思想家 清水竜志のブログっ☆

今までありがとうございましたっ☆m(__)mまたどこかで会いましょうっ☆ヽ(^o^)丿

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こんばんわっ☆
今日は、とある事情によりコンパクトな記事にまとめたいと思いますっ☆
とある事情とは、考え事にはまりすぎてしまい、情報処理が進んでいない事実が判明しましたので、ブログ更新にあまり時間がとれなくなったためですっ☆

しかしながら、内容に手抜きは許されないと思うので、その中和策と言いますが、妥結した内容をアップしたいと思いますっ☆

・・ヤフーニュースやら、ポータルサイトのニュースを見ていると、ボクシングの元WBCバンタム級王者の辰吉丈一郎(38歳)選手が現役復帰しており、第二戦を来月、3月の8日にタイで執り行う、との発表でしたっ☆

私は正直、大丈夫かな?と一瞬思いましたが、次の瞬間にあることに気が付いたのです。

それは、有名スポーツ選手の現役続行や復帰のニュースが多い、ということですっ☆

例えば、同スポーツのボクシングでは、西澤ヨシノリ選手(43歳)がコミッションから年齢を理由に引退勧告を受けたにも関わらず、国内のルール外でのルール解釈で、海外で現役続行をしているという事例。

野球では、恐らく日本リーグでだと思いますが、工藤公康投手(45歳)(横浜ベイスターズ)が、投手としては最高齢現役投手の現役続行。

女子では、レスリングの山本聖子選手(28歳)が、「このまま辞めたらおばあちゃんになってから絶対後悔する」と言い切ってカムバックを宣言いたしました。

先頃になっても最も有名な話は、テニスの伊達公子選手(38歳)が、現役復帰後、国際大会で既に結果を出している、という事例などです。

現役続行や復帰というのは、何も「アスリート」というカテゴリーに限ったことではなく、定年延長や年配者の脱サラブームみたいなこともその例に当てはまると思いますっ☆

これは人類にとっては大変歓迎すべきことですし、私は全くの若輩者ですが、若輩者としたって、大変励まされる話だと思うのです。

・・というような月並みな表現は、みなさん日頃から飽き飽きされていると思いますので、ここで私に期待されることは何かと言えば、「だから何なんだ?」という、平たく言えば、ブレークスルー的な発想だと思うのです。

私が勝手に思うことですが、次世代の思想を担う素材であるならば、もしそこに答えがなければ、存在証明に適わないと思うので・・。(汗)

タイトルにもなっているので、明白なことだと思いますが、やはり「退屈」ということがキーファクターになるのだと思います。

例えば、それなりの結果を出し、社会的地位を得た一流アスリートが一度引退を決断したわけですから、相応の理由と動機があったはずなのです。

もっと言えば、「覚悟」や「決心」とも取れるような判断だったのだと言えそうなのです。

「それを覆してまでも現役に復帰する」、あるいは、「自分の肉体の限界にムチを打ってまで得たいものがある」、ということです。

前者は私の表現(退屈ということ)でスムーズに理解が進むと思いますが、後者においてはやや難しいところではあると思います。

前者の説明は、「このまま隠居したら退屈な人生になってしまうだろう・・」、という動機に関してのアプローチは解釈しやすいということです。

後者に関して言えば、得たいものの本質は何か?ということから考えなくてはならないため、今後の題材としてとっておきたいと思いますっ☆

とにかく、以前の記事にも書かせていただいておりますが、「退屈」とは最も恐れるべき感情であり、人類の敵だとも言えそうなのです。

「暇」、という表現がありますが、それは「退屈」の前段状態でありまして、それを過度に感受してしまうと、その先には闇か鬱のどちらかしか待っていないと思うのです。

ですから私の想像では、現役復帰や身体的なリスクを犯してまで人生のレースに望む動機、それについては非常にスムーズに納得がいく筋だと思えるのです。

なぜ現役に復帰するのか?、→それは退屈したくないため。

なぜ現役に拘るのか?、→それは退屈な人生と戦うため。

多少の差異や語彙の違いはあろうかと思いますが、大まかな面持ちとしては、こんな表現でよかろうかと思いますっ☆

今日はホントに時間に追われているので、これにて書き込み終了ですが、「人類の敵は退屈」、これには私は自信がありますので、よかったら人類と退屈について一緒にちょっと考えてみませんか!?

もし難しいようでしたら、このように考えてはいかがでしょうか??↓

「理想の人生とはどうゆう人生ですか??」→「それは、退屈しない人生ですっ☆」、私には模範解答にしか聞こえませんっ☆(笑)
こんばんわっ☆
相変わらずネガティブな気分は変わらず、多少持ち直しても、直ぐにまた下降傾向になってしまう始末ですっ☆
まぁいつものことですが、最近違うのは、「それでもやっていられる・・」、といった具合の謙った悟りみたいなことでしょうかっ☆

人生退屈しのぎから始まって、何かの使命やら勘違いやらで、人間は物事を遂行するわけですが、事の?莖末(てんまつ)というか、物事の最初と最後、要は、「有」と「無」、についての考えって、結構難しかったりしませんか?

分かり易く言えば、なぜ始まり、なぜ終わるのか?終わりがあるから始まるのか?それとも、何かが始まったために終わるのか?

と言う具合で・・、シニカルに言えば、鶏と卵の逆ローテーションの話のような具合です。

なので恐らく、この書き込みがその答えとなるべくもなく、そうと分かっていてもこのくだりを続けるわけですが、私は理屈を持ってそれをちょっと工夫して解釈する、といった類のことなら得意なので、是非最後まで読んでいただけたらと思いますっ☆

有と無について考えた際に、最も分かり易く、なおかつ直ぐに発想されることは、0と1です。

コンピューターの二進法の考え方ですが、まさにこれは有と無と言えるでしょう。

ここに何かがあれば1、無ければ0・・、簡単に言えばそれだけのことですが、つまるところ、この世が存在に値するのか否か、みたいなことにも発展する理屈とも言えるでしょう。

唐突ですが、学問もそうですが、「考え」というものは、その有用性が裏付けていなければなりません。

なぜなら、無用なものであれば、その価値が認めてもらえず、評価に値しないとされるからです。

なので、出来ることなら、こうゆう事実を受け止めた上で、私の今回の記事も含めた、様々の表現がなされるべきと思うわけなのです。

・・そう考えた時には、やはりこの記事を読んでもらったからには、相応の労苦と時間が用いられるわけですから、何かの足しを提供する責任すらあろうかと思うのです。

ということで、私の個人的な感情やら事情とは関係なく、現実ベースの風合いにベクトルを傾けて参りますと、先日放送された「博士の愛した数式」という邦画を観させていただきました。

ストーリーを完結に紹介しますと、障害で、数十分しか記憶がもたない、ある数学博士が家政婦を依頼して、その家政婦と日常で数学の悶着を取り交わすわけですが、その際(期間)に間柄が深くなり過ぎてしまい、なにやら色々起きていく・・、といった具合です。

ストーリーについてはさしたる特徴がないようにも思えますが、役者さんの演技や設定が面白いように思いました。

私の映画批評は置いといて、ここで取り上げることは、有と無についてです。

なぜこの映画の例を出したかと申しますと、その映画の中で博士は、「1」についての考察を進めておりました。

数字の妙と言いますか、「1」とはなんだ?、ということです。

私なりの解釈をすれば、やはり「有」とはなんだ?ということです。

そして、有があれば「無」とはなにか?となるわけです。

鶏と卵のように、どちらが先で・・、や、良否、是非、ということではなく、簡潔に言えば、その事実についてどうか?ということです。

こうゆうふうに、敢えて難しく考えると、何を言っているんだ?と邪険にされそうですが、ここで思い出して欲しいことは、コンピューターの二進法です。

二進法は、まさに有と無についての応用なのですが、これは疑うこともなく、日々の暮らしに有用であるがゆえにその評価を得ているわけですが、0と1について評価があるわけではなく、それを用いた便利な機能が歓迎されている、といった具合なのです。

ですから、私がここで提供するべき機能とは、だから何?という問いに対する答え、ということでしょう。

なので、それを全うにアプローチいたしますと、生きるか?死ぬか?、やるか?やらないか?ということで結構だと思うのです。

モチベーションとインセンティブ、と何度か書かせていただいておりますが、このことをかいつまんで表現すると・・、生きるために何をやるのか?、何かをやるために生きるのか?、ということになろうかと思うのです。

なぜなら、有と無、0と1なので、やるは1、やらないは0、生きるは1、死ぬは0、となるため、では、それを発展させると、もし死を選ぶとすれば、なぜ死ぬのか?という動機がセットで必要になると思うのです。

ですから、0だけでは不十分であって、1がどうしても必要になる、分かり易く例えるならそうゆうことです。

では、健全な1、つまり「生きる動機」ですが、生きるを0とすると、なぜ生きるか?は1、そしてどのように生きるか?は01か10か、どちらでも良いですが、とにかく二進法でやっていくとそうゆう風になっていくと思うのです。

分かり易く例えたつもりが、ややこしくなりましたので、整理しますと、有と無とは、つまり表裏一体であって、それを有用とするならば、モチベーションとインセンティブ、マックのドリンクとポテトのセットみたいなことで、ここに何かがあるのか?ないのか?ということは、つまり、実はそれしか考える余地がないのだが、それを膨大にすることによって分かり辛くなる、ということが、今回言いたかったことです。

まあ、シンプルイズベストと言いますが、その意図とはなんでしょうか?、みたいなことですかねっ☆(笑)

つまり、マックで言えば、コーラでもアイスコーヒーでも良いですが、001か010か分かりませんが、なんらかの0と1には変わりがなく、有か無のどちらか、ということなのですね。

では、ビックマックセットください!となると、ポテトはL、ドリンクはコーラでMとなると・・、

ビックマックは00110110で、ポテトは001101、Lは0001、コーラは010、Mは001111、スマイルは¥0ですが、とにかくそうゆうことです。

やる1、やらない0、その判断の繰り返しが人生とも言えそうですが、二進法とは分かり易いのか悪いのか、どちらでもよくなったところでとりあえず今日の記事は終了ですっ☆

有と無について、皆さんに何か理解が進めば光栄ですっ☆(笑)
こんばんわっ☆
先程まで頑張って走っておりましたっ☆(坂道5km)
我が家のある住宅地は、山を造成して作った団地らしいので(←プロフィール画像参照☆)坂道がきつく、非常に有意義なトレーニングができるコースになっていますっ☆(最近ランニングブームですからねっ、紛れもなくコースです☆)

ちょっとその気になって加速しただけで、相当程度の負荷が掛かるので、時間の節約をしながらの有酸素運動には持ってこいですねっ☆(笑)(たまにダッシュ!、とかやって中学の陸上部の頃を思い出したりしますっ☆)

・・さて、いきなり本題ですが、私がダイエットのためにランニングするのもそうですが、なぜ人は頑張るのでしょうか??

これは私の考えるテーマの最も根本的な内容とも言える部分ですが、「生きる」というと「頑張る」ということの「差」や「違い」とはどのようなことでしょうか・・??

ともすると、「生きる」というのは漠然としていて、「答え」とおぼしき事象が難しく、なかなか見当がつきませんが、「頑張る」ということにギアを入れなおして考えてみると、まやかし程度にも、輪郭がしっかりするようにも思うのです・・。

若干話が膨らんでしまいますが、先日の「地球ドラマチック」という、NHKのドキュメント系の番組で、ハイエナの一生、みたいな具合の放送をやっておりました。

そのストーリーは、あるハイエナの群れと習性から始まります。

ハイエナという種は群れでの生態系を生業とする肉食獣で、ご存知のとおり、清潔なイメージというよりは、ハゲタカやカラスのような、ちょっとずる賢いダークなイメージの生き物です。

ライオンがしとめた肉の残りをほおばる、みたいな、とにかく悪そうなイメージです・・。

しかし、よくよく考えてみると、ハイエナだって一生懸命生きていて、それぞれにストーリーがあり、その部分にフォーカスしてみると、かなり感動的な生涯を送っているのです。(実は・・)

私は動物やその他の生き物の考察も大好きなので、そうゆうことに対しての意識は大変強いほうだと思います。(昆虫は基本、大嫌いです。気持ち悪いので・・)

そして、まさに地球ドラマチックの放送では、そのハイエナの感動的な生涯についての紹介を事細かに編集し、私に届けてくれた、と言う具合に思います。

専門的になるとこの記事だけでは収まりきらないので、ホントにざっくり説明しますと、ハイエナの群れには序列があって、その群れのもっとも強い影響力を持つメスがリーダーに擁立されていて、そのリーダーを筆頭に指揮命令が自然と成り立っている、という具合です。

例えば、餌を確保するテリトリー(順)というのがあって、リーダーが中心の円になり、最も捕獲が容易かつ安全な範囲が中心、といった具合です。(食料が調達できた際には、リーダーが先、みたいなことにもなっていたはずです。たしか・・)

なので、序列が下方のハイエナは、リスクを犯して多少遠くの肉を捕って来るほかにない、という具合です。

これは食事に関してだけではなく、メスですので子育ても致しますので、そのことにも強く影響します。

リーダーの子供として生まれた子供はその群れの中では、最も安全な範囲で成長が望め、さらなる成長に優位な条件を確保していきます。

そうしたことの連続で群れを大きくして、ライオンやその他の脅威とのバランスを保ち、サバンナでの生存競争に勝ち残っていく、というのが、ハイエナの生涯、という具合でしょうか・・。

その道中には、ヌーの大移動やら雨季や乾季、といった自然の圧が掛かり、その都度、なにかしらトラブルやらハプニングやらが起きて、その際に相応の対応が出来なければリスクとなり、対応が出来ていればチャンス、みたいになるわけなのです。

干ばつが続いて、本来ルートとして通るはずのヌーが今年は通らず、食料の確保が困難になる、近隣のライオンの勢力が増して、テリトリー争いが過度になる、などなど・・、とにかく生存と群れの繁栄が安泰だと言える年など皆無に等しく、毎日の生計にも著しい苦慮が伴う、といった具合です・・。

本来、生物とはそのような状態が好ましいとも言え、そのハングリーさが、本能や本来の姿とも言えるかもしれません・・。

あまりこのことばかりに注力していると、テーマがハイエナについて、になってしまいますので、このことを応用して考えたときに思うことは、ハイエナが頑張る理由は何か?ということが、今回のテーマ、「なぜ人間は頑張るのか?」についてのヒントになろうかと思うのです。

人間とハイエナの差と違いについて説いている余裕がなさそうですが、我々とハイエナは同じ生物であり、さらに哺乳類であるという前提で考えてみると、生まれ落ちて成長し、子供を生み親となり、種の繁栄に寄与し、老いて生涯を終える、というプロセスにおいては、人間もハイエナも全く同様に思うのです。

ですから、「なぜハイエナは頑張るのか?」は、「なぜ人間は頑張るのか?」にも、相通ずるところがあろうかと思うのです。

擬人化と言いますか、比喩と言いますか、近からず遠からず、ニュアンスという事でしたらまぁそんなところです。

なので、ハイエナが頑張る理由、それはおそらく、「それしかできないから」ということで模範解答になろうかと思うのです。

自らが成長し、元気な子供を産んで親となり、子を育てて群れを繁栄させる、要は、自らが生まれた時点で、その結末と運命は決定されていて、よもやそれしか望めないとも言えそうなのです。

ハイエナはハイエナらしく・・、という捉え方が美しい表現だと思います。

ですから、「なぜ頑張るのか?」についての答え・・、それは、やはり「それしかできないから」で正解だと思うのです。

そしてこれが核心ですが、私達人間も、人間として生きるというこで、「なぜ生きるのか?」それは、「それしかできないから」、ということで良いのだと思うのです。

さらにここからが肝心ですが、要は、「その事実を楽しめるかどうか?」、それがその人の価値となり、存在を意義づけるものとも言えそうなのです。

・・今日も私は床に伏せる際には、おそらく、「もう死んでしまってもかまわない・・、これまでやるだけやったよ・・」と思って意識を無くすはずです。(このところ毎日そのように寝ています・・)

しかしどうゆうわけか、また次の日の朝が訪れて、健康体である私の体は、元気に目覚めてしまいます。

そして新しい一日が始まり、悪く言えば、また憂鬱な一日やってきた、といった具合です。

(憂鬱かどうかはその日の気分と天気次第ですが・・)そんなことをあと「2万回くらい繰り返さなければならない・・」、と思うか、「あと2万回しかない!」と思うか・・、要はそうゆうことが価値や意義と言えそうなのです。

もし私がハイエナであれば、空腹や選択圧により、毎日は大変危機的かつ刺激的であり、また有意義かつ能動的な毎日であると思います。

なぜなら、それしか望むこともなく、ただその連続が使命づけられているからです。

ライオンの残りだろうが、自らが捕食した肉だろうが、同じ肉は肉、空腹であればご馳走であり、その肉を子孫に分け与えることができれば、この上ない幸福であるわけです。(わかりませんが、おそらく・・)

・・ですから、頑張る理由が生きる理由ならば、それしかできない・・、それをどう考えるか?、あるいは考えないか?、ということではないだろうか?、ということで、とりあえず今回の記事は終了したいと思います。

なぜ頑張るか?お金のため、家族のため、自分のため、夢、希望、趣味、快楽、楽しみ、娯楽、教養、暇つぶし、ととまあ、実は色々ありそうですが、そもそも「頑張る」って一体なんでしょうかね・・??、それについて考えていない事実にも気づく次第でありました・・(笑)。

頑張る理由・・、コメントしたいと思ったことがあれば、是非教えてくださいねっ☆(お待ちしておりますっ☆)
こんばんわっ☆
今日はふとした拍子に精神的に参った感じになりました。(汗)
とりたたて何かのトラブルが発生したわけでもなく、大きな失敗があったわけでもなく、いつものことですが、単に生きる意味について考えてしまった、ということです。

精神が不安定ということが、昨今においてはよく言われますが、そのスイッチとはまさに人それぞれだと思うのです。

ある人では仕事に関すること、ある人は対人関係、ある人は家族、金銭・・、などなど・・、とにかく精神衛生を複雑にする要素に事欠かない現代であります・・。

そういう私はどうかと言うと、上記のような自分以外の周辺事情によるスイッチは一切ないのですが、自分との戦いと言いますか、勝手に自暴自棄に陥ることは多々あります・・。

なぜ生きているのか?、なぜ考えるのか?、なぜ頑張るのか?、なぜ?なぜ?の繰り返し、私の人生とは、その問答が人生そのもの、とも言えそうです。

哲学者や思想家と言われる歴史上の偉人の方々も、こういった漠然とした究極の疑問と戦って、それぞれにおいて、相応の答えを追い求めてきたのだと思います。

それが受け継がれるなり、改良されてきて、現在に至るわけですが、私が思うに「いかに嘘をつくか?」ということが、かなり重要になる気がするのです。

といいますのも、嘘にも色々な性質があると思うのです。

他人を欺く、という性質のものが、広義においても狭義においても、嘘の代名詞ですが、嘘というのはまさに方便というか、使いようだと思うのです。

私の信条で勝手な解釈ではありますが、「自分に嘘はつけない」、ということはあると思うのです。

口から都合の良いことを言って、その場を取りつくろうことができようかと思いますが、結局その嘘の過程を知っている張本人となっていれば、最後はその修正に奔走してしまうと思うのです。

ですから、自分に嘘をついても最後は嘘にならない、という方程式で、結局自分に嘘はつけない、となるわけですが、ここで私が今日囚われた感情、つまり、「なぜ?」の連鎖ですが、そうゆう場合においては、嘘をつかなければ成り立たないことってあると思うのです。

かなり矛盾しているようで、通常では考えにくいことかと思いますが、存在証明、みたいなことを突き詰めていくと、やはりどこかで壁にぶちあたる段階があります。

そこに対する処方箋とは、他から享受されるものではなく、やはり自分で用意しなければならないものです。

なぜなら、他人は自分に対して嘘をつけるため、簡単に答えを用意することができるからです。

ですから、壁に対するアプローチは、「逃げ」、か、「乗り越える」、の2つの選択肢となり、逃げてはまた次の壁が現れて、乗り越えてもまた次の壁が立ちはだかる、というのが常です。

要は、逃げた先の壁なのか?、乗り越えた先の次の壁なのか?、ということです。

壁が立ちはだかる事実はさておいて、ではこの事実をどのように処理するのか?という命題が、もっとも重要なことだと思います。

なぜなら、それ以外に考える余地がないからです。

・・・こんなことを考えていると、プログ的にも一向に話が進行しないようですし、矛盾の指摘を覚悟の上で申し上げれば、やはり「嘘のつきかた」、というのが大事になるのだと思うのです。

精神が安定するかどうか?、と言う問題よりも、そうすることしか前に進むことができない、という消去法の性質の方が遥かに強いことは自明の理です。

ちょっと面倒な内容になっている感がありますので、整理いたしますと・・、

1、他人に答えを求めてもダメ、なぜなら簡単に答えが用意されてしまうから
2、自分に嘘はつけない、なぜなら嘘の過程と原理を知っているから
3、けれども嘘をつかなければ前に進むことはできない、なぜなら他に選択肢がないから

・・という具合になります。

なので、私が思うには、「苦労して得た嘘」というのが「唯一の答え」であって、「苦難や苦悩を乗り越えて出したもの」、それが「ついてもよい嘘」の真義だと思うのです。

「欺く」、という性質よりも、「納得させる」、「説き伏せる」、みたいなことですが、とにかく嘘という領域を出てはいません。

なぜなら、真の答えの証明など、誰にも出来ないからです。

そうでなければ、全ては嘘の範疇、ということです。

なので、「あくまでも嘘」となってしまうだけであって、捉え方によっては、99.9%答えに近い事実、という矛盾した表現にもなり得ると思います。

ついてもよい嘘・・、よく言われるのが、「人を幸せにできる取り計らい」、ということですが、これについて真意はそうではなく、要は、それは自分に対する慰めということだと思うのです。

人間には、人の幸せを見るのが自分の幸せだと感じる能力が備わっているので、人の幸福、種の繁栄、そうゆうものを望む、という力とバイアスが掛かっている、端的に言えばそうゆうことなのでしょう。

ですから、俗に言う「ついてもよい嘘」とは「慰め」だと思うのです。

そして今回の私のテーマですが、「自分についてもよい嘘」、というのがまさに真意です。

その真意とは、事態を前進させる理由、つまり「生きる意味」ということです。

得てして、この答えにたどり着けない段階においては、覚悟や決心、というのには程遠いと思うのです。

なぜなら、私は現代人は皆哲学者であると考え、間違いなく、大変に頭が良いからです。

我が国においては、これだけ豊かな時代であるわけですから、考える時間に事欠くことなく、いつでも妄想や考察、思索にふけることができる、ということです。

私もそんな一員ですが、歴史的にみても、そんな余裕があった時代や地域など存在しなかったように思います。

症候群とするならば、先進国病みたいなことでもありますが、これだけ情報化が進めば、それも必然と言えるでしょう。

・・↑ちょっと偉そうになってしまいましたが、話をいい加減にまとめて参りますと、「自分に意味を与えるもの」、その「理由」と「答え」、それにアプローチできるものならば、嘘でも見栄でもなんでもよいのですが、「ついてもよい嘘」ということで考えるならば、それが唯一にして最大の答えとなりそうに思うのですね。

自分に嘘をついてまで生きたくない、あるいは、嘘をつくくらいなら死んだほうがまし、と考えるなら、何が嘘で何が真実か?、信じることと疑うことの差とは何か?、こうゆうことから始めなければ、結局なにも生み出さない、ということが、本来の姿なのですよね。

決してこれだけに留まることではありませんが、考えれば考えるだけ人間とは罪深い生き物だと感じます・・。

・・・とまあ、今回はかなり愚痴っぽくなってしまいましたが、一ヶ月に一日くらいの間隔で、このようなネガティブな日もあるんですよね〜・・(汗)。

「ついてもよい嘘」について、何か考えがありましたが投稿してみてくださいっ☆
今回の記事の性質上、気持ちが明るくなるようなコメントがあれば幸いに思いますっ☆(笑)
こんばんわっ☆
今回はちょっと頭のよくなるお話の紹介ですっ☆

といっても、それほど対したことではありませんが、私の好きなコトワザからのラインナップですっ☆(笑)

「漁夫の利」、この言葉を知っていると思いますが、このストーリーについて知っている人はちょっと少ないのでは?と思うのですねっ☆

〈ストーリー〉
どうやら中国の話らしいですが、浜辺で貝が日向ぼっこをしていて貝殻を開けて油断していると、くちばしの鋭い鳥が舞い降りて、その貝の身を食べようとつつく。
その攻撃を受けた貝があわてて貝殻の蓋を閉じると、貝殻に鳥のくちばしが挟まってしまう。
鳥はくちばしを抜こうとするが、貝の貝殻を閉じる力も強く、なかなか抜けない・・。
そのやりとりを漁夫が距離をとって見ており、事態が動かないことを良いことに、鳥も貝も両方得てしまう。
という物語です。

このストーリーを聞いて、「横取り」という言葉が浮かんできそうですが、私が思うに「状況を把握すること」と、「利」は、「常にリンクしている」、ということだと思うのです。

なぜ「利」や「得」が及ぶのか?、それは結末に対するアプローチが正常だった、あるいは優れていた、ということだと思うのです。

要するに、漠然と物事を遂行していただけでは、「浪費」と言うほかに言い様がなく、「状況を的確に把握している」という事実が、良き結末を起こす最善の方策だと考えられる、ということです。

このストーリーの鳥にしてみれば、通常の人間に対するアプローチは、近寄ってきたら空を飛んで逃げる、ですが、この度の結末は、貝に夢中になってしまい、油断や隙が生まれてしまった、ということです。

貝にしてみたら、日向ぼっこに夢中になってしまい、鳥に隙を与えてしまった、ということです。

ではこの漁夫(人間)にしてみたらどうでしょうか・・??

漁夫と昔の中国という設定ですのでなんとも言えませんが、現在の価値で考えるとすれば、漁夫というのは一労働者や第一次産業ということですから、意義のある生計手段ではありますが、合理的な手段とは言えない、ということで、鳥と貝の捕獲に夢中になってしまい、勉学や自己開発に無頓着になってしまっている、みたいにも考えられるわけです。

ですから、「利」ということにもっと拘って、その本質を考えた時には、とことんまでその言葉の意味を把握すればよいと思うのです。

なので、現在の価値で考えれば、MLBのエージェントの利、みたいなことが、最も効果の高い「利」ではないでしょうか??(笑)

なぜ私がこのコトワザが好きなのか、と言えば、やはり漁夫というワードから、そのストーリーのとんちが効いているからだと思います。

漁夫というキーワードだけで、詳しい事情背景がいくつかのパターンにわけて想像できますし、そのやりとりの奥ゆかしさ、みたいなのも感じることができるからでしょうねっ☆

それと共に、やはり人間は「利」という言葉とその意味には敏感に反応すると思うのです。

性というか本能というか、とかく「お金」、というだけではないですが、やはり自分に対するメリットがあるのかないのか、その判断の白黒だけで、何事も行動というか、前提が決まってくる気がするのです。

対人関係についても然り、時間の使い方についても同様です。

なので、この判断は利か損か、次の行動はどうすれが最良か、など、常に反射的にそのように考えているものだと思います。

邪念や煩悩、と言われればそのとおりだと思いますが、やはりこの漁夫のように、いつどきでも自分の行動の最大公約数を求めるのが人間という生き物ではないでしょうか??(笑)

何度か紹介させていただいていますが、やはり人間とは罪深い生き物です。

他の犠牲によって己が成り立つ仕組み、というのが分かっていながらの生産行動なわけですから、自然の循環も、大くくりで考えれば、いつかはしっぺ返しが来るのでしょうね〜っ☆

そんな未来を予想した映画が「アルマゲドン」やら「ディープインパクト」だったわけで、隕石かどうかは分かりませんが、とにかく人類はあらゆる非常事態に接して生きていることには違いがないわけですから、漁夫だの貝だの言う前に、覚悟を決めて何のために生きるのか?という命題をクリアーにしたいところですよねっ☆(笑)

漁夫の利、みなさんはどのような考えがありますか〜??
もし他に好きなコトワザみたいのがあったら紹介してくださいねっ☆(コメント、お待ちしておりますっ)

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