思想家 清水竜志のブログっ☆

今までありがとうございましたっ☆m(__)mまたどこかで会いましょうっ☆ヽ(^o^)丿

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こんにちわっ☆
いつも天気の事を気にしている私、埼玉人の思想家ですが、先日も書かせていただきましたが、昨今の趨勢が定まっていない中、「一体何が正義なのか?」と考えれば、やはりそれは「気分なのである」とも言えるわけなので、例えば、今日のニュースになっている、民主党の党首が代表を辞任する・・、とした話題になっておりますが、たとえば、悪いお金のウワサが立ったとしても、世の中の情勢や景気がガンガン行っている時には、そんなことより、「さらに物事の良くなること」に注意が傾くわけですが、先般のSM○Pのメンバーの不祥事もそうですが、そんなに大げさになることでもないのに、メディアがそこまで取り上げるということは、「市民の注意を引く話題に乏しい・・」つまり、「現在の正義は気分と同義である・・(汗)」という裏づけでもあるわけですっ☆

・・ですので、私は人間の気分をつかさどる、天気をいつも気にしている次第なのですっ☆(笑)

さて、そんな社会の事情にあって、今日考えて見たいことは、「要らなくなる」といった概念というか事情というか、さしづめ「感情の結末」ということでありますっ☆

例えば、「物が要らなくなるとどうするか?」と言いますと、当然それは、とりあえずゴミになるわけで、そして、そのゴミはどうなるかと言いますと、燃えるものは償却処理・・、燃えないもので、再利用が可能なものはリサイクル・・、不可能はものは埋め立てへ・・、といった具合の処理が為されます・・。

まぁ、そんな小学校の社会科的なことは、この際に改めるまでの事でもありませんが、私が考えたいことは、その「物がゴミと判断される過程と経緯」についての人間的な哲学の話ですっ☆

ちょっと考えてみたいのは、「なぜその物が必要だったのか・・?」ということと、「それが要らなくなるとはどういった事なのか?」ということですっ☆

まず、「必要になる」という思考が働くということは当然ですが、自分がその「物」や「事象」に対して、「価値を感じる」ということですっ☆

これまで何度か書かせてもらっておりますが、「価値」とは、「真・善・美」のような崇高なものから、「・・ちょっと便利」とか、「・・ちょっと楽しい」とか、そんなことも「価値」には含まれていますっ☆

往々にして人が物を調達する際には、現在の社会の在り様からすれば、自分で一から創造するよりも、お店や他者から購入した方が、明らかに便利で優れた判断なのであって、それが現在の常識ともなっていますっ☆

そうした常識の中にあって、自分が「手に入れたい」と思うものがあって、では、「なぜそれを手に入れたいのか?」と考えますと、「自分がこれから営む行動に対して必要だから・・」というのが、模範的な発想になろうかと思いますっ☆

なぜなら、人生は今後も続きますし、人間はその予想が立てられるからですっ☆

そして、そうした予想の下で、私たちは「価値」という概念をコントロールすることが出来るわけでして、それが「必要か否か」という判断と、さらに「必要だ」と下されたものが「次第に必要では無くなっていく・・」というプロセス。そこに、どういった哲学があるのかと私なりに考えますと、

1、諸行無常において、物事の価値が移り変わっていくということ
2、その「価値を得たら」、自分にその分の価値の「上積み」が為されているということ
3、「上積み」が終われば、その価値が損なわれるということ    

・・の3点が考えられますっ☆

上記の例が「物」や「ゴミ」だったので、あまり哲学的にピンと来ないかもしれませんが、これが「仕事」や「人間関係」、「家族」や「友人」というのも、この考えに当てはまることがあろうかと思うので、この考えは明らかに哲学だと言えると思うのですっ☆

例えば、「今はこの仕事で我慢するが、いずれは次の段階で勝負するんだっ☆」とした上昇志向があったとしたら、「その仕事に今、価値が感じるかどうか?」ということになり、価値が感じていれば、まだ「上積み」が済んでいないことになり、価値が感じられなくなれば、その「上積みが終了」して、次の段階に自ずと進むことになろうかと思うのですっ☆

「人間関係」についても全くそのままのことで、その関係の維持に「価値」や「魅力」、「必要性」が感じられるから、最近の打算的な人はその関係の維持を図るわけでして、もしその「必要性」がなくなれば、自然と関係が崩壊するはずですっ☆

それが「友人」や「同僚」なら当然で自然なことですが、「親」や「家族」といった、たとえ社会的にどんな縛りがある領域の関係であっても、昨今の個人主義社会を考えてみた際には、その関係の維持に「価値があるか否か」という尺度が、最も重要であると考えられると思うのですっ。

「経験」といった事でもこれは当然のことでして、例えば浦安にある日本一のテーマパークで、たまに新しいアトラクションが登場しますが、それを一回経験してしまえば、経験しないのと一回経験するのでは、「その経験の価値の上積みが自分に為されたかどうか?」という点で、大きな違いがあると思うのですっ☆

これは、物を購入して、その物を利用し終えた際にも同じことが言えると思いますっ☆

現行法で、16歳になり原チャリを購入し、通常、18歳まで原チャリを利用した行動が選択されますが、18歳になれば自動車の免許が取れますので、自動車の利便性の方が優位になって原チャリが要らなくなる・・、そのプロセスの末に、「自分の人生には原チャリの価値は既に得てしまった・・」、ということになると思うのですっ☆

ですから「人生経験」とは、記憶や体験の蓄積や上積みですので、その蓄積や上積みを得て、現在に至るわけですから、「過去に消化した事象」というのは、現在の自分を形成している「価値だった」わけなのですっ☆

そして、今では過去の価値に囚われることなく、精神的に健康的な人であれば、自分の将来に可能性を見出しているわけでして、そうしたことを考えてみると、「物事が必要な時・・」そして、それが「要らなくなる瞬間」というのは、人間という存在を考える上では、極めて重要な哲学になるわけで、・・とすれば、成長や進化などといったことも、物事の価値の上積みで果たされるわけですから、もしそれが済んでしまえば、お茶を出した後の出涸らしのお茶っ葉の如く、結果的に「要らなくなったもの」の上に自分が存在しているのだ、ということだと思うのですっ☆

そして、そうした感慨を持つと、こうした人生の機微には、「奥ゆかしい様々な哲学が隠されている」とも思えるわけなのですっ☆

・・ひな鳥が親元を巣立つが如く、何事も、そうした有用→無用の営みの連鎖において、すべては醸成されているのだと、改めて「価値」ということを考えてみて、何が真理で何が正義なのか?ということにも、上積みが為されるのではなかろうか?と思い、今日のところは爺臭く終了したいと思いますっ☆(笑)

ということで、あらゆる物事が「要らなくなる瞬間」には、「ストーリーの全てが隠されている・・」、ということなのですね〜っ☆

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