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こんばんわっ☆
不意に、人生には何が重要なのか?と考えたときに、最も不偏的な言葉が「大義」という言葉ではないでしょうかっ?? 「義」とは、上杉謙信が用いた信念として広く知られている識ですが、それが大きな事、つまり、義の中の義、や、最高の義、究極の義、というようなことですが、このことを現代風に優しく考えたときに、命や生涯を掛けても良いと思う先に対する意識、それが、今で言うところの義となろうかと思うのです。 本来の義の意味とは、人として為すべき道や規範、というようなことですが、現代において、個人主義や競争社会なわけですから、「人として」という表現一つ取ってみても、甚だ、疑わしく思えるほどのものではないか?と思え、また、「義」なんてことで物事が上手く収まるのなら、社会における警察や法律(規制)なんてものは必要なく、よく言われる、「個性と調和の差異」についてもそうですが、つまりは、何事においても豊かであるが故に、飽和・停滞していることが多く、「一つの真理の追求が難しくなっている時代」、と言えると思うのです。 「高貴な人は歴史から学ぶ」と言いますが、私が思うには、やはり過去は過去であって、これからの文明について問いたときには、最も重要なことは、「未来から学ぶこと」だと思うのです。 「未来から・・」、という表現には、もちろん矛盾が生じてしまいますが、「創造」と「想像」が出来るのが人間という生き物であり、歴史も実はそのように読み取れる、そこからの、「ただ今がある」、ということだと思うのです。 そうしたときには、やはり「義」ということに意図が集約されていると考えられ、「義」について往々にして釈然としない時期でもありますが、単に「個」としての自分を見たときには、やはり「自分なりの大義」があるのか無いのか?ということでも、一切に結構だと思うのです。 これに対し、「正義」という言葉がありますが、私が思うには、正しさとは、詐欺と表裏一体・紙一重だと思うのです。 力→数→金、と言っていた有名な政治家の言葉ありますが、正義とは金か?と言われた時代があった過去が歴史であるとすると、この表現については一定の説得力がありそうだ、と、私が考えるのです。 経済や文明とは、人・モノ・金ですが、人・モノ、だけでは、やはり第一次的な普及や進歩で終わってしまいますが、金、つまり経済の論理があればこその、現代のスピード感でありますから、現実主義者の方からすれば、「それはそれで正義なのだ」、と、この今の時期、西暦2000年前後における昨今では、まだまだ過渡の状態であるのも、致し方がないのだな〜・・っと、感慨を深めることにもなるわけです。 お金儲けが悪、と言っているのではなく、際限が見えることに価値が見出せる人とそうでない人に大別されるのが、この問題も最も面白いところでありますが、競争すること自体で喜ぶ人がいれば、また、勝つことしか喜びが見出せない人もあるわけで、そうしたことに正義を思うのなら、私事・主観ではありますが、やはりどこか邪な様相が否めないと思うのです。 ただ、生物学・自然科学的に言えば、生態系や環境とは、そういった、食う食われるの関係の成り立っておりますので、超真理的解釈をすれば、淘汰こそが正義なのかもしれませんので、このことについては、まだ考える余地がありそうですっ。(汗) 今回言いたいことは、正義ではなく、「大義」ということで、「大きな」義とは、「正しい」義よりも、どこか調和的であり、哲学的には、これからも発展の余地がある、含蓄のある言葉の急先鋒ではないのか?と思い、今に至るわけなのです。 集団としての大義とすると、それは正義と、よもや同義だと思うのですが、「個としての」大義とすると、それも正義か?と問われると、「自分は正しいか?そうではないのか?」を問うのが人生であるのなら、個としての大義は正義と大別されて然るべきではないのか?と思い、そして、「何らかの義」を持つのが人間とするのなら、自分で言えるような大きな事で、それが人の道としての歩みの延長である象徴としての言葉が「義」とすると、それが「大きな」もの、つまり「大義」であれば、それはすでに「悟りの域」に達しているのではなかろうか?と思い、後半はこのように、やや難しくなってしまいましたが、要は、「正義と大義の違い」と、「皆さんに義の認識はありますか?」ということ、そして、「大義こそが悟りではないのか?」と思い、今回はひとまず終了ですっ☆ 何とも不可解な記事になりましたが、これは「何のために生きるのか?」に、かなり強いアプローチができる内容ですので、よかったらコメントしてみてくださいねっ☆(笑) |
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