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自由論

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文明に必要な自由・封建社会からの脱出

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 人間が高貴で美しい観照の対象となるのは、彼自身のうちにある個性的なものをすべて磨り減らして画

一的なものにしてしまうことによってではなくて、他人の権利と利益とによって課された限界の範囲内で

、個性的なものを開発し喚起することによるのである。そして、およそ人間の事業はそれを行う人々の性

格を分けもつものであるから、右と同じ過程を経て、人間の生活もまた、豊富で多彩で生気溌溂としたも

のとなり、高い思想と崇高な感情とに対してより豊かな栄養を与えるものとなり、さらに、民族を、限り

なく所属するに値するものとすることによって、すべての個人を民族に結びつけるところの紐帯を一層強

固なものとするのである。各人の個性の成長するに比例して、彼は彼自身にとって一層価値あるものとな

り、したがってまた他人にとっても一層価値あるものとなりうるのである。そこに彼自身の生存に一層大

きな生命の充実が存在する。そして諸々の構成単位により多くの生命が宿るとき、それらの単位から成っ

ている集合体もまたより多くの生命をもつ。人一倍強い人間性の持主に、他人の権利を侵害させないよう

にするために必要な限りの抑圧は、これを欠くことができないが、しかしこれに対しては、人間の成長と

いう観点から見ても、充分にこれを償うものがあるのである。他人を害するような嗜好の満足を禁止され

る場合に、それによって個人の失うところの成長の手段は、主として、他人の成長を犠牲にして獲得され

るような手段である。そして、利己的な要素に抑圧を加えられれば、それによって天性の社会的な要素が

よりよき成長をとげることも可能となる、という点に、抑圧された個人自身にとってさえ、充分それに見

合うだけのものが与えられるのである。他人のために厳格な正義の規則を遵守させられることは、他人の

幸福を自己の目的としようとする感情と能力とを成長させる。しかし、他人の幸福に影響しない事柄に関

して、単に他人がそれを不快とするからといって加えられる抑制は、その抑制に対する反抗の中であらわ

れるような性格の力を別とすれば、何らの価値あるものを成長させないのである。もしも黙従するならば

、人間の天性の全体が遅鈍となり、鋭さを失う。各人の天性に対しておよそ公平な活動の余地を与えるた

めには、さまざまな人々にさまざまな生活を営むことを許す、ということが根本的に必要である。いかな

る時代にせよ、どれだけこの自由が行使されたかに応じて、その時代は後世にとって注目に値する結果と

なっている。専制政治でさえ、その治下に個性が存在している限りは、まだその最悪の結果を生み出して

いるとはいえないのである。また、何であれ、個性を破砕するようなことは、いかなる名称をもってそれ

が呼ばれるにしても、また神の意志を強制することだと自称しようが、人間の命令を強制するのだと自称

しようが、いずれにせよ、それは専制政治なのである。

  ( 『自由論』 第三章 幸福の諸要素の一つとしての個性について J.S.ミル著 より )

 自己の悟性を活動させることが望ましいということ、また、理性的な慣習の遵守はいうまでもなく、時

としては慣習からの理性的な逸脱ですら、盲目的な、また単に機械的な慣習の墨守には勝るものであると

いうことは、恐らくは人々の容認するところであろう。われわれの悟性はわれわれ自身のものでなくては

ならないということは、ある程度まで世人の承認しているところである。しかし、われわれの欲望と衝動

もまた、同様にわれわれ自身のものでなくてはならないということ、また、われわれが独自の衝動をもち

、またいかに強力な衝動をもつとしても、それはけっして危険でもなく陥弄でもないということが、同じ

く容認されはしないのである。とはいえ、欲望と衝動とは、信仰や自制と同様に、完全な人間の一要素で

ある。そして強力な衝動は、適当に均衡がとられていない場合にのみ危険なのである。(人生、楽ありゃ

苦もあるさ、のサイクルで生きるべし。霧山人注)すなわち、或る一組の目的と性向とが強力となり、こ

れらのものと共に存在せねばならないはずの他の目的と性向とが、薄弱不活発(ニート)な状態に止まっ

ているときにのみ、それは危険なのである。人々が悪い行為を為すのは、彼の欲望が強力であるからでは

なく、彼の良心が弱いからである。強い衝動と弱い良心との間には、自然的な結びつき〔必然的因果関係

〕は存在していない。自然的な結びつきは、これとは全く逆である。或る人の欲望と感情とが、他の人の

それよりも一層強力であり多方面であるということは、彼が人間性の素材をより多くもっていること、し

たがって恐らくはより多くの悪をなしうるであろうが、また、より多くの善をなしうることも確実であ

る、ということに過ぎないのである。強い衝動とは精力の別名であるに過ぎない。精力というものは悪い

用途に向けられることもある。しかし、精力的な天性は、不精な無感覚な天性にくらべて常に、より多く

の善を生み出しうるのである。最も豊富な自然的感覚をもっている人々は、常に、その洗練された感情が

最も強烈なものとなりうる人々である。個人的衝動を活発な強力なものにする強烈な感受性は、同時に、

徳に対する最も熱烈な愛着と最も厳格な自制心とを生み出すところの源泉である。(自己の悟性を仏教的

に解釈し、徳に対する愛着・自制心を儒教的道徳と解釈すれば、東洋的な個性というものができあがるの

だ。霧山人注)社会がその義務を果たすと共にその利益を擁護することは、このような感受性を開発する

ことによってできるのであって、英雄を作り出す方法を社会が知らないからといって、英雄ができあがる

ための素材を放棄してはならないのである。独自の欲望と衝動とをもっている人物――すなわち、その欲

望と衝動とが彼の独自の天性の表現であり、かつ、その独自の天性が独自の教養によって発達しまた修正

されたものであるというような人物こそ――性格をもっている人物と呼ばれうるのである。独自の欲望と

衝動をもたないものは、蒸気機関に性格がないのと同様に、全く性格をももたないのである。その衝動が

独自のものである上に、さらに強力なものであって、しかも強い意志の制御の下にあるというのならば、

かかる人物は精力的な性格をもっているわけである。欲望と衝動とにおける個性の発展を助長してはなら

ないと考える人があるならば、彼は、社会は強力な性情を少しも必要とはしていないということを、――

社会は豊富な性格の持主を数多く包含することによって少しもそれだけよくはならないということを、―

―また、精力の一般的平均水準の高いことは望ましくないのであるということを、主張しなくてはならな

いはずである。(そういうことから、精力善用説のような衝動と欲望を善用させるほうへもっていかねば

ならないということになっていった。善用とは道徳に沿ったもの。霧山人注)

   ( 『自由論』 第三章 幸福の諸要素の一つとしての個性について J.S.ミル著 より )

 自分の生活の計画を〔自ら選ばず〕、世間または自分の属する世間の一部に選んでもらう者は、猿のよ

うな模倣の能力以外にはいかなる能力をも必要としない。自分の計画を自ら選択する者こそ、彼のすべて

の能力を活用するのである。彼は、見るためには観察力を、予知するためには推理力と判断力を、決断を

下すに必要な材料を蒐集するためには活動力を、決断を下すためには識別力を使用し、またひとたび決断

を下した場合には、その考え抜いた決断を固守するために毅然たる性格と自制心とを用いなくてはならな

い。(これらはすべて、自分の経験から導き出さなければならない。これが模倣と違うところである。霧

山人注)そして、彼が彼自身の判断と感情とに従って決定する行為の部分が大きくなればなるほど、彼が

これらの能力を必要とし、またそれを実際に働かせることもまた大となるのである。彼がこれらの能力の

いずれかを欠いていても、正しい途に導かれ、有害な途に踏み込まずにすむということがないわけではな

い。しかし、人間としての彼の比較上の価値は如何なるものであろうか? 人が何をなすかということの

みでなく、それをなす人がいかなる種類の人間であるかということもまた、実に重要である。それを完成

し美化するためにこそ人間の一生が正しく使用さるべき、人間の諸々の作品の中で、最も重要なものは、

確かに人間そのものである。家屋を建て、穀物を栽培し、戦闘を行ない、訴訟を裁き、さらに教会を建て

祈祷することさえ、機械に――人間の形を具えた自動機械に――やらせることが可能であると仮定しても

、現在この世界の比較的開化した地方に住んでいる男女――すなわち、自然が生み出すことのでき、また

、やがて生み出すであろうと思われる人間の、たしかに貧弱な見本に過ぎない男女――ですら、これを右

の自動機械と交換することは、莫大な損失となるだろう。(日本の赤字国債を見れば一目瞭然だ。霧山人

注) 人間性は、模型に従って作り上げられ、あらかじめ指定された仕事を正確にやらされる機械(フリ

ーター)ではなくて、自らを生命体となしている内的能力の傾向に従って、あらゆる方向に伸び広がらね

ばならない樹木(職人)のようなものである。

      ( 『自由論』 第三章 幸福の諸要素の一つとしての個性について より )

 われわれは、青年時代に、人類の経験の確実な結果を知り、またこれによって裨益をうけるように、

教育され訓練されねばならぬ、ということは何びとも否定しないところである。しかし、従来の経験を

自己独自の方法をもって利用し解釈することは、能力の成熟期に到達した人間の、当然の特権でありま

た正当なる状態である。(この能力の成熟期に到達した人間という概念が非常に厄介で、主観的成熟と

客観的な成熟に分別されるということがある。つまり、主観的成熟とは、ニートと呼ばれる引きこもり等

が自分の殻に閉じこもっているが、自分は成熟していると思い込んで自由を謳歌するということを指して

いる。しかし、この状態は、まわりから客観的に見ると、どう考えても未成熟な状態であり、どこにも自

由を語ることのできる心身的成熟さを持ち合わせていないことがいえる。あくまでも、彼らの自由は未成

熟なものであり、自由とは到底いえないのである。また、個性の問題も未成熟な状態においては、到底、

個性に足る状況ではない為、ただのわがままを個性や自由と履き違えるという限界を露呈している。この

現状は、しつけをうしなった人類の獣化した状態であり、それを金銭で維持しているという悪循環にはま

りこんでいるのだった。霧山人注)記録に残されている従来の経験の中で、どの部分が彼自身の環境と性

格とに対して適用されうるかを発見することは、彼のなすべきことである。他の人々の伝統と慣習とは、

ある程度まで、彼らの経験が何を彼らに教えたかの証拠である。すなわち、推定証拠であるのであって、

かかる証拠として、当然われわれの敬意を要求しうるものである。しかし、まず第一に、彼らの経験は余

りに狭隘であるかも知れないし、また、彼らはその経験を正しく解釈していなかったかも知れない。第二

に。経験に対する彼らの解釈が正しいかも知れないとしても、その解釈は彼等以外の人には適合しないか

もしれない。慣習は慣習的な環境と慣習的な性格とに向くように作られるものであるが、彼れの環境や性

格は慣習的なものではないかも知れない。第三に、それらの慣習が慣習として妥当なものであり、また彼

れに適合するものであるとしても、単に慣習であるが故に慣習に従うということは、人間独自の天賦であ

る資質のいかなるものをも、自己の裡に育成したり発展させたりはしないのである。知覚、判断、識別す

る感情、心的活動、さらに進んで道徳的選択に至る人間的諸機能は、自ら選択を行うことによってのみ練

磨されるのである。何事かをなすにあたって、慣習であるが故にこれをなすという人は、何らの選択をも

行わない。このような人は、最も善きものを識別することにかけても、またそれを欲求することにかけて

も、全く訓練を得る事ができない。知的および道徳的諸能力は、筋肉の力と同様に、使用することによっ

てのみ改善されるのである。これらの諸能力は、単に他人がそれをなすからといって或ることをなすので

は、単に他人がそれを信じるからといって或ることを信ずる場合と同じように、実際に働かされはしない

のである。もしもある意見の根拠がその人自身の理性に照らして争う余地がないというのでなければ、彼

がその意見を採用することによって、彼の理性が強化されるなどということはありえないし、かえって弱

化する懼れがある。また、もしも彼自身の感情や性格に適さないような動機から或る行為がなされるなら

ば(この場合愛情や他人の権利は関係しない)、それは、彼の感情と性格とを能動的精力的にはしないで

、かえって無気力不活発ならしめるのに、大いに役立つのである。(つまり、神経症的になってしまう。

霧山人注)

    ( 『自由論』 第三章 幸福の諸要素の一つとしての個性について J.S.ミル著 より )

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 個性の自由な発展(自由とは成熟しないと手に入らない。つまり、個性の発展も成熟しなければありえ

ない。霧山人)が、幸福の主要な要素の一つであるということが、痛感されているならば、また、それは

文明、知識、教育、教養というような言葉によって意味されている一切のものと同位の要素であるに止ま

らず、それ自体がこれのすべてのものの必須の要素であり条件である、ということが痛感されているなら

ば、自由の軽視される危険は存在せず、また自由と社会による統制との境界を調整することについても、

特別の困難を惹起しないであろう。しかるに不幸なことに、一般の考え方によると、個人の自発性が固有

の価値を持ち、あるいはそれ自体のゆえに何らかの尊敬に値するものであるとは、ほとんど認められてい

ないのである。大多数の人々は、現在のままの人類の慣習に満足しているので(人類の慣習を現在のよう

なものたらしめたのは彼らなのであるから)、これらの慣習が必ずしもすべての個人にとって充分に結構

なものではない、というわけを理解することができない。のみならず、道徳と社会との改革者の大多数は

、自発性をもってその理想の構成要素とみなすことなく、かえって、彼らが人類にとって最善の理想と判

断するものをあまねく受け入れさせようとするにあたって、煩わしくまた恐らくは手に負えない障碍物と

なるものとして、むしろ猜忌の念をもってこれを見るのである。(成熟して得る自由とは、自発性に尽き

る。だから、危険と責任が伴うのである。政治の世界は、人に言うことを訊かせたいから、自発性という

ものを嫌う習性がある。霧山人)

    ( 『自由論』 第三章 幸福の諸要素の一つとしての個性について J.S.ミル著 より )

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