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こんにちわっ☆ |
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こんばんわっ☆
「思い出せない事」をふと思い出せると、なぜ凄く嬉しいのか・・?、を、何となく考える・・、夜になっても雨が止まない埼玉平野で過ごす私でありますが、・・それは、やはり「人間は刺激を求める生き物である」ということで、「思い出したい事」というのは、前提として、それは「自分にとっては重要な記憶」であるわけですから、その「人生のアドバンテージ」を取り戻したいっ!、という欲求と、「思い出したくても思い出せない・・」という、抑圧されていた気持ちの開放から来る、いわゆる「達成感」というものですが、思うにそれは、自分の境地が広がることで、その事により、多くの刺激を得る機会が増える確認や自負・・、みたいな事が、その喜びの概要だと思うのですっ☆ 以前に観た映画(DVDで)なのですが、映画「主人公は僕だった」のワンシーンのフレーズなのですが、主人公がダスティン・ホフマン演じる、言語学の教授に刺激物として見初められるキーとなるフレーズがあったのですが、それが思い出せずに、先程まで苦悩していた私ですが、グーグルで検索しても検索しても・・、一向にその目的に全く辿りつかなかったのですが、ふと普通に映画の触れ込みを読んでみたら、「そのまんま紹介されていた・・汗」というオチでして、それでも自分で見出したわけでもないのに、凄く嬉しい気持ちになったので、ちょっと書かせていただいたわけなのですっ☆(汗) ちなみに「知る由も無かった・・」という文言でありましたっ☆(笑)、めでたしめでたし・・っ☆☆☆ さて、そんな折に今日のテーマの案内ですが、「やりたいことが分からない」っ☆、ということが言われている昨今の我が国の事情でありますっ☆(その対処法というか哲学というか思索というか・・、なんでしょう・・笑) ・・何故、今の日本はそんなことになっているのか?と、私なりに考えますと、現代人は何かと生物として満たされ過ぎているので、とかく、頑張って生きずとも、何でもかんでも不便なく生活が出来るために、人生にわざわざ哲学や信念などを用いなくとも、「なら〜・・っ」と生きられるわけですから、往々にして、その惰性で結構やって行けちゃっているものですから、アリとキリギリス理論で、本当に人生追い詰められた時に、何をどうして良いものか?分からなくなっている病?なわけなのですっ☆(汗) そして、これは「若者の男子」に特に多い病なわけでして、なぜかと言いますと、少なからず女性は、男を惹きつけるために、とかく、若い内(15歳〜25歳くらい?)に、自分の性的なピークが来ることを本能的に悟っておりますので、そうした時には、「若い頃こそっ☆」と覚悟を決めて、おしゃれなり流行なりで、あまねく女の子はこぞって自分磨きに力を入れるわけで、そうした女の子という生き物は、哲学や思想よりも本能的に性的な信念が移入しているわけですから、人生の道にそれほど迷うこともなく、真っ直ぐ円ら(つぶら)に生きられているわけなので、性差の消去法で、現在の日本では、やはり「男子がやりたいことが分からない病」なわけなのですっ☆(汗) もちろん、例外的に、特定の女性がその病魔に冒されている場合もありますが、全体としては、男子が主たる罹患者と言えるわけでして、では何故、男子はそうしたことになるのか?と考えれば、男子は先天的に、家人を自己にて形成しなくてはならない性質があるために、俗に言う「甲斐性」という奴ですが、現在の人間社会(特に日本)は、自分が置かれた環境が特に危機迫る?でもないわけで、しかも、取り立てて生活に困るわけでもなく、ぬくぬく育てられた甲斐性がない男子にとっては、女の子のように本能や信念に頼るべくも無く、そのまま人生が惰性でやれてしまえば、しかも男は性的なピークが女性よりも長いわけで、「若い時期」という条件で言えば、「そんなに急がなくてもいいべっ☆」的な、なんともダラシのない輩が増える傾向が否めないわけなのです・・。(汗) しかも、世の中の変化のスピードは年々加速して、競争原理の下、自己実現が厳しくなっておりますゆえに、よっぽど根性なり気概なりが据わっていない限り、「人生に勝負を賭けて自分探しをするっ☆」なんて無謀な事にもなりそうも無いわけで、勝ち負けといえば、これでは自然と「負け組」が増加しても、何らの不思議もないかなぁ〜っと、思想家的にも思えるわけなのですっ☆(笑) ・・そんな折に、「やりたいことっ☆」というキーワードで、この病的な?トレンドを考えてみた際には、やはり、大まかな時代の趨勢を勝手に変える由も無いわけですから、それが「分からない」となれば、その先には、(私の得意なっ笑)どうしても「哲学」というものが必要になったりするはずなのですっ☆(笑) 冒頭でお伝えしたとおり、やはり人間は「刺激を求める生き物」なわけでして、例えば、「生まれたばっかりの人間」を、「鳥カゴの鳥」の如く生育したとすると、おそらく言語も思考も運動も想像も出来ない、唯一、喜怒哀楽の感情くらいは芽生えるはずですが、永遠に、同じ風景、同じ栄養、同じ居住環境であったとすると、まさに「動く植物人間」と化すわけですっ。(汗) ちょっと話はそれますが、ですから「文明」や「社会」とは、元々そうした植物的な生き物である人間が、より多くの刺激を求めるために発展させたシステムとも言えるのですっ☆ そして、ある程度の歴史の経過を経て、現在の刺激あふれる近代の文明社会に進歩したわけですが、「ある特定のカテゴリーの人」にとっては、それが極めて生きづらい環境となるわけで、その特定のカテゴリーの人とは、ズバリ「やりたいことが分からない男」ですっ☆(汗) 無論、女性と同じように、本能的には男も家庭を持って子孫を残すべく、自分が存在していることは承知しておりますが、そうではあっても、前提というか制約というか、とにかく現実的には、甲斐性を持たなくては、そうした営みにも派生しないわけですから、あまねく男は、より自分にとって刺激的な甲斐性を持つべく努めるわけですが、往々にして、同じようなことを考えるのも人間という生き物の習性でもありますから、相対的に人気の生計手段には、競合他者も多いわけで、惰性的に、あの手この手で色んな工夫もしようかと思いますが、そうであっても、その競合にはコストも醜い執着も必要なわけで、その代償に辟易した者は、いつしか全体からはぶられてしまうわけでして、その顛末は、往々にして流刑地とも言える居場所となるわけです。(汗) ・・まぁ、こんなのは有り難い哲学でもなんでもなく、明らかに退屈な現実ですから、よく考えると記事にもならない事ですが、では、どうすれば「やりたいことが分かるようになるのか?」ということですが、まず第一に重要なのが「一度、自分の限界を試してみるっ☆」、ということですっ☆ 人間、暫定的に動物でもありますから、誰しも「労力対効果」を差し引きで考えて、モノグサな部分が煩悩として存在しますから、思いの外簡単に、自分の限界値を定めてしまっている節があるのですっ☆ ・・もしそうだとしたら(大抵そうですが)、例えば、潜在的には100のパワーがあったとしても、限界値を勝手に60くらいに設定してしまっては、「80出せばよかったのに・・」、みたいなことになろうかと思うのですっ。(汗) ですので、「100の100っ!!」くらいに、いつもそのくらいの気合があれば、人間はいつでも素晴らしい生き物なのですが、一般的には「60出ればマシだろう・・」みたいな、「怠け癖」が存在するのも常識なわけでして、そんな常識もさることながら、人生にたった一度だけでも、「1000の1000っ!!」みたいな、スーパーサイヤ人3的な経験をすれば、「自分という生き物の裁量の幅」が分かるわけでして、それを元にして哲学的に考えれば、自分のやりたいこと→出来ること・・?、みたいに考える材料になると思うのですっ☆ そして、その幅が判明してからも、とかく、「全体のルール」というものの制約は絶対的でありますから、ある程度、すでに用意されている既存のレール上で勝負しなければならないわけで、数多ある既存のレールの中から、自分の「やりたいっぽい事」、「出来そうっぽい事」を選んで、また「1000の1000っ!!」を出すべく環境づくりをする・・、ということだと思うのですっ☆ そうして考えると、「自分の限界を知る」が①で、「やりたいっぽいレールに乗る」が②で、「やりたいっぽいレールで勝負するっ!」が③で、もしも、このプロセスで満足できれば問題ないのですが、やはり人間そんなに単純でないので、さらに④、⑤、と続きがあるわけで、私が思うには、④は「自分でレールを作って1〜10までやりたいっ☆」という気概の発生と、⑤は、「1〜10までやって、誰よりも優れていたいっ☆」、みたいなことだと思うのですっ☆ それにしたって、本当の本当にユリカゴから墓場まで、モノグサで一気通貫している人がいたら、よもや脱帽ものですが、人間どこかに気概や野心の欠片ほどくらいはあると思うので、もし「やりたいことが分からない男」でも、選択する環境さえ間違えなければ、なんとかなるだろうっ☆的に、私は考えてはいるのですが、「事実は小説より・・」と言いますので、ここから先の時代は、奇想天外・摩訶不思議にて、どんなヘンテコ人間が現れても全くおかしくないわけですから、とりあえず一般論としては、「自分で限界値を勝手に定めずに、脇目も振らずに試してみるっ☆」、ということからだと思うのですっ☆(あんまり哲学的でないですね・・、根性論かもしれません・・笑) 今思えば、小学校の体育の授業で「持久走」という題目がありましたが、あれは人生の全てを物語る尺度であったなぁ〜っと思うわけなのです・・。(汗) トンビは蛙には成らないので、やはり持久走をサボった人は人生をサボる人でありましょうし、持久走を才能でやり切った人は、才能に頼った人生設計を営むでしょうし、努力で順位を上げた人は、努力の人生を歩むと思うのですっ☆(笑) そして、私はどうゆう持久走をしたかと言いますと、「絶対に負けたくない奴にだけには絶対勝つっ☆」、という気概で取り組んだことを思い出しましたっ☆(笑) そして、その対象は、第一に「自分と実力が似かよった者」であって、第二に「持久走の外にも様々な事で負けたくないような奴」・・、といった定義になるでしょうかっ☆(笑) そういえば、中学校の時までの私の好きな言葉は「勝利」でしたっ☆(笑)、久しぶりに懐かしい事を思い出しましたねっ☆、最近の私の辞書に「哀愁」という言葉が見当たらなかったので、ちょっとビックリですっ☆(笑) 最後にサクッとまとめますと、「やりたいことが分かるまでは、人生のペースを落としてはならないっ☆」って事ですよねっ☆、なぜなら、人間(特に男子)は歳を取ると、我執というやつでしょうか、とにかく頑固にモノグサになるものですから、「若い内の苦労は買ってでも・・」というのは、本当だと思います・・。なぜなら、60を過ぎた老年の男性に持久走を強いるなど、正気の沙汰ではありませんからね・・。(笑)、人生手遅れになる前に、苦労は経験しておきたいものですっ☆ |
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こんにちわっ☆
今日はあいにくの雨模様の埼玉平野ですっ☆(汗) なぜ、雨が降ると気分が優れないのか・・??、やはり、人間は感情の生き物であり、周囲や環境の些細な変化によって、時々のモチベーションも一喜一憂する、ということが言えるわけでして、そんなことを考える私も、人間を考える人間である・・、みたいな、パラドックスや矛盾とも違う、ある種、逃げの概念ですが、感情もモチベーションも思索も、全ては自然の摂理なのである、みたいなことになろうかと思うわけなのですっ☆、(血糖値が下がるとお腹が減る・・、みたいなっ☆) そんな折に、現在の西暦2009年に生きる我々人類ですが、自然界にあって、それでも通常発想する単位は、当然ながら、人間当たりの感覚で生きている我々なわけで・・、そして、それが社会というものである事実・真実は否めないわけですが、そんなこんなで今思う事は、何より「法」というものの存在でありますっ☆ ・・ふと、宇宙や自然を説いた時に、やはり科学は日進月歩でして、得てしてそれは、次なるフロンティアを随時明らかにしている節があるわけですが、それでも人間を取り巻いている絶対的な法則が然るべく存在するわけで、それなのに、後付けの論理で、わざわざ人間の単位で考えると、「摂理」という言葉で一刀両断してしまうわけですが、これは人間という生き物が、正当性や納得ということを追求する習慣があるということでもあって、闇や不安からは、負しか生まれないということでもありましょうが、死んでしまったらどうなるのか?、神様と天国があるから大丈夫っ☆的な、極めてルーズな物事の処理でも、そうでしかない・・、みたいな言い切りであれば、物事の云々を抜きにして、それが絶対となるわけで、そして歴史は科学でことごとく覆されて来たわけですが、そうであっても、現状は現状にしか過ぎず、何は無くとも、今に生きる我々は、今の連続の福利を享受する必要もあろうかと思うわけで、そうしたときに、社会というもので個と全体ということを考えると、やはり法というものが必要になる・・、というのは言うまでもないわけですっ。 ・・そして、現在の日本を考えてみた時に、これだけ文明化が進んで生活が便利で豊かになったわけですが、それと平行して、個人は矢継ぎ早にワガママになるわけで、出来るだけ楽をして、出来るだけ自己実現をしたい・・、みたいな邪念というか煩悩というか、そうした人間の薄汚い部分が露呈している、昨今の問題社会でありますが、そうは言っても、ルールというものは、あくまでも絶対でなければならないと思うのですっ。 なぜなら、そのルールが無ければ、そこに1億の人間があれば、1億通りの考え方が発生するわけですから、何かの物事を処理しようとした際にも、1億通りの小さな力でサクッと遂行しても、それはそれで微々たるものなわけですから、やはり全体として磐石の結果を望むなら、協調や妥協の末、あくまでも大きな力を用いるべきだと、私は考えるわけで、現実もそのように為されていると思うのですっ☆ 例えば、税金の使われ方が常に問題になっておりますが、そうはいっても、もし税金というシステムが無ければ、国家は簡単に崩壊するわけで、端的に「税金=悪」という発想は極めて稚拙なわけでして、当然、悪徳の役人がいる事実は断固として取り締まるべきですが、現在の社会の情勢を鑑みた際には、私は概ね健全な税金の運営が為されていると考えるわけでして、その税金とは何か?ということは、今回の本題であります「法」というものが定めているわけでありますっ。 ・・ですから、法はあくまでも絶対なのでありまして、もしそれを軽視するのならば、その者は、私は法治国家に生活する資格が無いと思うわけでして、現在の法が全知全能であるか?と言えば、そんなことは無いと思いますが、そうは言っても、これだけ大きな事業を処理している国家の運営に至っては、それはどこかに弊害や歪みが出てもおかしくないわけで、「ではどうすればよいのか?」となれば、自分の信念の名の下に、対峙する勢力と戦うしかないっ!というのは、筋の通った理屈になると思うわけなのですっ☆ まぁ、早い話が、愚痴をこぼす前に、「やることをやって戦いましょうっ☆」、ということですよねっ☆ 個がその場において、綺麗事や理想論を愚痴として述べるのは簡単ですが、私は、そうゆう人ほど、やることをやっていない、戦っていない、というトレンドがあると思うのですっ☆ ・・なぜなら、その逆の、やることをやって戦っている人は、愚痴をこぼしている暇などないからですっ☆、そんなことよりも、自分の信念の貫徹のために全身全霊を捧げる、という生活を送っているはずなのですっ☆ そして、そんな人にだって法という壁があるわけですから、やることやらず戦わない人は、もっと大きな壁が存在するはずなのですっ。(汗) 弱者と強者の論、みたいなことかと思いますが、これからの社会の趨勢としては、一人に一つの権利ではなく、「一人前」に一つの権利・・、という、士農工商みたいな・・、大袈裟に言えば、身分制度の時代に逆行する可能性すらあると思います・・。(建前はそんなことはありませんが、実態として・・) ですから、人間は常に戦わなければならないのですっ☆、そして、何と戦うのか?という問題ですが、それは諸行無常において、常に変化致します・・。(汗) なぜなら、それが摂理というものであり、ルールでもあって、人間の単位で言えば、「法」というものだからですっ☆ |
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こんばんわっ☆
昨日は5月3日、「憲法記念日」という国民の祝日だったらしく、それに伴ったテレビ番組の特番が組まれておりまして、昨今の貧困ブームや格差や福祉の問題意識の勃興から、各機構のマスメディアも、その話題で数字を取ろうとしているトレンドがあったりしているわけでして、ややもすると、非営利団体であるNPO法人の代表が、うやうやしく、さも公人のように振舞っているように感じるのは、次の時代の思想を思う、私だけでは無いように思うわけなのですっ。(汗) ・・ともすると、貧困や貧乏の問題というのは、昔から潜在的にそのニーズがあったわけですが、現在の状態にまで、その隆起が発生するというのは、「これからの目覚しいトレンドとなり得る事象に乏しい・・」といった、社会の隠れた事情のように感じるわけなのです・・。 例えば、都市部で大地震が起きて、家屋や各構造体が相応の規模において倒半壊した際には、建築業者やそれに付随した産業が、具体性のある仕事を社会的に着々と獲得するわけで、それとか、犯罪の頻度が増せば探偵事務所や便利屋のニーズだって増加しますし、何かの際に、ある程度の規模で人がバタバタと亡くなれば、お坊さんと檀家組織は繁忙になるわけでして、ややもすると、こうした需要と供給という概念は、その時々の目覚しいトレンドとなって、道徳や倫理など一切無視した成り立ちが、相互的・扶助的に発生するのが、社会のニーズというものなわけですっ。(インフルエンザ効果での、現在のマスク会社の株価とかもそうです・・汗) ・・そうした法則というか、大袈裟に言えば摂理にも似た現象と考えた際に、私が一思想家として思うことですが、このことを一言で言うと、「ダイナミズム」ということだと思うわけなのですっ☆ 「ダイナミズム」 → 力動説 = あらゆるものの存在とその生成を、いくつかの、または一つの力や作用から説明するような考え方や立場。※Yahoo!辞書・大辞泉参照っ☆ ・・といった意味ですが、例えば、現在の我が国の格差・貧困を考えてみると、やはり文明化・便利化してきた趨勢が、これまでの明らかなダイナミズムであったわけで・・、それは間違いなく、全体としても、地域としても、個としても、何らの問題も無い、相互の明快な了解の末に起きた理念であった・・、と言えるわけでして、当然そのツケというか反動のために、環境破壊やスクエア過ぎる組織社会とその人格形成などの弊害は伴いましたが、それにしたって、その理念の残存パワーは、まだまだ目覚しいものがあるわけですっ。 そして、その事と同時に、「憲法」という、国家なる共同体を形成する上で、何よりも尊重しなければならない全体としての規範が、戦後の日本の指導的な立場にある方々がお作りになったものがあるわけですが、そのルールの下で行政などとして、その力・権威で、具体的には省庁なり警察なりの行政パワーシステムが、法や論理、力や実働として、その尊重に勤めるわけですが、このことについて最も注意するべき点とは、私が思うには、諸行無常と摂理においては、「やはり、答えが無いのが答えである・・」という、世界が現在のような人間中心の社会のものであったとしても、あくまでこれは自然界のダイナミズムの中で機能する法規なのであって、人間の定めはそれを超越できないのである・・、ということだと思うのですっ☆ どうゆうことかと申しますと、ややもすると、テレビや近代的な設備などを、普段から通常に利用している文明人たる我々ですから、こうした事は、どうしたってアタリマエや普通の事となってしまうわけでして、そうした時に、便利や快適がアタリマエで、生存することもアタリマエ・・、安全な水が飲める、最悪の場合の医療行為は無料である・・、とか、そもそもの話ですが、今の日本人は、人間が作った法規上の文明人に急進的に変化し過ぎてしまっていて、生き物である人間として、少し感覚がずれて来ている感があると思うのです・・。 そして、現在の社会の問題にされている格差や貧困とは、社会の損失や共同体としての面子からすれば、通常は大変な問題であると言えましょうが、そうした際にちょっと考えてほしいのは、今の文明の域、産業がもたらすの恩恵というのが、日本人にとってはアタリマエなのか?ということです・・。 これは、ちょっと物事の視野の広い人なら簡潔な話ですが、そもそも、日本人としての国籍があるという事実は、早い話が「今の世界で最も健全な共同体の内で生活できる権利」ということなのです。 具体的な現状から換算すれば、日本の領土内においては大規模な紛争はまず起きませんし、テロも不安定な地域に比べれば皆無に等しいわけですし、清潔で安全水だって豊富にありますし、食べ物・着る物・住む所にだって困ることはないはずです・・。 ・・ですので、その事(本来は自然的な法規である人間社会)を忘れた人が、あまりに自己を、人間社会が考える常識や良識という、極めて相対的な物事として考えてしまい、「自分は人よりも劣っている・・」とか、「自分の人生はあの人より悲惨である・・」とか、あくまでも他人との比較でしか自分を見出せない人が多すぎるように思うのですっ。 確かに、大前提としては社会性が強い動物である、我々人間という種類の生き物ですが、それにしたって、専門性や個性が真に問われる世界へ変貌を遂げている昨今の世の中なわけですから、全てプラスαの発想で考えなければ、何事においても変化と無常が条理とされるわけで、分かりやすく言えば、本音と建前の両立か、基礎となる人格ともう一つ二つの人格を、適宜、可もなく不可もなく使い分けられるような素材でなければ、その発展と成立が必ずしも見込るわけではない・・、という事だと思うのです・・っ☆ 少し非人道的な考えかもしれませんが、やはり競争力や適応力の無い存在は虐げられて当然の圧が、自然の内にいつの間にか、ダイナミズムとして強く発生するわけでして、病気や障害、事故や災害なんかもそうですが、得てして、そんなものを人間が完全に管理する事など無理があるわけですが、我々の文明は正にそれをやろうとしていて、さらにそれを錯覚されるような目覚しい発展を遂げてしまっているが故に、現在の日本の様々な矛盾については、それはそれで致し方がないのだろう・・、とも思えるわけなのです・・。 例えば、最近は常識になって来ておりますが、相応に安くて良い製品を作ろうと思えば、良い製品を生み出すために命をすり減らすような労働が強いられるわけですが、さらにそれを安くしようと思えば、設備にはお金を掛けるのに、人件費には回らない・・、とか、労働者を道具として扱わなければならない絶対的な事情が発生する・・、みたいなことだと思うのですっ。 そして、憲法25条・・「生存権」ということが、番組で取り上げられておりましたが(私もそれに触発されたわけですが・・笑)、では「生きるとは何か?」ということから始めなければ、本来、何の議論にもならないわけで、成功した人生とか、幸せな人生とか、家族の在り方、健全な労働とは?、競争とは何か?、国家とは?、人間とは?、人類とは?、みたいなことを、真に精査しなければ、理想の権利の在り方なんて、まるで尺取虫(しゃくとりむし)のように、縮んでは伸び、また縮んでは・・、みたいな、ドードー巡りになってしまうのは明らかだと思うわけなのです。(まぁ、これまでの歴史を考えて、諸魚無常の摂理とはそうしたことを言うのですが・・。汗) そして、実際に生活保護の制度を受けたり、また別の福祉の制度を利用できたりすれば、それは、日本の社会の在り方が、諸外国と比べてどれだけ優れているのか?という有難みにも辿りつこうかと思いますが、現在の政治の問題とか、社会の問題とか言われておりますが、そうはいっても、日本の国家運営はそれなりに機能している方だ・・、と評価しても、何ら差し障りない現状だと思うのですっ☆ ・・長くなりそうなので、そろそろ記事を取りまとめようと思いますが、とにかく、人間が創造出来る「法」というものは、あくまでも、過去からの経験を踏まえた想像の最善が限界なわけでして、さらに日本の現状を考えれば、これだけ大きな規模の国家になったわけで、それを一つのルールで取り仕切るのは無理もあろうかとついでに思いまして、そんな折に、憲法という国家の共同体としての基本原則を考えてみると、どうしてもダイナミズムや自然の摂理の方が色が強く出てしまうのは当然である・・、といった感じに思ったわけなのですっ☆(笑) もっと簡潔に言えば、どんな内容のものであれ、ある程度ご飯が1日2食くらい食べられて、3日に一遍でもお風呂に入ることが出来て、他者と共同生活であれ雨風が凌げて、社会の情報と繋がる事が出来る・・、というだけでも、明治時代の庶民からすれば、随分に進歩的な暮らしぶりなわけなのです・・。それを、格差は悪だ、非正規労働者は貧困者だと、脅迫的に考えるのは、私は心が貧しいからに他ならないと考えるのであります・・。 ちょっと厳しい考え方ですが、自然界のダイナミズムにおいては人間の憲法など決して万全とは言えず、そもそも予算が足りないのに、そこまで十分に補償出来ません・・、というのは当然の論理でありまして、航海船の救命ボートに定員が決まっているのは、本船難破時にどうしても乗り切れない難破者が発生する・・、という教訓からのものなのです・・。 もし、この問題の対処法があるとすれば、自分が難破しないように留意するっ、という以外にないのだと思いますっ。(汗) まぁ、ちょっとセンシティブな話題ですが、早い話が、まだまだ人類の歴史と文明は途上中の途上なんですよっ☆(笑)ってことですよねっ☆ 日本の戦争が終わってそろそろ65年ってところですが、これまで世界と人類は、極めて良くやっているっ☆、と、もしも神様がいたらそのように褒めてくれると、私は勝手に考えていますけどね〜っ☆(笑) 憲法記念日の次の日に、日本の憲法と実情を人類のダイナミズムで考えてみる・・っ☆、皆さんは人類のダイナミズムを、どのように考えておりますか〜っ☆(笑) |
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こんばんわっ☆
GW真っ只中??みたいな時節ですが、(私はいつもの日常ですが・・)皆さんはどのようにお過ごしでしょうかっ☆ そんな折に、いつものようにNHKの番組を物色している私ですが、総合テレビ「課外授業ようこそ先輩」を観ていて、思想家なりに思った事を、ちょちょいと記事にしてみよーと思いますっ☆(笑) まずこの番組の志向の紹介ですが、現在の日本の各種エンターテイメントシーンで活躍されている著名な日本人の方が、自分の母校(高校より中学が多い??)に訪れて、在校生に授業を施す、という取り組みの番組ですっ☆ この番組の志向上の前提として、とかく、生徒が大人になった後の将来や、先生役の著名人の、リアルな人生体験談が授業の筋になるわけでして、その筋や番組の主たるテーマとしては、やはり「夢を叶える」ということが、その際のボトルネックになるはずなのですっ☆ なぜなら、「夢が叶えられる人生」こそが最高の人生なんですが、その実現は、現実的に大変に困難だからですっ☆ そして、この番組に出演されるような著名な方は、夢か目標か?、仕事か打算か?、あるいは単なる成り行きか・・?、内なる実(じつ)、人格の芯の様相は分かりませんが、とにかく相対的に著名な活動をされている方なわけでして、得てして一般の市民からすれば、「夢を叶えた人・・」という風に認識されているわけですが、私の経験からすれば、やはりそうした活動をされている方ほど、その反動というか代償が当然のように払われていて、その結果として、何とか辿りついた現在の地位ということなわけですっ☆ 当の著名人の方も、母校の後輩達や公衆の面前では、「何は無くとも、自己実現は出来ていますっ☆」という風に、毅然とした態度でエンターティナーを演じるわけですが、実際問題として、そのモチベーションやパフォーマンスを維持するために、日々の鍛錬や自己開発に生活をストイックに捧げていることは言うまでもありません・・。(汗) 個性や一つの人格として、それが生き甲斐だったり、退屈な人生よりマシ・・、という思いから、それぞれのジレンマはあるものの、魅力的な人間としても成功者としても、その存在を120%に振舞える気持ちにもなると思われますが、それにしたって、世の中の次の期待値を常に超えて行く作業というのは、いつの時代も非常にシビアな要求が為されるものです・・っ。 ・・と、いきなり嫌味な感じで書き出された今回の記事ですが、「現実」というものは、得てしてそんなものでありますが、私の感覚では、そうした現実を知った上でも「さらに頑張ろうと思えるか?否か?」という問い掛けこそが、人生に勝つ、克己する、みたいな事だと思うのですっ☆ そして、人生に勝ったものが、その境地の実を得るっ☆、と、一般的に思われておりますが、その実こそが夢の本体であり実態、みたいなことだろうと思うのですっ☆ ・・その夢の本体や実態ですが、私の持論からすれば、矛盾しているようではありますが、人生には勝つものの、やはり「夢」というのは叶わない方が良いわけで、「プロセスから換算した夢」という概念は、人生において大変価値が高いものなのですが、「結果としての夢」というのは、どうしても人間の想像力がその実を超越してしまうので、どんなにお金持ちになったとしても、どんなに有名で人気者になったとしても、それはそれで、何らかの差し引きマイナスの要素が出てきても何らおかしいことではないのですっ☆ ですから、夢とは「現実のカンフル剤みたいなもの」なのですっ☆(笑) 物理と科学なんかもそうですが、基本的に「何かが存在する」ということは、それが打ち消される逆説や矛盾がある・・、ということでもありますから、このNHKの番組にケチをつけるつもりはありませんが、もしも、その志向が「夢を叶える」というだけのものであるとすると、私は、これから大人になる子供達に、大変無責任な投げかけや遺恨を残す羽目にもなろうかと思うわけなのですっ☆ そんな折に、私が提唱したい思想としていたしまして、「夢を諦める」という考え方があろうかと思うのですっ☆ 一般的には、「夢を叶えるために頑張るっ!」みたいなことが正義とされていて、それを「諦める」というのは、理想の人生には大打撃っ!みたいに考えられておりますが、私が思うには、やはり人間は「頑張りたいことで頑張るっ!」という筋が、「最も理想的な人生であるっ☆」と伺い知れますので、具体的には、理想の人生とは「プロセスとしての夢の連続の消化」といった風に考えて、もしも、「結果を出すためだけに・・汗」としか考えられないようでは、私はその人の思想形態が「極めて稚拙なものである・・汗」、と言わざるを得ないと思うわけなのですっ☆ ですから、著名人・夢を叶えた人、として番組に出演するエンターティナーの方からすると、それなりのモチベーションの下、人生は相応に充実するわけですが、それでもプロセスとしての夢が、結果として人生の現実になった以上、次に夢を見出す作業が脅迫的に強いられては、どこまで経ってもゴールやフロンティアは見えてこないわけで、そんな折に私が考えることは、やはり「人生は諦めが肝心」だということだと思うのですっ☆ 「諦める」とは、一般的には挫折や失敗を意味しますが、私はそれは世論が生み出した勝手な価値観だと思うのですっ☆ 人間だれしも社交性がありますから、人から良く思われたい・・、人よりも優れた立場でありたい・・、みたいな事を考えて、その尺度で自分を奮い立たせるわけですが、人間、そんなことばっかりに執着していたら、誰のために、何のために生きているのか?と、徐々に自己喪失するのは明らかでありまして、人生を総合的に考えれば、自分のやりたいことをやって、自分のために人生を浪費する・・、というパターンが最も温和であり平和であり、何より健やかなわけですから、夢の本体と現実の実態と、そのプロセスと結果と人間という生き物の概要と、何より、自分とは何か?という問題を明らかにして、ようやく人生における本質的な「諦め」が尽くのだと、私は強く思うわけなのですっ☆ ・・まぁ、こうした哲学は極論が伴われますから、極論が理解出来ない人はそれなりに行動すれば、当然、徒労も伴いますが、それでも何となく時間の経過と共に真理には近づくわけですから、それはそれで結構なのだと思いますが、しかしそれで人生のリミットが訪れて失敗する人が大半の世の中なわけですから、当ブログに興味を持って頂いた方には、せめて簡略的にでも、この事を理解してもらえれば素晴らしいと思うわけなので、今回の記事に至っているわけでして、つまるところ「何をどうすれば良いのか?」と申しますと、「夢を諦めても尚、人生を諦めない・・、それでいて常に前向きであるっ☆」ということで良いと思うのですっ☆ 例えば、プロ野球選手を目指した野球少年が、激しい競技生活の末に肩なり肘なりを壊してしまい、選手生命が途絶えてしまった際に、生まれて初めて経験した大きな挫折から、よもや自殺まで図ろうとしたとして、それでも尚、自分の可能性に諦めがつかず、スポーツ選手から商売人へ転身して、起業後、苦難の末に見事に大成功する・・。みたいなことですっ☆(実際の某カラオケ店グループの社長さんのお話ですっ☆) この例の場合は、夢であったプロ野球選手の道は諦めるのですが、それでも人生は諦めない・・っ☆、ということですので、人間、生きている限りは人生でありますから、誰しも、夢がそのまま現実の人生であるとは言えないわけでして、万一夢に支障があっても、結果として人生さえ諦めなければ、夢はいくら諦めたって、どんなに泥臭くたって、それが何かの光明や考えに結びつく可能性は十分にあるわけですっ☆ ・・まぁ、簡単に言えば、「諦めは覚悟と同じであるっ☆」ということでして、一般的に、「覚悟」を決めた人間は皆強いわけですが、その事が自分のイマジネーションとして、「諦め」という言葉の延長の観念なのか?それとも、そのままストレートに自分に「覚悟としての強さ」が付与されるのか?という違いだけでして、結果と導き出される思想は、私は全く同じものだと思うのですっ☆ 最後に記事をまとめますと、人生、諦めが肝心で、成功者や夢を叶えた人が、必ずしも満たされているのか?と言えば、私は法則的に、決してそんなことはないと思うわけでして、人間社会のルールとしては、お金や相対的な地位は極めて重要ですが、それでいても、それがそのまま夢であり続けることなど皆無なわけでして、何かを探していたり、答えを見出したりするのが人生だとすれば、やはりどこかで線を引く作業・・、つまり現状の稚拙な発想を切り捨てて、経験から換算される「人生の勝ち・負け」という尺度を理解する事こそが、私は強い人、立派な人、凄い人、成功者・・、みたいなことだと思うのですっ☆ 私の人生のテーマは「退屈しない人生」ですが、そのテーマにおける条件とは、「極めて相対的な尺度ではないっ!」という条件付きなのでありますっ☆(笑)、なぜなら、やはり人生は自分のものだと思うからですっ☆、もしも、夢を諦めて人生が退屈しないのなら、私は喜んで夢を諦めたいと思いますっ☆(笑) |



