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グローバル化の中での子育てでも英語は重要ではない。でも言葉はとても重要。 今から10年以上まえ、長男が3歳くらいのとき、我が家はアメリカに住んでいた。いわゆる駐在員である(いまもそうだが)。テレビを消し息子に絵本の読み聞かせをしていた。もちろん日本語の本。 日本を出る前に参加していた読み聞かせ友の会みたいなグループから毎月会報が届く。わざわざありがたい。そこで、投稿をした。 海外に行ってもちゃんと読み聞かせ続けてますよとか『ベットタイムストリー』といって夜寝る前に必ず呼んでます、とかの内容を書いた。 翌月の会報に載り、その翌号から会員の方のコメントが載った。 読んで少し驚いた。ほとんどが「お父さんが読み聞かせをやっているのはすばらしい」と書かれている。 他の家庭では読みかせをやるのは多くの場合お母さんの仕事らしい。 俺の背中を見て子供は育つんだという人がいる。つまり、親の生き様が教育になるということだが、確かにそのとおりだ。しかし、これができるのは子供が少なくとも10歳以上になって、物事の理解ができるようになってから。 幼児には到底理解不可能。幼児は「親の顔を見て育つ」。 だから子育てには時間が必要だ。子供と接する時間が。 というボクも仕事や出張で家をあけることがしょちゅうだった。いまでもかみさんから「アメリカに引っ越して最初の3年はどこかへ出張していて7月4日の独立記念日に家にいたことない」と言われる。 たいていの家庭では仕事に忙しいお父さんは日々の育児の参加は困難な場合が多い。 「俺の子供だから俺が思うように育てる」は一理ある。 が「俺の子供だからおれの犠牲になってもしようがない」はとおらない。 仕事は生活の糧を得る手段であるが、社会からみるとそれは義務でもある。 社会はその構成要因である個人が知的あるいは肉体的労働を提供することにより、その維持ないし発展が可能となっている。その対価が個人に支払われる。 皆なが仕事をしなくなると社会はその維持すらできなくなる。 税金を納めるのは国民の義務だ。みんなが納めなくなったら、国や自治体は成り行かなくなり、その機能は停止する。 子育ても同じだ。「俺の子だから、どうなっても俺が責任をとる」って言ったて取れない。子供は次の世代の社会の構成要員である。「俺」は今の世代の要員で今の世代はなんとかできるが、次の世代やその次には手はまわらない。「俺」はいつかは死んでいくのだから。 だから「俺の子」は俺の子であって俺の子ではなく、「俺」には次世代の社会の構成要員を育てる義務がある。 社会から見ると仕事をすることも義務で子育ても義務だ。どちらも同じ重要度。義務ばかりいやになるが、それがないと社会はなり行かない。 仕事と子育てを両立させないといけない。実はこれも義務だ。 読み聞かせをするにも「俺」に子育ての時間が必要だ。それも毎日の。 日本の場合、社会自身がこれを難しくしている。子育てに時間がとれない親がいても個人を非難できない。なんとかしなくては。 続く(かな?)
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