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われわれは、或る変化が起こって来るときに、それが変化のための変化であって美や便利という観念か
ら出て来る変化とはならないように、注意するのである。なぜならば、美や便利に関する同一の観念が、
同一の瞬間に世間すべての人々の注意を惹き、また他の瞬間にすべての人によって放棄されるなどという
ことは、到底ありそうもないからでる。しかし、われわれは、変化が可能であると共に、また同じくらい
進歩的である。われわれは機械にかけては絶えず新たな発明をしているし、また、その発明がより優れた
発明によって取って替わられるまでは、それを保ちつづける。政治においても、教育においても、また道
徳においてさえ、われわれは改革を熱心に求めている。ただ、この最後の道徳においては、われわれの改
革の観念は、主として、他の人々を説得し、もしくは強制して、われわれ自身と同じく善良にならせる、
ということにある。われわれが反対するのは、進歩に対してではない。否その逆で、われわれは、いまま
でに生きていた人民のうちで、われわれこそ最も進歩的な人民であると、自負しているのである。われわ
れが敵として戦うものは、個性なのである。もしわれわれ自身をすべて一様な人間にしてしまうことがで
きたならば、われわれは、まるで奇蹟を成し遂げたかのように思うであろう。そして、各人がたがいに相
違しているということこそ、一般に、各人をして自分の型(タイプ)の不完全さに注意させ、また他人の
型(タイプ)の優れていることや、自他の長所を結合することによって両者のどちらよりも優れた型(タ
イプ)を生み出しうることに気付かせる、第一の肝要事であるということを、われわれは忘れているので
ある。われわれは、中国に警告的な実例をみることができる(デムパ)。――彼らは、類まれな幸運によ
って、すでに初期において特別によい一連の慣習を与えられていた(道教、仏教、儒教など)ために、豊
富な才幹と、また若干の点については叡智をすらもっていた。そして、これらの慣習は、再考の教養ある
ヨーロッパ人でさえ、或る種の限定を付してではあるが聖人や哲人の尊称を与えざるを得ないような人々
の労作であった。中国人はまた、彼らの所有している最高の知恵を、できる限り広く、その共同体の成員
一人一人の心に銘記させ、また、このような知恵を最も多く獲得している人々を確実に名誉あり権勢ある
地位につかせようとするところの、卓越した機構をもっていた点(デムパ)で、注目に値するのである。
このような事業を成し遂げた人民は、確かに、人間進歩の秘訣を発見したものであり、したがって着実に
世界の運動の先頭に立ち続けていたはずである。ところが、その逆で彼らは停滞的になってしまい――幾
千年もの間、その状態にとどまって来た。そして、もしも彼らがこれ以上に改善されるべきだとすれば、
その仕事は外国人によって果たされるに違いない。彼らは、イギリスの博愛家たちが熱心に勉励している
仕事において――すなわち、全国民をすべて一様の人間とし、すべての人が同一の格言と規則によって彼
らの思想と行為とを統制するようにさせるという仕事において――希望をはるかに超えるほど成功したの
であった。しかも、その結果はわれわれの見る通りである。近代の世論の支配体制は、中国の教育および
政治制度の具えていた組織的形態を、組織的ならざる形態に改めたものに他ならない。したがって、もし
も個性がこの軛に抗して自己を主張することに成功しないならば、ヨーロッパは、その高貴な来歴や公称
するキリスト教信仰にもかかわらず、やがて第二の中国となってゆくであろう?
( 『自由論』 第三章 幸福の諸要素の一つとしての個性について J.S.ミル著 より )
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