思想家 清水竜志のブログっ☆

今までありがとうございましたっ☆m(__)mまたどこかで会いましょうっ☆ヽ(^o^)丿

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こんにちわっ☆
今日は自己開発・自己啓発のちょっと進んだお話ですっ☆

「どうすれば自分は成功や幸せになれるか?」、みたいに悩みを抱えている人向けの記事、ということにさせてくださいっ☆

よく言われる「才能」という言葉ですが、言う人によって、それを意図とすることに違いがあるように思います。

ある人は「努力できる力」、また違う人は「継続できる力」、と言います。

「天才とは1%のひらめきと99%の努力である」というトーマス・エジソンの言葉はあまりに有名ですが、天才=才能がある人、というフレームで考えると、やはり才能とは努力や継続できる力ということでよいかと思うのです。

しかし、私が思うには、それすらも曖昧な表現やスタンスではなかろうか?という疑問が残ります。

どうゆうことかと申しますと、「才能がある」、「優れている」、という事実に到達するまでには、相応の「求め」や「望み」があったはずなのです。

「自分はこう考えるからこうなりたい」、「あれがあそこまでなっているのだから、自分はさらに上までいけるだろう」みたいな、欲求、つまり「求め」や「望み」です。

そして、その「求め」や「望み」には、根拠となる「思い」なり、「勘違い」なり、があったはずなのです。

そうでなければ、その人物は本当の「奇人・変人」の部類の人、ということになります。

なぜなら、どれほど優れた素質を持っていても、それが正当な形で世に表現・流通されないのなら、それは単なる偶像・妄想に過ぎないからです。

私が思うには、「優れた素質」実はこの部分だけですでに「才能」や「天才」、というものだと思うのです。

けれども、物事は相対的・対外的であるがゆえに、そうゆう「才」が埋没することが少なくありません。

生涯を終えてから評価が上がったゴッホの作品なども、その一例でしょう・・。

ですから、このことをわかり易く考えた際には、要は「結果次第」ということなのでしょうね。

たとえば、小渕元首相が現職の途上で亡くなってしまったことを思い出していただければと思いますが、氏が仕事をする際には、まさにバッシングの嵐という具合だったのですが、いざ亡くなってしまうと、畏敬の念というか、忍びなさを垣間見せる世論がありましたが、あのことは、まさに「結果次第」ということを表しているのだと思うのです。

自分に都合の悪いことには目を吊り上げて、ひとたび物事が展開した際には、態度を一変させる・・、人間や社会とは、実に不可思議なものであり、極めて「適当かつ勝手なもので信用ならない」、ということです。

ですから、「継続や努力というものが是」とされる趨勢が築き上げられ、「年功序列」、「古きは良かれ」、というような、「美徳」や「侘び寂び」とは違った意味での「古さの認識」が為されるのです。

「古さ」とは、すなわち「継続していること」で養われる甲斐というようなことですが、「徳」ということで言えば、あながち間違ってはおりませんが、それが誤った形で推移・具現化したときには、往々にして「途切れたほうがよっぽど徳となる」ということがあります。

嫌な言い方ですが、「ひとつのことを続けるだけしか能がない」、「これしかできないからしょうがない」ということには、ある種の「諦め」や「怠け」すら感じる言い回しや感覚のようにも思います。

何も、新しいことに矢継ぎ早に手を出せ、と言っているわけではなく、ある程度は習熟の度合いというものがあるものですから、それはそれで結構なのですが、物事が硬化したり、一定の傾きに囚われたりするのでは、いつまでたっても「ラチがあかない」・「キリがない」というようなこともあろうかと思うのです。

ですから、才能や天才というのは、継続や努力もそうですが、まず初めに「気付くこと」、これが最も大事なのだと思います。

「自分にはこの才がある」、という、一種の「催眠」や「自己暗示」みたいなことにもなりますが、奇人・変人の類でない、という前提を用いて表すのなら、「結果次第」ということになろうかと思うのです。

わかり易く言えば、結果がある程度ついてくれば、「あぁ、自分はこれで大丈夫なんだな」、みたいな「まだ曖昧な確信」みたいなことで、その瞬間に「これは才能なんだ」と気付く、という具合です。

ですから、継続や努力が才、という元来からの表現もさることながら、もし継続や努力が実らないゴッホのようなことになるのなら、それはそれで不幸なことですので、やはり結果次第で「才能かそうではないか」ということが解明されるのではないか?と思うのです。

それは結果がついてきた人からすれば、「努力や継続が才能です!」という風になろうかと思うのですよね。

凡人の私にとっては「それは結果次第でしょ!」、みたいにつっこみを入れなくなるんですよっ☆

ですから、単に努力や継続だけではなく、自分の能力と立場、境遇やら環境やらを考慮・熟慮して上で、どこまでリスクや責任がとれるのか、どこまでなら許せるか許容の範囲か、という問答の中での成功体験を探すわけですから、先ほど少し世論の批判をさせていただきましたが、「要は結果次第」、ただそれだけですからね。

もし継続や努力という位置から表現すれば、「失敗を恐れずにチャレンジし続けることができたかどうか?」ということまで言ってほしいと思うのですねっ☆

継続や努力が、「いわゆるそういう意味です」、という雰囲気・空気になっていれば良いのですが、言葉や表現とは、本当に信用ならないものですから、「才能なんてあってないようなもの」、その「開き直り」こそが、覚悟や決心、という気概に醸成されるのではないか?と思えて仕方がない、という具合のことが、今回の記事で最も言いたかったことの一つなのですっ☆

最後に念を押して申し上げますが、「才能なんて結果が出てみなきゃわからないですよ!」、単に努力、継続だけでなんとかなるほど、世の中甘いもんじゃないですよっ☆

「いかにして」「どのように」、という柔軟な問答をどれだけ繰り返したか?、ただそれだけではないでしょうかねっ☆

唐突ですが、マラソンの高橋尚子選手はシドニーオリンピックのスタート前にこのように思ったそうです・・、「今までどれだけ走ってきたことか・・、残すはたった42km」、これは人智を超えた偉業だったと思います。
金メダルを取ったことではなく、「そう思えたことが」です。

それで、もしレースを途上で止めていたりトラブルで棄権したりしていたら、世論はバッシングの雨あらしのことでしょう。

そして「偉業」ということには絶対にならないのです!!

ですから、継続するだけ、努力するだけ、ということでは、絶対に何にもならないので、みなさん、もしも才能を開花させようと思うのなら、「努力や継続は当たり前」、それすらできないようなら諦めたほうがよいのです。

その上での、開発・気付き、そのためには、やはり世の中に自分の表現を認めてもらえるだけの結果を出さないとだめなのです!!

結果を出すというのは、「単に出す」という一方通行ではなく、双方向でのこと、つまり「伝わるように出す」、ということです。

どんなに良い材料でも、どんなに良い環境でも、それが有用的でなければ、まったくの無形価値であり、意味がないのですっ!!

「継続」や「努力」という言葉だけに惑わされずに、「その意図とすることは何か?」、本当の才能とは、そうゆう打算ありき、自己愛の妙からの発展ではなかろうか?と思い、今日の記事を終了したいと思いますっ☆

世の中、事実として捨てたものではありませんが、不器用に生きると後でとんでもないことになる、というのだけは本当のところなのでしょうね・・・っ☆(笑)

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