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言論の自由

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言論の自由は大事だけど、人の嫌がることは言わないが益し。

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 少なくとも新教徒は否定しないことであるが、およそ人類の知性と判断力とが養成せらるべきものであ

るとすれば、何びとにもせよ、彼にとって非常に心にかかる事柄、したがってそれについて意見をもつこ

とがどうしても必要と考えられる事柄に対して、これらの能力を行使するより以上に、もっと適切にこれ

らの能力が行使される事柄があるであろうか。もしも悟性の鍛錬ということが、他の何よりもただこの一

事にあるという一事があるとすれば、その一事とは確かに、自分自身の意見の根拠を学び知るということ

にある。それについて正しい信念をもつことが何よりもまず重要とされる諸問題に関して、人々の信念が

どのようなものであるとしても、彼らは、少なくとも普通の反対論に対してそれを弁護することができな

くてはならない。

       ( 『自由論』 第二章 思想および言論の自由について J.S.ミル著より )

 異端者のこのような沈黙は、何の害悪にもならないと見る人々は、第一に、この沈黙の結果として、異

端的意見に関する公平で徹底的な論議が全く存在しなくなるということを考慮すべきである。また、異端

的意見のうちこのような論議に耐ええないようなものでさえ、伝播することは阻止されるとしても消失す

ることはない、ということを考えるべきである。しかし、終局において正統的な結論に帰着しないような

一切の探求を禁止することによって最も堕落させられるものは、異端者の精神ではない。最大の損害を被

るものは異端者でない人々であって、異端に陥ることを恐れる余りに、その人々の精神の発達がすべて束

縛され、その理性の活動が驚かされるのである。有望な知性を備えながら臆病な性格を併せもっている

人々――そういう人々は、不敬または不道徳と見なされるかもしれない結論に達することを恐れて、大胆

で活発な、且つ独立不羈な思想の系列を徹底的に追究することを敢えてしようとはしないが、――こうい

う人々が多数あることによって、世界がいかに多くの損害を受けるかは、誰がこれを計算しえよう。この

ような人々の中に、われわれは時として、深刻な良心と微妙な洗練された悟性との持主を発見することが

ある。

      (『自由論』 第二章 思想および言論の自由について J.S.ミル著 より )

 われわれが意見の歴史を考察し、または人生日常の行状を考察するとき、これらの両者がともかく現状

よりもわるくないということを、そもそも何の力に帰したらよいのであろうか?確かに、人間悟性の内在

的な力に因るものではない。なぜならば、自明でない問題に関しては、どんな問題に関しても、それを判

断しうるもの一人に対して九十九人まではそれを判断する能力を全く欠くからである。そして、その百人

目の一人の能力も、比較的なものに過ぎない。というのは、過去のあらゆる世代の卓越した人物の大多数

が、現在では誤謬であると判明しているような多くの意見を抱き、また現在何びとも正当とは認めないよ

うな多くの行為を為し、またこれを是認していたからである。それならば、全体として、人類の間に合理

的な意見と合理的な行為とが優勢を示しているのは、なぜであろうか? もしもかような優勢が真に存在

しているとすれば、――人事が現にほとんど絶望的な状態にあり、またいままでもつねにそうであったの

ならばともかく、そうでない限り、かような優勢の存在しているに相違ないのであるが、――それは、知

的存在もしくは道徳的存在としての人間における尊敬に値する一切のものの源泉であるところの、人間精

神の一つの特性――即ち人間の誤りは正すことができるものであるという特性――に因るのである。人間

は、議論と経験とによって、自分の誤りを正すことができる。経験のみでは充分ではない。経験をいかに

解釈すべきかを明らかにするためには、議論がなくてはならない。(経験というものはたいてい慣習に流

されており、その慣習から逃れることを文明の始まりとしている。そこに議論というものが果たす役割が

あるのである。しかし、この議論というものにおいても、それに行為が伴わなければならないという点が

実学の精神と一致するところである。戦前においては、議論はあっても、行為は行われず、そのやるせな

さが戦火に走っていったということがある。その反省の上に今日が存在するはずであるのだ。霧山人注)

誤った意見と実行とは、徐々に事実と論証との前に屈服してゆく。しかしながら、事実と論証とが人の心

に何らかの効果を生じるためには、それがひとの精神に突きつけられなくてはならない。しかも、事実の

意味を取り出してくれる注釈なしに、それだけで意味が説明されるというような事実は極めて稀れであ

る。そこで、人間の判断力の一切の力と価値とは、それが誤っている場合に匡正(更正)されうるとい

う、一つの特質によるのであるから、人間の判断を匡正する手段が断えず手近にあるときにおいてのみ、

それに対して信頼を置くことができるのである。(切腹しなくてもよいということ。霧山人注)何びとか

の判断が真に信頼に値するという場合に、彼の判断はいかにしてそうなったのであろうか?(郵政民営化

に反対した人々の多くは、地方切捨てに対する警戒感から始まったであろうことが推測される。だから、

政府は地方、つまり国土経営に対する指針をはっきり提示する必要がある。もちろん、地方分権において

も、地方の意見や方針をしっかりと認識しておくというくらいのことは、小さな政府であっても怠っては

ならないことであろう。さらにいわせてもらえば、莫大な財政歳出は、一般会計よりも特別会計に依存し

ており、ここに政府が手を入れられないということは、実は、政府が国内において何の権限も持ち合わせ

ていないことと同じであって、そのことに対する措置を講じなければ、日本の問題、国債増発問題やら、

国土経営の問題やら、何ら解決されることはないだろう。特殊法人の使い方が日本再生の鍵であるが、そ

の選別は、インフラ整備した後の有効利用と重なって、とても重要な事項となるだろう。二十一世紀の設

備は整ったけれども、それを活用する努力が見られない日本という国はどうなるのか。霧山人注)何びと

かの判断が真に信頼に値するという場合に、彼の判断はいかにしてそうなったのであろうか? それは彼

が、彼の意見と行為とに関する批評に対して、絶えず彼の精神を打ち開いてきたからである。すなわち、

彼に対してなされうる一切の反対論に傾聴し、かような反対論の中の正当な部分によって自らを利益し、

またその誤っている虚偽を彼自身に、時には他の人々に、説明するということが、彼の日常となってきて

いたからである。また、人間が或る主題に関する完全な知識に或る程度まで近づきうるための唯一の途は

、あらゆる異なった意見の持ち主たちがその主題に関して言い出すかも知れない〔さまざまな〕意見に耳

を傾け、また、各種の精神的性格の人々がこの主題に注目するその一切の注目の様相を研究することにあ

るということを、彼が自覚していたからである。およそいかなる賢者といえども、これ以外の方法によっ

て知恵をえたものはかつてなかった。また、これ以外の方法によって賢明となることは、人間知性の本性

にないことでもある。自己自身の意見と他人の意見とを照合することによって自己の意見を訂正しまた完

全にする堅実な習慣は、自己の意見を実行に移すにあたって毫も疑念と躊躇とを生ずるどころではなく、

かえって自己の意見に正当な信頼を置くための唯一の安定した基礎をなすのである。なぜならば、少なく

とも明白にいわれる一切の反対論をすべて知っており、また、すべての反駁者に対抗して自己の意見を主

張して来た上に、――自分が異論と難問とを回避せずにむしろ求めて来たということ、当該の問題に対し

ていかなる方面から投ぜられる光明をも遮断しなかったということを、知っていればこそ――彼は、同様

の方法を遂行していないいかなる人物の判断よりも、またいかなる多数者の判断よりも、自分の判断のま

さっているとかんがえる権利をもつのである。

     ( 『自由論』 第二章 思想および言論の自由について J.S.ミル著 より )

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 これに対して私(J.S.ミル)は答える――このかんがえは、それよりも遥かに多くのものを仮定してい

るのであると。およそ論駁すべきあらゆる機会が与えられていながら、しかもなお論破されていないとい

う理由によって、ある一つの意見を真理であると推定することと、ある意見を論破することを許さぬとい

う目的のために、その意見を真理であるとかんがえることとの間には、雲泥の相違が存在している。われ

われの意見を反駁しまた論破する完全な自由は、まさにわれわれが、行動の諸目的のためにわれわれの意

見を真理であると仮定することをゆるす当の条件なのである。そして、全能の神ならぬ存在としては、こ

れ以外のいかなる条件をもっても、自分が正しいという合理的保証をもつことはできない。

  ( 『自由論』 第二章 思想および言論の自由について J.S.ミル著 )

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 第一に、権威によって抑圧せられようとこころみられている意見は、あるいは真理であるかも知れな

い。それを抑圧しようとしている人々は、いうまでもなく、それが真理であることを否定する。しかし、

彼らは不可謬ではない。彼らは、その問題を全人類のために決定し、他のあらゆる人々が判断する手段を

排除する権威をなんらもってはいない。それの誤っていることを彼らが確信しているという理由で、或る

意見に耳をかすのを拒むことは、彼らの確信をもって絶対的確信性と同一視することである。すべて議論

を抑圧することは、自己の無謬性を仮定することである。討論を沈黙させる主張を非難することは、この

ような平凡な議論をよりどころとすることをゆるされるであろう。その議論の平凡であることは、毫も差

しつかえない。

 人類の良識のために不幸にも、人類の誤謬性は、理論上はつねに重視せられているけれども、人類の実

践上の判断においては重視されていることからほどとおい。というのは、各人は自分の誤り易いものであ

ることを充分に承知しているにもかかわらず、自分の誤り易いことに対して、いかなる予防策をも講ずる

必要があると考えるものはほとんどなく、また、自分が極めて確実であると信じている意見も、実は陥り

易いことを充分に自認しているところの・誤謬の一つの実例であるかも知れない、という仮定を承認する

のも、またほとんどないからである。

 ひとは、自分の孤独の判断に対して自信がなければないほど、いよいよ盲目的な信頼をもって、「世間

」一般の無謬性に依頼するようになるのがつねであるからである。

 時代というものもまた、個人におとらず誤り易いものであることは、いかに多く議論をしてもそれ自体

自明なことである。各時代は、後の諸時代が、単に誤謬であるのみならずばかげたものとされた・多くの

意見を抱いていた。そして、かつては一般に信じられていた多くの意見が現代によって拒絶されているこ

とが確かであるように、現在一般に信じられている多くの意見が、未来の時代によって拒絶されるであろ

うということも、同様に確実なのである。

  ( 『自由論』 第二章 思想および言論の自由について J.S.ミル著 より )

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