平成17年4月6日から平成23年9月6日までのブログ

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自由論

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文明に必要な自由・封建社会からの脱出

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 真実のところ、実際の――または想像上の――精神的優越に対して、どのような敬意が口にされようと

も、あるいは、実際に捧げられようとも、全世界を通じて看取される世間の一般的傾向は、凡庸を人類の

間でますます優勢な力とならせている、ということである。古代史においても、中世においても、また漸

次その程度を減じてきているとはいえ、封建制から現代に至る長い過渡期においても、個人は本来一個の

力であった。そして、個人が大きな才能か、もしくは高い社会的地位をもつ場合には、彼は注目に値する

勢力であった。ところが、現代においては、個人は群集の中に埋没されてしまっている。政治においては

、今や世論が世を支配している、などと述べることは、ほとんど陳腐な言葉となっている。力の名に値す

る唯一の力は、大衆の力であり、また、政府が大衆の傾向と本能との機関となっている限りで、それは政

府の力なのである。このことは、公共の事務の処理に関してだけでなく、同様に個人的生活の道徳的社会

的諸関係についても真実である。その人の意見が世論として通用しているような人々は、かならずしも常

に同じ種類の公衆であるとは限らない。アメリカにおいては、それは白人全体であり、イギリスにおいて

は、それは主として中産階級である。しかし、彼らは常に大衆(マス)である。すなわち凡庸者の集団で

ある。そして、さらに注目すべき新事態は、その大衆が今日では、教会や国家の高位高官からも、表向き

の指導者からも、あるいはまた書物からも、彼らの意見を借りて来ない、ということである。大衆に代わ

って思想しつつあるのは、新聞紙を通じて時のはずみで大衆に呼びかけたり、大衆の名において語ってい

るところの、大衆に酷似している人々に他ならないのである。私は何もこういう事柄をすべて悲しむもの

ではない。低級な人間精神の現状においては、一般的原則として、何かこれ以上のよいものがこの現状と

相容れることができるなどとは、私は主張しない。しかし、さればといって、凡庸者の行なう政治が凡庸

な政治であることを否定するわけにはいかない。主権者である多数者が、自分から、より高い天賦と教育

とを備えた一人または少数者の忠言と感化とによって指導されるのでない限りは(多数者が最良の政治を

行なっていた時代には彼らは常にこのような指導に服していたのであった)、民主制または多数貴族制に

よる政治は、その政治活動においても、またそれの育成する思想や資質や精神状態においても、凡庸以上

に出たことは一度もなかったし、また出ることができなかった。賢明な、または高貴な一切の事物の創始

は、個人から出て来るものであり、また個人から出て来ざるをえないものである。しかも一般に、最初は

、或る一人の個人から出て来るのである。普通人の名誉と光栄とは、彼らがその創始者に追従することが

できる、ということにある。賢明なまた高貴な事物に対して内心から共感することができ、また明確な自

覚をもってかような事物のところまで導かれゆくことができる、ということにある。

  ( 『自由論』 第三章 幸福の諸要素の一つとしての個性について J.S.ミル著より )

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 独創性こそ、独創的でない人々には正にその効用を感知することのできない一事なのである。彼らは

、独創性が彼らのために何を為しうるかを理解することができない。また、どうして彼らにそのようなこ

とができよう。もしも彼らが、独創性が彼らのために何を為すであろうかを理解できるとすれば、それは

〔もはや〕独創性ではないであろう。独創性が彼らのために果たすべきまず第一の奉仕は、彼らの眼を開

くということである。もしもこのことがひとたび充分になされるならば、彼らは、彼ら自身が独創的とな

る機会をもつこととなるであろう。その時の到来するまでは、彼らは、彼ら自身が独創的となる機会をも

つこととなるであろう。その時の到来するまでは、彼らは、何びとかが率先して為さない限り如何なる仕

事も為されたためしがないということ、また、現存する一切の善いことは独創性の成果であるということ

を想起して、謙遜な態度で、今後においても独創性の成就すべき仕事がばお残されていることを信じさせ

るべきである。また、彼らが独創性の必要を自覚することが少なければ少ないほど、彼らはますますそれ

を必要としているのであることを、確信させるべきである。

  ( 『自由論』 第三章 幸福の諸要素の一つとしての個性について J.S.ミル著 より )

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 天才を持っているという人は(天才とはジーニアスということだが、これは遺伝子のジーンにつながっ

てくる。つまり、天賦の才能というものは、遺伝子にそった能力ということを指すのだろう。だが、遺伝

子にそった行動が本能であるという認識は誤りである。遺伝子という概念は、人間の総体を含めたもので

あって、メンデルが遺伝子を想定したとき、形や色などの物質的側面の背景としての遺伝子を考えた。そ

して、いわゆる科学の進歩というか、還元主義によって、遺伝子の正体がDNAであると突き止めた時点

で、遺伝子の総体的な視野が失われて、いかにも分子的な視野ばかりにとらわれていった。遺伝子の概念

は、分子的なものだけでなく、形態的なものにも、そしてその働き、精神活動も含んで、反映すべきだっ

た。しかし、それがなかったために遺伝子というものは、全体像を失ってしまった。ジーンとジーニアス

のつながりはそのような関係性におかれるであろう。だから、天才というものは、人間の種が大脳という

ものを発達させ、それを自由自在に使いこなせるだけの慣習からの脱却を行い得たものだけに与えられる

のであろう。これだけで一つのコラムか。霧山人注)、たしかに、極めて少数であるし、また常に少数に

とどまる傾向がある。しかし、その少数の天才を確保するために、彼らの成長しうるような土壌を残して

おくことが必要である。天才は、自由の雰囲気の中においてのみ、自由に呼吸することができる。天才あ

る人々は、天才であるが故に、他のいかなる人々よりも更に個性的である。――したがって、社会がその

成員たちのために、各自独特の性格を形成するの労を省いてやろうとして提供する少数の鋳型に、天才あ

る人々が自分を適合させようとすれば、ほかの人々以上に、有害な抑圧をこうむらずにはいないのである

。もしも彼らが、心臆して、これらの鋳型の一つに推しこまれることを許し、かような抑圧の下では伸び

る事のできない彼ら自身の素質すべて未発展のままに放置すること(ニート・フリーター)を許すならば

、社会は、彼らの天才によって利益するところは殆んどないことになるだろう。もしも彼らが強い性格の

人物であって、その羈絆(規範)を打ち破るという場合には、彼らは、彼らを平凡化しえなかった社会の

注意人物となり、「狂暴」とか「奇矯」とか、その他いろいろな(「変人」とか)厳重な警告をもって指

摘されるのである。それは、あたかもナイアガラの瀑布がオランダの運河のように静かに二つの堤防の間

を流れないことを非難するのと、同様である。

   ( 『自由論』 第三章 幸福の諸要素の一つとしての個性について J.S.ミル著 より )

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 そこでまず第一に、私は、まだ発達していない人々は、既に発達した人々から、恐らく何ごとかを学び

うるであろう、ということを示そうと思う。独創力が人間に関する事柄において大切な要素であること

ということは、何びとも否定しないであろう。新たな真理を発見して、かつては真理であったものがも

はや真理でなくなっている場合を指摘するのみではなく、新たな慣習を創始して、より賢明なる行為の実

例を示し、また人生におけるよりよき趣味と感覚との実例を示しうるような人物が、常に必要である。こ

のことは、世界がそのすべての生活方法や慣習において既に完成の域に到達している、と信じない限り、

何びとといえども否定しうる理由はない。もちろん、このような恩恵は、あらゆる人々が同じように世に

与えうる恩恵ではない。その人の実験が他の人々に採用されたら、既成の慣習に対して何らかの改善とな

るであろう、というような人は、人類全体に比較すれば極めて少数であるに過ぎない。しかし、これらの

少数者こそ地の塩(貴重な効用あるもの)なのである。彼らがなかったら、人生は澱んだ水溜りとなるで

あろう。従来存在していなかった善きものを導き入れるものが彼らであるばかりではない、すでに存在し

ている善きものの中の生命を維持するものもまた彼らなのである。新たに為されねばならないことがなに

一つ存在しないとしても、人間の知性ははたして不必要となるであろうか? 新たに為されねばならない

ことがないということは、古くからのことを為す人々が、なぜこのようなことが為されねばならないかを

忘れて、人間の如くにではなく家畜の如くにそれを為さねばならぬ、ということの理由となるであろうか

? 〔不幸にして〕最も優れた信仰と慣習とにおいてさえ、機械的なものに堕落してゆこうとする傾向が

余りにも大きすぎるのである。それ故に、このような信仰と慣習との根拠が単なる伝説的なものとなるの

を、絶えず再起する独創力によって防止する人物が続々とあらわれないならば、死物となり終わった信仰

と慣習とは、真実の生命をもっている何ものかによって極めて些々たる衝撃を加えられるときにも、これ

に抵抗することはできないであろうし(日本においても、戦前まで保存されていた伝統文化というものの

担い手が減退し、消滅の危機に立たされている。これを救済する為には、死物と成り果てる前に、再起す

る独創力を加えることで、生命を与えるしかない。それによって、変質または半分しか伝承されないかも

しれないけれど、死物になってしまうよりは遥かに益しということだ。霧山人注)、また、ビザンティン

帝国に見られたように文明が完全に死滅しないという理由はないであろう。

     ( 『自由論』 第三章 幸福の諸要素の一つとしての個性について J.S.ミル著 より )

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 個性は発達と同一のものであるということ、また充分に発達した人間を生み出すもの、生み出しうるも

のは、ただ個性の養成のみであるということは、既に説きおわったので(他人の権利と利益とによって課

された限界の範囲内〈社会・人間関係〉での、個性的なものを開発喚起するということ)、ここでこの議

論を打ち切ってもよいであろう。なぜならば、世事人事の或る状態に関して、それこそが人間自体をして

人間の達しうる最善に近づかせるものであると述べたとすれば、なおそれ以上に言うべき言葉やそれ以上

の賛辞がありうるであろうか。あるいはまた、善にとっての障害物に関して語るにしても、それは人間自

体が人間の達しうる最善に近づくことを阻止するものであると述べたからには、これ以上に最悪の評言が

ありうるだろうか。しかし、疑いもなく、以上にのべた考察だけでは、〔自由の尊ぶべき所以を〕確信さ

せることの最も必要な人々を、確信させるにはまだ足りないであろう。さらに進んで、これらの発達した

人間たちが、まだ、発達していない人々にとっても役に立つものであることを、示すことが必要である。

――すなわち、自由を欲求せず、また自ら自由を利用しようと欲しない人々に向かって、〔たとえ彼ら自

身は自由を必要としなくても〕、彼らが他の人々になんの妨げもなく自由を利用することを許すならば、

それに対して彼らは、何かある明白な形で、それだけの報償をうるであろうということを、指摘してやる

必要がある。                             

    ( 『自由論』 第三章 幸福の諸要素の一つとしての個性について J.S.ミル著 より )

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