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この学説を利己的な無関心の一例であると考え、それは、人間は他人の人生における行動と互いに何の
かかわりをももたないと主張し、また自己自身の利益に関連しない限りは他人の前項や幸福にかかわりを
もつべきではない、と主張するものであると考えるならば、この学説(法律的社会的自由)に対する大き
な誤解であろう。他人の幸福を増進しようとする私心のない努力は、けっしてこれを滅殺すべきではなく
て、むしろ大いにこれを増加する必要がある。しかし、私心のない善意は、人々を説得して彼らの幸福に
向かわせるためには、文字通りの――または比喩的な――鞭と笞(しもと)とのほかに、いろいろな手段
を利用することができるのである。私はけっして自己配慮(セルフ・リガーディング)の〔自己にのみか
かわる〕諸徳を低く評価するものではない。それは第二次的重要性しかもたないとしても、社会的な諸徳
に対してのみ第二次的であるに過ぎない。これらの二種類の徳を涵養することは、ひとしく教育の任務な
のである。しかし、教育でさえ、その機能は強制によると共に確信と説得によるのであって、教育の時期
が過ぎ去った後においては、自己配慮の諸徳を心に植えつけることは、ただ確信と説得とによるほかはな
いのである。人間は、相互の助力によってこそ、より善きものとより悪しきものとを区別することができ
、また相互の激励によってこそ、より善きものを選んでより悪しきものを避けることができるのである。
人間は常に、彼らのより高い諸能力をますます行使するように、また、彼らの感情と志向とを愚かな目的
や企画ではなく賢明なそれにますます向けてゆき、下劣な目的や企画ではなく高尚なそれにますます向け
てゆくように、たがいにどこまでも鞭撻しあってゆかねばならないのである。しかし、いかなる人も、ま
たいかに多数の人々も、すでに成年に達している他の人間に向かって、その人の利益のためにその人が自
分で処置しようと欲しているようにその生活を処置してはならない、と言う権利はもっていない。その人
こそ、彼自身の幸福に最大の関心をもっている人なのである。深い個人的愛着で結ばれている場合は別と
して、他人が彼の幸福に対して抱きうる関心は、彼自身が抱く関心に比較すれば、取るに足りないもので
ある。社会が一個人としての彼にもっている関心は(他の人々に対する彼の行為に関しては別であるが)
、微々たるものであり、また全く間接的なものである。しかるに、最も普通な男や女でも、彼自身の感情
と境遇とに関しては、他のいかなる人のもちうる理解の手段をもっている。彼自身のみに関係のある事柄
について、彼の判断と目的とを破棄させようとする社会の干渉は、一般的な推定を根拠としているに相違
ない。だがこのような一般的な推定は、全然誤った推定であるかもしれないし、また、たとえ正しいとし
ても、個々の場合にこれを適用するに当って、その場合の事情に関して単に外から傍観している者と同じ
くらいの知識しかもたない人々によって、誤って適用せられる場合があることもあろうし、ないこともあ
ろう。それ故にこそ、人間関係の事柄のうち、この部分において、個性はその本来の活動領域をもつので
ある。人間相互間の行為において、各人が何を予期せねばならないかを知りうるために、一般的規則が大
部分遵守されなくてはならない。しかし、各人自らに関する事柄については、彼の個人的自発性は、当然
に自由なる活動をする資格がある。彼の判断を助けるためのさまざまな考慮や、彼の意志を強固にするた
めのさまざまな勧告が、他人から彼に与えられるかも知れないし、また彼に対して強要されることさえあ
るであろう。しかし、最後の断を下すべき者は、彼自身である。彼が、他人の注意と警告とに耳を傾けず
に、犯すおそれのあるすべての過ちよりは、他人が彼の幸福と見なすものを彼に強制することを許すの実
害の方が遥かに大きいのである。
(『自由論』 第四章 個人を支配する社会の権威の限界について J.S.ミル著 より )
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