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たうたうと流れ
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書庫いしぶみにふれて(近代以降編)

我が沖縄を愛した先人達の、想いを寄せ綴った歌や句が石碑として、そのゆかりの地にひっそりと残されています。
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遠藤石村句碑

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                                        所在地:糸満市真壁 真壁グスク内



    製糖期の日が

       どっしりと

     村つつむ




今県内ではサトウキビの収穫のピークを迎えている。

あちこちでサトウキビを満載したトラックが走り、公共工事の車輌とも相俟って年度末の風物詩となって

いる。

中学の頃、春休みになると決まって糸満の親戚のキビ刈りの手伝いをさせられた。

そのきつい事。体力以上に要領も必要である。




この句碑は彼の出身地糸満市真壁にある。

私の父の出身地でもある。小さい頃からシチグヮチ・ショーグヮチ(盆と正月)他、年に何回か親戚周り

をして慣れ親しんだ田舎である。そんな集落の北にある真壁グスク(地元ではテラヤマと呼んでいる)の

片隅にこの石碑は佇んでいる。半分頭を出した自然石を台座にどっかりと石碑が乗っかっている。

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                           所在地 那覇市若狭 波上宮境内  写真上:正面  写真下:裏面


        那覇の江

    那覇の江に

       はらめき

          すぐる

            夕立は

  さびしき舟を
  
    まねく濡らしぬ


                                   『遠やまひこ』所収(但し一部改編)



釈迢空 本名折口信夫。

柳田國男と並ぶ偉大な民俗学・国文学者であると同時に、優れた歌人・詩人でもありました。

研究者としての彼の業績についての説明はことさら必要としないでしょう。ただ、その研究のバックボー

ンとして沖縄は重要なフィールドでしたが、それを超えて沖縄を愛した人でした。

長編「月しろの旗」をはじめ、沖縄に関する詩五編、短歌六十首を残しています。また芸能特に伝統芸能

にも造詣が深く、1936(昭和十一)年、当時皇民化教育のあおりを受けて衰退の途にあった琉球舞踊の東

京公演を勧め、大きな反響を呼びました。これが今日の琉球芸能の隆盛の契機となった訳です。

彼にとって沖縄は、忘れられようとしていた日本の原風景を残す「母のくに」だったのでしょう。

1953(昭和二十八)年没。享年六十七歳。

彼の遺体は沖縄の芭蕉布に包まれて棺に納められたと云われています。



折口は大正から昭和にかけて三度沖縄を訪れ県内をくまなく廻り調査を行っています。

この歌は、昭和十年、三度目の来沖の際に案内をした、国学院での彼の教え子であった嶋袋全幸に色紙で

書き与えた歌です。

歌碑の選定にあたっては、折口自筆の歌、それも那覇を詠んだ歌がよいとの理由から、この歌に決定され

ました。

『折口信夫全集』第二十一巻『遠やまひこ』には「すぐる」が「すぎし」に修正されて収められています

が、あくまで自筆である点を重んじ、色紙の歌を碑にしたとの事です。



                                      

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                                      所在地 那覇市寄宮 与儀公園内



  座蒲団

土の上には床がある

床の上には畳がある

畳の上にあるのが座蒲団で

その上にあるのが楽といふ

楽の上には

なんにもないのであらうか

どうぞおしきなさい

とすすめられて

楽に座ったさびしさよ

土の世界をはるかに

みおろしてゐるやうに

住み馴れぬ世界が

さびしいよ

                  『思弁の苑』所収



山之口貘 本名山口重三郎。1903(明治三十六)年那覇市に生まれる。中学で絵画を始め後に詩を作るよ

うになった。中学中退後に上京、日本美術学校に在籍し芸術活動を開始する。一旦帰沖してから何度か上

京を繰り返し職を転々とする。やがて本格的な放浪・ルンペン生活をするようになる。様々な仕事を経験

する中でも詩を書きつづけ、佐藤春夫、金子光晴、草野心平らに才能とその人柄を愛されて、しばしば生

活上の支援を受けた。

貘は生涯清貧を生きた人である。しかし生前親交のあったある詩人は、「貘は『びんぼう』から超越して

『びんぼう』をあわれんで『びんぼう』をかわいがっていたような所がある」と語っている。1959(昭和

三十四)年、『定本山之内貘詩集』で第二回高村光太郎賞を受賞している。

1963(昭和三十八)年没。

貘の詩碑は十三回忌にあたる1975(昭和五十)年七月十九日に建立された。「座蒲団」は彼の最も愛した

作品で、彼の母校の中学(現首里高校)に保存されていた自筆の扁額の文字から起して刻まれた。

      
             垣花武信・東江八十郎『沖縄文学碑めぐり』1986年 那覇出版社 より引用

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                                  所在地 那覇市首里赤平町 虎頭山公園内


しづかさよ 空しさよ

この首里の都の 宵のいろを

誰に見せやう 眺めさせやう

              



詩人佐藤惣之助は、1890(明治二十三)年、神奈川県川崎市生まれ。十二歳の頃より俳句を学び、後に大

正期に詩作に転じた。

1922(大正十一)年五月から七月にかけて沖縄および台湾旅行を行い、『琉球諸嶋風物詩集』を編んだ

(同年十一月刊)。「詩の家」を主宰して新人育成に貢献、津嘉山一穂、伊波南哲など、多くの沖縄県出

身の詩人を送り出した。

彼はまた、流行歌の世界で作詞家としても数多くの作品を残しており、「赤城の子守唄」「湖畔の宿」

「人生劇場」「青い背広」「人生の並木道」「緑の地平線」などが知られる。

1942(昭和十七)年五月没。



この詩碑は、1959(昭和三十四)年五月、惣之助の出身地である川崎市民の厚意によって建立されたもの

である。当初、首里当之蔵町、旧琉球大学構内(現首里城公園)にあったものを、公園の整備に伴い、当

地へ移築したものである。建立に際しては、同じ神奈川県出身の陶芸家浜田庄司の手による陶板が用いら

れている。碑の文言は「宵夏」の冒頭の部分である。



 宵 夏

しづかさよ 空しさよ

この首里の都の 宵のいろを

誰に見せやう 眺めさせやう

まつ毛に明星のともし灯をつけて

青い檳榔の扇をもたし

唐の若い詩人にでも歩いてもらをう

ひろい王城の御門の通りを

水々しい蛍を裾にひいて

その夏服を百合の花のやうに

この空気の点じいだし

さて、空しい空しい

読めばすぐ消へてしまふやうな

五言絶句を書いて貰をう

            『琉球諸嶋風物詩集』所収


              垣花武信・東江八十郎『沖縄文学碑めぐり』1986 那覇出版社 より引用

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