平成17年4月6日から平成23年9月6日までのブログ

日本の四季を大切にしよう。引越し先でも閲覧可。下の一言が入り口↓ 容量2GBを超えたので引越ししたよ。

自由論

[ リスト | 詳細 ]

文明に必要な自由・封建社会からの脱出

記事検索
検索

全6ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6]

[ 前のページ | 次のページ ]

イメージ 1

 この学説を利己的な無関心の一例であると考え、それは、人間は他人の人生における行動と互いに何の

かかわりをももたないと主張し、また自己自身の利益に関連しない限りは他人の前項や幸福にかかわりを

もつべきではない、と主張するものであると考えるならば、この学説(法律的社会的自由)に対する大き

な誤解であろう。他人の幸福を増進しようとする私心のない努力は、けっしてこれを滅殺すべきではなく

て、むしろ大いにこれを増加する必要がある。しかし、私心のない善意は、人々を説得して彼らの幸福に

向かわせるためには、文字通りの――または比喩的な――鞭と笞(しもと)とのほかに、いろいろな手段

を利用することができるのである。私はけっして自己配慮(セルフ・リガーディング)の〔自己にのみか

かわる〕諸徳を低く評価するものではない。それは第二次的重要性しかもたないとしても、社会的な諸徳

に対してのみ第二次的であるに過ぎない。これらの二種類の徳を涵養することは、ひとしく教育の任務な

のである。しかし、教育でさえ、その機能は強制によると共に確信と説得によるのであって、教育の時期

が過ぎ去った後においては、自己配慮の諸徳を心に植えつけることは、ただ確信と説得とによるほかはな

いのである。人間は、相互の助力によってこそ、より善きものとより悪しきものとを区別することができ

、また相互の激励によってこそ、より善きものを選んでより悪しきものを避けることができるのである。

人間は常に、彼らのより高い諸能力をますます行使するように、また、彼らの感情と志向とを愚かな目的

や企画ではなく賢明なそれにますます向けてゆき、下劣な目的や企画ではなく高尚なそれにますます向け

てゆくように、たがいにどこまでも鞭撻しあってゆかねばならないのである。しかし、いかなる人も、ま

たいかに多数の人々も、すでに成年に達している他の人間に向かって、その人の利益のためにその人が自

分で処置しようと欲しているようにその生活を処置してはならない、と言う権利はもっていない。その人

こそ、彼自身の幸福に最大の関心をもっている人なのである。深い個人的愛着で結ばれている場合は別と

して、他人が彼の幸福に対して抱きうる関心は、彼自身が抱く関心に比較すれば、取るに足りないもので

ある。社会が一個人としての彼にもっている関心は(他の人々に対する彼の行為に関しては別であるが)

、微々たるものであり、また全く間接的なものである。しかるに、最も普通な男や女でも、彼自身の感情

と境遇とに関しては、他のいかなる人のもちうる理解の手段をもっている。彼自身のみに関係のある事柄

について、彼の判断と目的とを破棄させようとする社会の干渉は、一般的な推定を根拠としているに相違

ない。だがこのような一般的な推定は、全然誤った推定であるかもしれないし、また、たとえ正しいとし

ても、個々の場合にこれを適用するに当って、その場合の事情に関して単に外から傍観している者と同じ

くらいの知識しかもたない人々によって、誤って適用せられる場合があることもあろうし、ないこともあ

ろう。それ故にこそ、人間関係の事柄のうち、この部分において、個性はその本来の活動領域をもつので

ある。人間相互間の行為において、各人が何を予期せねばならないかを知りうるために、一般的規則が大

部分遵守されなくてはならない。しかし、各人自らに関する事柄については、彼の個人的自発性は、当然

に自由なる活動をする資格がある。彼の判断を助けるためのさまざまな考慮や、彼の意志を強固にするた

めのさまざまな勧告が、他人から彼に与えられるかも知れないし、また彼に対して強要されることさえあ

るであろう。しかし、最後の断を下すべき者は、彼自身である。彼が、他人の注意と警告とに耳を傾けず

に、犯すおそれのあるすべての過ちよりは、他人が彼の幸福と見なすものを彼に強制することを許すの実

害の方が遥かに大きいのである。

 (『自由論』 第四章 個人を支配する社会の権威の限界について J.S.ミル著 より )

イメージ 1

 それでは、自己自身を支配する個人の正当な限界はどこにあるのか? 社会の権威はどこに始まるのか

? 人間生活の中どれだけの部分が個人に割り与えられ、またどれだけの部分が社会に割り与えらるべき

か?

 もしも社会と個人とが、それぞれ自己と特別に関係している部分のみを受け取るならば、各々が自己の

正当な分け前を受け取ることとなるであろう。人間生活の中、利害関係者が主として個人であるところの

部分は個人に属するべきであり、利害関係者が主として社会であるところの部分は社会に属すべきであ

る。

 社会は契約によって打ち建てられたものではなく、また、社会的な諸々の義務を演繹するための前提と

して契約を虚構するとしても、さして役に立つものではない。しかし、いやしくも社会の保護を受けてい

るものは、その恩恵に対して報いる義務があり、また、そもそも社会の中に生きているという事実そのも

のが、各人は他のすべての人々に対して一定の行為の軌道をどうしても守らねばならぬ、ということを欠

くべからざるものとしているのである。このような行為は、第一には、相互の利益を害しないということ

にある。言い換えれば、法律の明文または暗黙の了解によって権利と見なされなくてはならない一定の利

益を、害しないということである、といえよう。そして第二には、社会またはその成員を危害と干渉から

守るために生じた労働と犠牲とについて、各人が自己の分担(何らかの公平の原理に基づいて定められる

べき)を負うことである。これらの義務を履行しまいと努める人々に対していかなる犠牲を課すことにな

ろうとも、社会は当然、以上の諸条件を励行して差支えない。社会がしてもよいことは、これだけには止

まらない。ある個人の行為が、他人の有する法定の権利を侵害するという程度には至らないにしても、そ

れが他の人々にとって有害であり、あるいは他人の幸福に対する当然な配慮を欠いている、という場合は

ありうる。このような場合には、その反則者を法律によって処罰することは正当でないとしても、世論に

よって処罰することは正当であろう。或る人の行為の何らかの部分が他人の利益に有害な影響を及ぼすに

至るや否や、社会はこのような行為に対して裁判権を有つに至るし、また、このような行為に干渉するこ

とによって一般の福祉が促進せらるか否かという問題が、広く論議の対象となるのである。しかし、或る

人の行為が彼自身以外の何びとの利益にも影響せず、または他の人々がそれを好まない限り彼らの利害に

影響を及ぼさないですむ場合には(関係者がすべて成年に達しており、また普通の程度の理解力をもって

いるものとして)、このような問題を取り上げねばならぬ理由は少しも存在しないのである。すべてこの

ような場合には、その行為を為しまたその行為の結果に対して責任をとる完全な自由――法律的社会的自

由――が存在しなくてはならない。

  ( 『自由論』 第四章 個人を支配する社会の権威の限界について J.S.ミル著 より )

イメージ 1

 以上の一切の諸原因が結合して個性反対の勢力の強大な集団を形成しているので、個性がいかにしてそ

の地歩を固守することができるか、ということは容易に見極めがたい(特に封建社会、恐怖政治や全体主

義において)。公衆中の理知的な部分が個性の価値を感得させられ得ない限り、――いいかえれば、諸々

の差異の存在することは有益であるということ、たとえそれらの差異がより良き方向に向かわずとも、ま

た差異のうちには彼らから見てより悪い方向に向かっていると思われるものがあるにしても、なお、差異

の存在することそのことが有益であるということを理解するに至らない限り、――個性がその地歩を維持

することはますます困難となるであろう。そもそも個性の権利というものが主張されねばならないとすれ

ば、今こそその時期である。今日では強制的な同化を完璧なものとするには、まだ多くのものが欠けてい

るのである。侵害に対して抵抗が成功できるのは、初期の段階においてのみである。他の一切の人々を自

分に似たものにしようとする要求は、それが満たされれば満たされるほど大きくなるのである。もしも、

人間の生活がほとんど唯一つの均一な型に帰してしまうときまで抵抗が延期せられるならば、この型から

逸脱しているすべての言動は、不敬な、不道徳な、また奇怪にして人間の本性に反するものとさえ考え

られるに至るであろう。人類は、しばらくの間、様々な相違に目を触れないことになれているのならば

、速やかに、このような相違を想像することもできなくなるのである。(まあ、ネット右翼、または左翼

、ニートや引きこもりなんかは、様々な違いをわからないために、均一化を好み、個性を認めることがで

きず、脅え、さらに世間に同化することもできず、不完全な人生を過ごすことになる。なんて、かわいそ

うなんでしょう。霧山人注)

  ( 『自由論』 第三章 幸福の諸要素の一つとしての個性について J.S.ミル著 より )

イメージ 1

 教育の拡張が行われるたびに、同化の作用は促進される。なぜならば教育が、人々を共通の感化の下に

置き、また彼らを事実と感情との共同の貯蔵庫に近づかせるからである。交通手段の改良もまた、同化作

用を促進する。それが、遠隔の土地に住む人々を親しく接触させ、一つの場所から他の場所へ住居変更が

早い流れとなって行われるのを維持するからである。商業と製造業との増大もこれを促進する。それが、

安楽な環境の利益を一層広い範囲に拡散させ、あらゆる野心の対象を、その最高のものまでも、一般の

人々の競争に解放し、それによって立身出世の欲望がもはや特別な階級の性格ではなくて、すべての階級

の性格となるからである。これらすべてに較べても、それ以上に人類の間の一般的類似性をもたらす強力

な媒体となっているのは、イギリスおよびその他の自由諸国において、国家における世論の優位が、完全

に確立されているということである。かつては、さまざまな優れた社会的地位に坐って守られていた人々

は、そのような地位のおかげで大衆の意見を無視することができたのであろうが、そのような地位(武士

や貴族層)は次第に均等化せられてゆくし、また、公衆が何らかの意志をもっていることが明確となった

場合に、その意図に抵抗しようとする観念そのものが、実際政治家の念頭からますます消え失せてゆく。

そして、それに伴って非順応(ノンコンフォーミティー)〔大衆的傾向に従わない態度〕を助けようとす

る社会的な支持(ソーシャル・サポート)――すなわち、自己自身が多数者の優位に反抗しつつ、公衆の

意見や傾向と相違する意見や傾向を保護することに関心をもつ・しっかりした社会力――もまた、全く存

在しなくなるのである。(社会の健全性の優越性を堅持する世論というものの基盤が失われてしまうとい

う危険性を言っている。霧山人注)

  ( 『自由論』 第三章 幸福の諸要素の一つとしての個性について J.S.ミル著 より )

イメージ 1

 今日まで、ヨーロッパを中国のような運命から救ってきたものは、果たして何であろうか? ヨーロッ

パ諸国民を人類の停滞的部分たらしめず、改革的な部分たらしめて来たものは、果たして何であろうか?

彼らに何らかの卓越せる長所が存在したからではない。そのような長所が存在しているとしても、それは

結果として存在しているのであって、原因としてではない。真の原因は実に、彼らが性格と教養との驚く

べき多様性をもっていたことにある。諸々の個人、諸々の階級、諸々の国民は、互いに極端なほど異なっ

ている。彼らは、実に種々雑多な行路を開拓し、その各々が何らかの価値あるものに導いていった。そし

て、どの時期においても、異なった行路を辿ることができたらすばらしいことだ、と考えたに違いないの

であるが、他人の発展を妨害しようとする彼らの試みは、永続的な成功を博することが稀れであった。そ

して各人は、結局、他人の提供してくれたよきものを、我慢して受け容れたのであった。私の判断によれ

ば、ヨーロッパが進歩的で多面的な発展をなしえたのは、全く右に述べたような行路の多岐であったおか

げである。しかしヨーロッパのもっているこのような利益は、すでにかなり減じはじめている。ヨーロッ

パは疑いもなく、すべての人々を一様なものにしようとする中国人の理想に進みつつある(マニュアル

化)。ド・トクヴィル氏は、その最後の重要な著作において、今日のフランス人が、一世代前のフランス

人に較べてさえ、どんなに多く相互に類似しているか、を述べている。イギリス人については、これと同

じ言葉がさらに甚だしい程度で言われるであろう(民族主義)。先に引用したヴィルヘルム・フォン・フ

ンボルトの一節では、彼は、人類の進歩に必要な条件として、人々を相互に異なったものとするために必

要だからといって、二つのものを指摘している。すなわち、自由と状況の多様性とである。(多様性とい

うことを、人々に当てはめると民主主義ということにもなる。霧山人注) この二つの条件のうち、第二

のものは、我が国においては日々に減少しつつある。さまざまな階級と個人とをかこんで彼らの性格を形

成しつつある環境は、日ごとにますます同化されてゆく。かつては、異なった身分、異なった近隣、異な

った職業の人々は、別世界と呼びうるほど異なった環境の中に生きていたが、今日では、ほとんど同一の

世界に生きている。比較的にいえば、彼らは今や同じものを読み、同じものを聴き、同じものを見、同じ

場所に行き、同じ対象に対して希望と恐怖とを抱き、同じ権利と自由とをもち、またこれらの権利と自由

とを主張する同じ手段をもっている。なお残っている地位の差異は大きいとはいえ、すでに消滅したもの

に比較すれば言うに足りない。しかも同化の作用は依然として進行しつつある。現代の政治的変化のすべ

ては、この作用を促進する。その変化がすべて、低いものを高め高いものを低める傾向をもっているから

である。(個性というものと、同化の作用というものは、日常的な生活において、考えてみればよい。ど

のような状況で、個性的であるべきか。または、どのような状況で同化の作用、つまり共通の言動を用い

ればよいのか。これは日常の経験の繰り返しで次第に培われるであろう。霧山人注)

  ( 『自由論』 第三章 幸福の諸要素の一つとしての個性について J.S.ミル著 より )

全6ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6]

[ 前のページ | 次のページ ]


.
霧山人
霧山人
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

エコロジー

日本的なもの

標準グループ

感覚として

健康について

わーるど・ネット

小説家たち

政治勢力

料理ひと

Yahoo!からのお知らせ

友だち(8)
  • ゆきの@冬地蔵
  • 杉山 浩司
  • oxauco
  • cafeherb
  • 馬上侍
  • C-KOA
友だち一覧
検索 検索

よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事