平成17年4月6日から平成23年9月6日までのブログ

日本の四季を大切にしよう。引越し先でも閲覧可。下の一言が入り口↓ 容量2GBを超えたので引越ししたよ。

自由論

[ リスト | 詳細 ]

文明に必要な自由・封建社会からの脱出

記事検索
検索

全6ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6]

[ 次のページ ]

イメージ 1

 野蛮が全世界を支配していたときにおいてすら、文明は野蛮に打ち勝ったのであるから、野蛮がすでに

充分に征服された後において、それが復活して文明を征服するかも知れないことを懼れるなどと告白する

のは、行き過ぎというものであろう。己れのいったん征服した敵に負けるような文明は、まず第一に、す

でに甚だしく頽廃していて、それの任命した僧侶や教師も、また他のいかなる人物も、このような文明を

擁護するために立ち上がる能力もなければ、またその労を取ろうとする意志もなくなっているに相違ない

のである。そうとすれば、このような文明が退去命令を受けることが早ければ早いほど、なお結構であ

る。このような文明は、悪からさらに一層の悪へとますます悪化してゆくばかりであって、ついには精力

旺盛な野蛮人たちによって、(西ローマ帝国の如く)亡ぼされ、また更正させられる他はないのである。


(今のアメリカ合衆国はどうであろうか。まだ、同盟国日本に更正させられるならばましというわけだが

、イスラム諸国や中国によっての更正ならば、取り返しのつかないことになってしまうだろう。霧山人

注)

  ( 『自由論』 第四章 個人を支配する社会の権威の限界について J.S.ミル著 より )

イメージ 1

 近代の世界においては、民主的な政治制度を伴うと否とを問わず、民主的社会組織に向かおうとする強

力な傾向が公然と存在する。この傾向の最も完全に実現されている国――社会と政府とが共に最も民主的

である国――すなわちアメリカ合衆国(1859当時)においては、多数者の感情は、彼らが到底競争し

えないと思われる程度の華美または豪奢な生活様式が出現することを不快としていて、多数者のこの感情

が、相当に効果のある奢侈制限法として作用しているし、また、合衆国(1859当時)の多くの地方に

おいては、巨額の所得をえている人にとって、民衆の非難を招かないような所得の支出方法を発見するこ

とが実際に困難である、ということは、真実だといわれている。このような述べ方は、現在の事実の再現

としては、疑いもなく甚だしく誇張されたものであるけれども、しかし、そこに記述されているような事

態は、民主的感情が、公衆は個人の所得の支出方法に対して拒否権をもっているという考えと結合した場

合に生じる、想像し得るべき結果、ありうべき結果であるばかりでなく、実にありがちな結果なのであ

る。われわれはさらに、社会主義的意見が相当広く普及した場合を想像してみさえすればよい。その場合

には、多数者の眼から見れば、一定の極めて僅少な額以上の財産をもつことや、手の労働によらない所得

をもつことは、破廉恥なこととなるであろう。原理上のこれと同じような意見は、すでに職工階級の間に

広く普及していて、主としてこの階級の意見に従順であらねばならない人々、すなわちこの階級自体の成

員である人々を、重苦しく圧迫しているのである。周知のように、多くの工業部門において労働者の大多

数を形成している不熟練労働者たちは、次のような断乎たる意見をもっている。すなわち、不熟練労働者

は熟練労働者と同一の賃金を受け取るべきであり、また、何びとも、出来高払いその他の方法によって、

優秀な技能または勤勉を利用して、他の労働者たちがそれなしにかせぐ所得よりも多額の所得を稼ぎ出す

ことを許さるべきでない、というのである。そして、彼らは、熟練労働者がより有用な勤労に対してより

大なる報酬を受け取ろうとし、また雇い主がこのような報酬を与えようとすることを阻止するために、道

徳的な警察力を使うのであるが、この警察力は時としては物理的な警察力ともなるのである。もしも公衆

が私的な事柄に対して何らかの司法権をもつものとすれば、私は、これらの不熟練労働者がまちがってい

るとは考えることができない。また、不偏的な公衆〔社会〕が人民一般に対して主張するのと同一の権威

を、或る個人の所属している特殊の公衆〔小社会〕がその個人の個人的行為に対して主張するとしても、

それを咎めることができるとは考えられない。

 しかし、仮想的な事例を長々と論じるまでもなく、われわれ自身の生きている現在(1859当時)、

私生活の自由に対する甚だしい侵犯は現実に行われているし、また、さらに甚だしい侵犯が成功しそうな

見込みをもってわれわれを脅かしている。そして、公衆は、公衆が悪と見なす一切の行為を法律によって

禁止しうるのみでなく、公衆が悪と見なす行為を捉えるためには、公衆が無害と認めている多数の事柄を

さえ、禁止しうる、というような公共生活における無制限の権利を主張する意見も提出されているのであ

る。

  ( 『自由論』 第四章 個人を支配する社会の権威の限界について J.S.ミル著 より )

イメージ 1

 或る人が思慮分別や人格的威厳を欠いているために当然に招くであろうと思われる他人の軽侮と、他人

の権利を侵害したために当然に彼に加えられている非難と、この両者の間の区別は、単に名目上の区別に

すぎないものではない。われわれが彼に対する統御の権利をもっていると考えられる事柄に関して、彼が

われわれを不快にしているのか、それとも、われわれがそのような権利をもたないと知っている事柄に関

して、われわれを不快にしているのかということは、彼に対するわれわれの感情においても、また行動に

おいても、著しい相違を生ぜしめる。もしも彼がわれわれを不快にするならば、われわれは、嫌悪の情を

示してもよいし、また、自己を不快にする物から遠ざかると同じように、そのような人から遠ざかること

もできる。しかし、われわれは、だからといって、彼の生活をも不快にするように要請されていると思っ

てはならない。われわれは、彼が彼の過失に対する充分な刑罰をすでに受けていること、あるいは、やが

て受けるであろうということを、反省せねばならない。たとえ彼が処置を誤ったためにその生活を駄目に

しているとしても、われわれは、それを理由として、さらに一層彼の生涯を駄目にしようと欲してはなら

ない。われわれは、彼を処罰しようなどと思うかわりに、むしろ、彼の行状のもたらす傾向のある諸々の

害悪をいかにして回避し、また、いかにして矯正しうるかを、彼に示すことによって、彼の刑罰を軽減し

ようと努むべきであろう。彼は、われわれにとっては、燐憫の対象、恐らくは嫌悪の対象であるかもしれ

ない。しかし、憤怒または怨恨の対象ではないであろう。われわれは、彼を社会の敵であるかのように取

り扱ってはならないのであろう。たとえ、われわれが彼に対して関心や憂慮を示し、慈愛をもって干渉す

るというところまでは行かないとしても、われわれとして当然してもよいと考えられることは、ぎりぎり

のところ、せめて彼を好むままに放置して置くということである。だが、もしも彼が、彼の同胞を――個

人的にせよ、集団的にせよ――保護するため必要な諸々の規則を犯したとすれば、事情は全く別である。

この場合には、彼の行為のもたらす邪悪な結果は、彼自身の上に落ちて来るのではなくて、他人の上に落

ちて来るのである。したがって社会は、そのすべての成員の保護者として、彼に対して報復を加えなくて

はならない。すなわち、彼に対して明らかに処罰の目的を以て苦痛を課し、且つその苦痛が充分に峻厳で

あるように注意しなくてはならないのである。一方の場合には〔或る人が他人の権利を侵害する場合に

は〕、彼はわれわれの法廷における犯罪者であって、われわれは彼に対して判決を下さなくてはならない

のみでなく、何らかの形で、われわれ自身の下した判決を執行しなくてはならないのである。他方の場合

には〔彼が単に自己に関する欠点を示しているに過ぎない場合には〕、彼に対して、いかなる苦痛にせ

よ、苦痛を与えるようなことは、われわれのすべきことではない。ただ、われわれ自身に関する事柄を処

理する際に、われわれが彼に対して認めていると同じ自分の自由を行使することによって、これに付随し

て生じるかも知れない彼の苦痛だけは止むをえない。(『自由論』は福澤翁にも影響を与えたであろう

が、その正当な後継者である漱石山人の『私の個人主義』にも反映している。だが、漱石山人は、他人に

迷惑を与えないということを個人主義の前提としてましたが、それはいかにも曖昧でした。しかし、当時

の日本の現状ではそれには限界があったわけです。そのあたりは再び考慮しなくてはいけないでしょう。

霧山人注)

  ( 『自由論』 第四章 個人を支配する社会の権威の限界について J.S.ミル著 より )

イメージ 1

 要するに、私の主張しようとするのは次ぎのことなのである。すなわち、他人から受ける悪評と堅く結

びついて分離しがたい迷惑こそ、或る個人が、その行為と性格との中で、自分自身の幸福には影響するが

他人との関係においては他人の利益に影響することはないという部分によって蒙らねばならない、唯一つ

の迷惑なのである。他人にとって有害な行為は、これとは全く異なった取扱いを必要とする。他人の権利

を侵害すること、彼自身の権利によって正当化することのできない損失や損傷を他人に蒙らせること、他

人との交渉における虚偽やうらおもてのあること、他人に対する優位を不当に、もしくは無慈悲に行使す

ること、また、利己のために、他人の蒙ろうとする損害を防ごうとしないことでさえ、――すべてこれら

の行為は、当然に道徳的非難を受くべきものであり、また重大な場合においては、道徳的報復と刑罰とを

受くべきものである。そして、これらの行為のみでなく、これらの行為に導いた性向もまた、正に不道徳

なものであって、当然に非難の的となるべきだし、またこの非難がさらに憎悪の念を呼び起こすこともあ

るであろう。残忍な気質、悪意と邪険、すべての激情の中で最も反社会的なまた最も忌まわしい感情であ

る嫉妬、虚偽と不実、充分な理由もなしに怒り易いこと、挑発に対して不釣合いな憤激、他人を支配する

ことを好む心、自己の分け前以上の利益を壟断しようとする貪欲(ギリシャ人のいわゆる貪婪)、他人を

貶めることに満足感を覚える高慢、自分と自分の関心事とを他のいかなるものよりも重要視し、一切の疑

問を自分に都合よく決定する自己中心癖(エゴティズム)、――これらのものはすべて、道徳的欠陥であ

って、不良で忌まわしい道徳的性格を構成しているのである。先きに述べた自己配慮の〔自己にのみかか

わる〕欠点は、これとは異なっていて、それは本来の不道徳ではなく、いかに甚だしい程度に至っても、

邪悪とはならないのである。それらの欠点は、何らかの程度の愚劣さ、或いは、人格的威厳と自尊心との

欠如の証拠であるかも知れない。しかし、それは他の人々――その人々のためにその個人が自ら自分を大

切にせねばならないところの他の人々――に対する義務を破るようになった場合においてのみ、道徳的非

難の対象となるに過ぎない。いわゆる自己に対する義務と呼ばれるものは、事情によってそれが同時に他

人に対する義務という言葉は、それが、単なる分別以上の何ものかを意味する場合には、自尊または自己

発展を意味するのであるが、自尊や自己発展については、そのいずれについても、何びとも同胞たちに対

して責任を負ってはいない。なぜならば、これについては、何びとも同胞たちに対して責を負わされない

ということこそ、人類の利益であるからである。

  ( 『自由論』 第四章 個人を支配する社会の権威の限界について J.S.ミル著 より )

イメージ 1

 私(J.S.ミル)は、或る人物を他の人々が見る際の感情が、その人物の自己配慮(セルフ・リガーディ

ング)の資質や欠陥によって、毫も左右されてはならない、というのではない。このことは可能でもなけ

ればまた望ましくもない。もしも彼が、彼自身の幸福に役立つような何らかの資質において傑出している

ならば、賞賛とは正反対の感情がそれに伴うであろう。愚劣な言行には程度がある。その程度が低劣な趣

味または堕落した趣味(この用語には異議がないとはいえないが)と呼ばれうるものに達した場合には、

たとえ、このような愚行と趣味との故に、それを露呈した人に害を加えることは正当化しえないとはい

え、その人物が嫌悪の的となり、また極端な場合には軽蔑の的とさえなることは、避けえないことであり

、また当然なことでもある。右と正反対の資質を相当強くもっている人ならば、右のような資質に対して

嫌悪と軽蔑との感情を抱かないわけにはいかないのである。何びとに対しても。不当なことはしていない

にもかかわらず、われわれとしては、その行為者を愚物もしくは劣等の人物として判断せざるをえず、ま

たそう感ぜざるをえない、という行為が存在しうるのである。そして、このような判断と感情とは、彼が

さらされている他の一切の不快な結果について警告するのと同じように、彼に親切を尽くすことになるの

である。もしもこのような親切が、今日礼儀についての世間の通念が許している程度よりもはるかに自由

に与えられるならば、――また、誰が或る人が他の人に対して、誤っていると考えることを正直に指摘し

ても、無礼ともさしでがましいとも考えられないですむのであるならば――それは実に喜ぶべきことであ

ろう。われわれは、或る人に対して好ましくない意見を抱き、その意見に即してさまざまな仕方で行動す

る権利をもっているが、それは彼の個性を圧迫するためではなく、ただわれわれの個性を活動させるため

である。例えば、われわれは、彼との交際を求める義務はない。われわれはそれを避ける権利をもってい

る(それを避けることを誇示する権利はもっていないけれども)。なぜならば、われわれは、自分に最も

気に入った交友を選ぶ権利をもっているからである。もしもわれわれが、彼の実例や談話は彼と交際する

人々に有害な影響を及ぼす惧れがある、と考えるならば、われわれは、彼に対して警戒するように他の

人々に注意してやる権利があるし、また注意してやることが、われわれの義務ともなるであろう。われわ

れは、他人に対して自由に選択のできる親切を尽くすとき、それが彼の改善に役立つという場合以外は、

他の人々を先きにして彼を後にしても構わないのである。以上のようなさまざまな様式で、人は、直接に

自分自身にのみかかわる欠点のために、他の人々によって極めて峻厳な罰を与えられることがあるのであ

る。しかし、彼がこのような罰を受けるのは、これらの罰が、欠点そのものから生ずる自然的な、いわば

自然発生的な、結果である限りであって、その罰が、懲罰の目的で故意に彼の上に課せられるからではな

い。性急、頑固、自惚れを示している者、――普通の生活費をもって生活することのできない者、――感

情と知性との楽しみを犠牲にして動物的快楽を追求する者、――およそこのような人物は、人々の評判を

落すこと、その人々の好感を受けることがますます減少することを、予期しなくてはならない。しかし

、このことについて、彼は不満を洩らす権利を少しももってはいない。ただ彼が、社会的関係において特

別にすぐれていて、それによって他人の好意を受けるに値している場合、また、そのようにして、他人の

親切を受けるだけの資格を確保し、自己自身に関する彼の欠点によってその親切が影響されないという場

合には、別問題である(つづく)。

  ( 『自由論』 第四章 個人を支配する社会の権威の限界について J.S.ミル著より )

全6ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6]

[ 次のページ ]


.
霧山人
霧山人
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

エコロジー

日本的なもの

標準グループ

感覚として

健康について

わーるど・ネット

小説家たち

政治勢力

料理ひと

Yahoo!からのお知らせ

友だち(8)
  • 杉山 浩司
  • oxauco
  • cafeherb
  • ゆきの@冬地蔵
  • RYUMYAKU
  • ayumu
友だち一覧
検索 検索

よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事