cygnus_odile の 雑記

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Bliss Carman の 『サッフォーの百の詩篇』に対する 沓掛良彦 の非難

 本邦においては、サッフォー様に関するまとまった著作として

   沓掛良彦著 『サッフォー 詩と生涯』(平凡社1988年、水声社2006年)

が有ります。現在、日本語で読めて、サッフォーの詩篇を網羅し、彼女の業績を論評した唯一の著作であり、丹念にサッフォーの断片を考証した上でサッフォーの詩の翻訳がなされている、いわば、学術書でもあります。(著者は、この著作で東北大学から文学博士号を得ているようです。)

 この著作『サッフォー 詩と生涯』の最後に、付章として、
 「わが国におけるサッフォー―上田敏、日夏耿之介、呉茂一の訳業について」
と、題する論文が掲載されています。
 この中で沓掛良彦は、日夏耿之介が上田敏に続いて、サッフォーの詩を日本へ紹介していることを述べています。
 しかし、日夏耿之介 が 「ブリス・カーマンなる人物!」 の『改鋳自由訳』(英語への翻訳)を典拠としていることを非難し、さらに、日夏の(例の独特の雅文体/和風ゴシックロォマン文体と自称せしもの)詩風により、サッフォーの詩風(文体、リズム)を一切伝え得ぬものに変容させられており、日夏の創作詩としか言いようの無いものだと、本邦へのサッフォーの紹介の功は認めるものの、その翻訳詩そのものについては、口を極めてその改竄を断罪しています。
 記載を引用しますと、
『……。 われらの学匠詩人が、サッフォーの詩を翻訳するにあたって底本としたのは、『不幸にして』上田敏の用いたフォートンの書ではなく、『王者古典叢刊の改鋳自由訳』であった。すなわちブリス・カーマンなる人物の手になる……。』
『一代の詩宗日夏耿之介によるサッフォーの作品の翻訳については、これ以上あげつらう必要もない。見てのとおり、それはいかにも「ゴシック・ロマン体」と称する詩風を誇った詩人による見事な詩となっており、その詩的、文学的価値においてはまさに珍重するに値する。それは華麗にして玄妙な日本語によって不可思議な魅力を醸し出しており、これを読む者の心をとらえる魔術的な力を秘めている。しかし、はっきり言ってそれは日夏耿之介そのひとの詩であって、サッフォーの詩でない。……仮に日夏耿之介がカーマンでなく、優れた英訳を数多く納めた収めたフォートンの書に拠っていたならば、たとえ重訳であり奔放な翻訳ぶりを示したとしても、躊躇なく「サッフォーの訳詩」と呼ぶに足るものが生まれていたであろうに、と惜しまれる。……。』
となっております。  <この引用、2009-03-29 追記>

 沓掛良彦は、古代ギリシア語に研鑽を積んだ学者であるからなのでしょう、ブリス・カーマンの『サッフォー:百の詩篇』も同様に、先に紹介した、僅か一行の断片のみが知られる「012. 夢の中で私はキプロス生まれ(の女神)と話した」が十六行もの英訳詩になっていると非難し、サッフォーの詩風を全く無視したものばかりで、しかも、典拠とする断片が不明の物が多いと切って捨てております。

 確かに、Bliss Carman による "サッフォーの百の詩篇(Sappho: One Hundred Lyrics)" には、Carman によって想像豊かに創作されたと思われる部分について、冗長なものや、詩人 Carman がどのような妄想を抱いたのか意図不明なものもあります。 しかしながら、エウレカさんがブログで述べられているように、ほんの一行の断片では、一体何のことやらわけがわからないものが多い、のも事実であります。 また、我々一般の日本人にとっては、古代ギリシア語(しかもアイオロス方言)で書かれたサッフォーの遺稿そのものに接する機会はほとんどなく、また、それを見てもちんぷんかんぷんなので、サッフォーの詩を鑑賞する際に、英訳詩に頼らざるを得ません。ですから、沓掛良彦先生の主張する原詩のリズムやギリシア語の味わいまでを賞味するわけにもいかないわけです。
 (例えば、こちらのサイト "Poems of Sappho (Unicode)"には、Edwin Marion Cox (1848-1932)による英訳[1925]と共に、希臘語でも掲載されていますが、さっぱりです。)
 また、Carman は、サッフォーの少女達との恋愛(サフォニズム)、美青年ファオンへの思慕と投身伝説、を肯定し、積極的にその創作に取り入れた立場をとっているようです。 読者にとっては、面白いのですが、そこらに少し懐疑的な立場をとる人にとっては、何か違和感を感じることもあるでしょう。

 当ブログで、Carman 訳 を元としているサッフォーの詩篇については上記のことを心に留め置いた上でお楽しみ下さるよう、お願い致します。

閉じる コメント(3)

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なるほど、丁寧なご解説、ありがとうございます。
日夏耿之介のサフォー訳詩は、私も読んだことあります。確か『海表集』とか言う訳詩集に数篇入っておりましたね。ほとんど覚えておりませんが(笑)、自分で「若気の至り」みたいに書いていたと思いますよ。「いまはた老い朽ちぬるかな」。『転身の頌』の序文にも、確かサフォーに関する言及があったと記憶します。
「泡から生まれたアフロディテ…」と言うのも、たぶん一行目だけが本物のサフォーですね。でもこれはこういうものと割り切って、われわれはただ楽しんでいればいいのだと思います。

2008/12/4(木) 午前 5:20 [ eur*k*031* ] 返信する

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そうですね。この Carman の「サッフォー:百の詩篇」の序文(C.G.D. ROBERTS.が寄せている)にも、『サッフォーの伝説は架空の物語であるけれど、サッフォーの伝説がインスパイアした多くの美しい芸術作品を鑑賞する上で、それを事実と認める必要はない。』などと書いてあるようです。

2008/12/4(木) 午後 11:43 [ cygnus_odile ] 返信する

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わたしには沓掛の非難が理解できません。1行を16行にしたからといって、それは詩人カーマンの詩想の豊かさを証しこそすれ、非難さるべきことではありますまい。問題は、その詩想のふくらませ方が当を得たものであるか否かのはずである。しかし、沓掛はこれを問おうとしない。
沓掛が「原詩さえ突きとめられない」として挙げた3編のうちの1篇は、ちゃんと原詩が突きとめられるのです(これは嗤うしかない)。とすると、長年サッフォーを研究してきた沓掛でさえ、原詩との区別ができなかった──それほどの出来映えであった、というところにこそ注目すべきでは?

2015/8/4(火) 午後 0:04 [ pro*o*ta*488 ] 返信する

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