利益を収め、また一方では頓と無駄な金を使わないから多少の貯蓄も出来て、赤貧ではない。これからさき無病堅固にさえあれば、他人の世話にならずに衣食して行かれると考えをきめて、ソレで男らしく奥平家に対しても扶持方を辞退しました。スルト奥平の役人たちは、却ってこれを面白く思わぬ。「ソンナにしなくても宜い、これまで通りやろう」と言って、その押問答がなかなか喧しい。妙なもので、此方が貰おうというときには容易にはくれぬものだが、要らないと言うと向こうが頻りに強いる。ソレでもしまいには、ドウもお前は不親切だ、モウ一歩進めると藩主に対して薄情不忠な奴だと言うまでになって来た。それから此方も意地になって「ソレなら戴きましょう。戴きましょうだが、毎月その扶持米を精げて貰いたい。モ一つ序でに、その米を飯か粥に焚いて貰いたい。イヤ毎月と言わずも毎日貰いたい。すべての失費は皆、米の内で償いさえすれば宜いからそうして貰いたい。ソレでドウだと申すに、お扶持を貰わなければ不親切不忠と言われる。願いの通りそのお扶持米が飯か粥になって来れば、私は新銭座私宅近所の乞食に触を出して、毎朝来い、食わしてやると申して、私が殿様から戴いた物を、私宅の門前において難渋者共に戴かせます積りです」というような乱暴な激論で、役人たちも困ったと見え、とうとう私の言う通りに奥平藩の縁も切れてしまいました。 |
悠塾の心得
[ リスト | 詳細 ]
『氷川清話』 勝 海舟 1897(明治三十年)
『学問のすすめ』 福澤諭吉
1872(明治五年)〜1876(明治九年)
『福翁自伝』 福澤諭吉 1997(明治三十年)
|
乗船切符を偽らず |
|
子供の学資金を謝絶す |
|
事変の当日約束の金を渡す |
|
ソコデ私が金を大事にする心掛けの事実に現われた例を申せば、江戸に参ってから下谷練塀小路の大槻俊斎先生の塾に朋友があって、私はそのとき鉄砲洲に居たが、その朋友のところへ話しに行って、夜になって練塀小路を出掛けて、和泉橋の所に来ると雨が降り出した。こりゃドウも困ったことが出来た、とても鉄砲洲までは行かれないと思うと、和泉橋の側に辻駕籠が居たから、その駕籠屋に鉄砲洲まで幾らで行くかと聞いたら、三朱だと言う。ドウも三朱という金を出してこの駕籠に乗るは無益だ、此方は足がある。ソレは乗らぬことにして、その少し先に下駄屋が見えるから、下駄屋へ寄って下駄一足に傘一本買って両方で二朱余り、三朱出ない。それから雪駄を懐に入れて、下駄をはいて傘をさして鉄砲洲まで帰って来た。デその途中私は独り首肯き、この下駄と傘があればまた役に立つ、駕籠に乗ったって何も後に残るものはない、こんなところが慎むべきことだと思ったことがありますが、マアそのくらいに注意していたから、外は推して知るべし、一切無駄な金を使ったことがない。紙入に金を入れておく、ソレは二分か三部か入れてある、入れてあるけれども何時まで経ってもその金がなくなったことがない。酒はもとより好きだから朋友と酒を飲みに行くことはある、ソンナ時には金も入りますが、ただ独りでブラリと料理茶屋に這入って酒を飲むなぞということは仮初にもしたことがない。ソレほどに私が金を大事にするから、また同時に人の金も決して貪らない。ソリャ以前、奥平家に対して朝鮮人を気取ったのは別な話にして、その外というものは決して金は貪らないと、自身独立自力自活と覚悟をきめました。 |



