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天の孔雀的、英語の本かなり意訳読み

マルクス『共産党宣言』

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話題転換

『共産党宣言』をよんでだいぶたったので、話をほとんど忘れました。

だらだらと書いていましたが、要約すると、
共産主義とは何者かではない者を志向すること
です。

マルクス主義とか言うと、団結だとかなんとかいうイメージがあります。事実 すべての国のプロレタリアよ、団結せよ! (『共産党宣言』、講談社学術文庫、p.68)と述べていますね。ただ団結により獲得するものは所有なのではないのです。ここら辺、勘違いしている共産主義者が多い。というか、いわゆる労働組合は勘違いしている。

たとえば、労働組合は「会社側は社員の努力に報いるためにも誠意ある回答をせよ」と言うわけですが、会社は雇用を継続するように努力している点において会社は十分誠意ある回答をしていると思う。ただしここで注意してもらいたいのは、私が言おうとしている問題は派遣社員と正規社員の格差とかでもないのです。これはこれで解決しなければならない問題ということにしておきましょう。

「誠意とはお金」というように、労働組合が請求するのは貨幣の所有なのです。資本主義に対する対決の発想が資本主義に基づいているので、結局は問題が変わらないんですよね。

経営者が貨幣を所有し、労働者が貨幣を所有していないという前提にあって、貨幣の所有を変えようというのでは、所有に関する問題は解決しない。ここでは所有は人間の意思によって可能であるという考え方そのものが問題なのだ。所有は、商品が異なる商品と交換されて自己実現するために、商品が人に対して要求する命令なのだ。人が所有するわけではなく、商品が人をして所有させるのだ。

一言でいえば、共産主義者たちはいたるところで、現存の社会的政治的状態にたいする、あらゆる革命的運動を支持する。
これらすべての運動において、かれらは、所有の問題を、それがどの程度に発展した形態をとっていようとも、運動の根本問題として強調する。

『共産党宣言』p.67
私自身はブルジョワ的な精神にあふれるえせ共産主義者です。

だって、組合にしっかり保護された会社の会社員ですし、派遣切りとかの事件が本当に発生しているのか疑っている人間なので…

大学生の時は分からないなりにもがんばってデリダとか読んでいたのですが、会社で労働組合の執行委員に半ば強制的にさせられ、仕事で大量のタスクが割り当てられ、気づいた時には一日の成果がまったく上がらない状態、家に帰れば完全に力尽きている状態になっていることに気づいて、それ以来マルクスを中心に読むことにしています。

で、マルクス主義とか唯物論的なんたらかんたらがマルクスの本とはかけ離れていることに気がついて、どこにその相違点があるのかと深みにはまってしまっています。

ま、それは置いといて、なんか組合が民主党に一票入れろとか言ってくるんですよね。
非常に嫌なので、いつも白紙で投票しています。
その辺は天の孔雀的です。

しかし、最近ことさらによく思うのは、不祥事を働いた政治家がたくさんいますが、
というより政治家というのは不祥事を働くものと認識していれば問題はないんですが、
この人たちが票が集められる理由というのが分からないんです。

やはり地域においてなんらかの政治的な威圧がかけられるのでしょうか?

特に阿部和重の『シンセミア』を読んだときに、非常にそのあたりのことについて考えさせられました。

マルクスに戻ると、『ルイ・ブリューメルのなんたらかんたら』にて、表象システムが、裏切ってしまう可能性が論じられているので、それも読んでおきたいとことです。

以上、おやすみなさい。
私は海外で英語でコミュニケーションせざるを得ない状況が一か月半もあったことから、比較的英語のリスニング・トーキングについては自信があります。

で、YouTubeを見る時も英語圏からの投稿者の映像も比較的抵抗なく見ています。
しゃべっている内容も6〜7割りがたは理解しています。

だから何?

といわれると、特に返す言葉はないです。

ただ、スペイン語とフランス語もかじっていた時があって、
それらの言語の映像を見ると、30%くらいわかったような気がするのですが、いまいち自信が持てない。

やはり、これらの言語も毎日トレーニングしなければならないと思うようになってきました。

非常に悔しいんですよね。
スペイン語とフランス語をせっかく履修したのに、大して思えていないという事実が。

というわけで、これから何日間かYou Tubeでスペイン語講座とかフランス語講座とかを見てみることにします。
そして、仏検3・4級の必須単語集と活用の本でフランス語を覚えてしまおうと思います。

あと今年の目標で、ヘーゲルの『精神現象学』を読み切るというのを掲げていますが、ついでだから英語版でも読んで語学力を向上させたいと思います。
なんだか、内容が細かくなってきて、面倒くさくなってきたので、軽く流します。

天の孔雀はかなり単純なので、細かい話になると面倒くさくなるのです。

で、結局のところブルジョワジーというのは誰のことを指すわけでもないのだと思っています。

一般的にはブルジョワジーとプロレタリアは、雇用者と労働者という形で表象されることは多いです。
確かに図式的にはわかりやすい。

しかしこれは資本にとって好都合な対立図式である。
なぜならば、労働者が雇用者に対立することによって、資本への反逆をまぬかれることができるためである。
要引用:資本論二巻の第十三章あたり

資本家と賃金労働者との闘争は、資本関係そのものとともに始まる。それは全工場手工業時代を通じて荒れつづける。しかし、機械装置の採用以後はじめて労働者は、労働手段そのものと、資本の物的存在様式と、闘争する。資本主義的生産様式の物質的基礎としての生産手段の、この特定の形態にたいして、彼は叛逆するのである。

『資本論』(岩波文庫、第二巻、P.415)

資本家にとって機械装置は労働者の反感情のスケープゴートにするための装置として有用である。
単純なマルクス主義者が機械装置を壊せというのは、このあたりの事情を全く理解していない。

しかしながら、機械装置は、つねに賃金労働者を「過剰」にしようとする優勢な競争者として作用するのみではない。それは資本によって、労働者に敵対する力として、声高く機を見て宣揚され、利用される。それは、資本の専制に対する周期的な労働者の叛乱、ストライキ等を鎮圧するためのもっとも強力な武器となる。

『資本論』(第二巻、p.429)

当然、マルクス主義者のように機械装置の破壊による退行化はマルクス自身も意識していた。
しかしマルクスはそれをあからさまに否定している。

機械装置の資本主義的使用と不可分な矛盾や敵対関係は存在しない、それらは機械装置そのものからではなく、その塩hン主義的使用から生ずるのだから!したがって、それ自体として見られた機械装置は、労働時間を短縮するが、資本主義的に使用されれば、労働日を延長し、それ自体としては労働を軽減するが、資本主義的に使用されれば、労働の強度を高め、それ自体としては自然力にたいする人間の勝利であるが、資本主義的に使用されれば、自然力によって人間を圧服し、それ自体としては生産者の富を増すが、資本主義的に使用されれば生産者を貧民化する等々のの理由から。ブルジョア経済学者は簡単に断言する、それ自体としての機械装置の考察が明確に証示することはすべてかの明瞭な矛盾は、卑俗な現実の単なる仮象であって、それ自体としては、したがって理論においても、全然存在しないものであるう、ということである。かくして、彼はこれ以上頭を悩ますことを惜しむのみではなく、なおそのうえに、機械装置の資本主義的使用を攻撃しないで、機械装置そのものを攻撃するという愚を、かれの反対者に負わせるのである。
…(中略)…
機械装置の資本主義的使用が、現実にいかなる状態にあるかを暴露する者は、機械の使用一般を欲しない者であり、社会的進歩の敵であるのだ!

『資本論』(第二巻、p.438)

以上見てきたとおり、資本は自らの受肉形態であるブルジョワ、およびその資本主義的機械装置の導入これらの二重の保護により、労働者からの直接的な反逆をまぬかれている。

さて、これは放っておいて、ブルジョワとは何ぞやに戻ると、たまたま資本が集まったところにいた人間にすぎない。この人はもしかしたら本当はプロレタリアになっていたかもしれない。

商品は、自分自身で市場に行くことができず、また自分自身で交換されることもできない。したがって、われわれはその番人を、すなわち、商品所有者をさがさなければならない。商品は物であって、したがって人間にたいして無抵抗である。もし商品が従順でないようなばあいには、人間は暴力を用いることができる。言葉を換えていえば、これを持って歩くことができる。

『資本論』(第一巻、p.152)

商品の所有、そしてその結果としての資本の取得は、結局のところ、偶然の出会いである。
したがってブルジョワといわれている人々はたんなる偶然により商品を市場に運ぶことのできた人であり、その得た貨幣において、退蔵するなり、追加投資するなりの判断が資本の意思によって行われる。

労働者は一八六〇年頃には奴隷と化していたが、これに劣らずブルジョワは資本の増加を体現するために資本の奴隷として行動せざるを得ない。

結局のところ、労働者と資本家との対立は表面的な問題であって、資本家そのものは偶然によって成り立っている者であり、最終的な図式としては資本対人間であることは疑いえないことと思われる。

前述のように機械装置も「資本主義的使用」によってのみ、人間に対立するのであり、人間が機械装置に対立するわけではない。そのあたりは注意したいところである。
前回は中途半端に終わりましたが、今日は中途半端に初めて、引用も載せず、中途半端に論拠不足で終わりにしたいと思います。

前回は、資本主義への移行が不可逆であるということを言おうとしていました。
その成果は…あまりうまくいっていないような気がしなくもありませんが。

で、『共産党宣言』でもマルクスはこれらのことに触れています。
フーリエの空想主義的社会主義(だったかな)の主張を取り上げ、彼らの役割を認識しつつも、資本主義以前の状態に移行しようとする彼らのたくらみはうまくいかない的な批判をしております。

資本論のどこかに書いてあったと思うのですが、マルクスはこういうことも言っているわけです。
資本および商品が意思を持つのであって、人間はそれらの意思の受肉化したものに他ならない。
というような内容です。

これは単純に言えば、資本があるのであって、その資本の自己増殖のためにはその過程の人間は誰でもよい、つーことですかな。
つまり、資本に選ばれるかどうかは別として人間は平等である、ということ。
だからブルジョワジーとはだれ誰のことであると個人を同定して、それを集中的にたたくのはプロレタリアートの使命ではなく、たんなる個人の怨念の塊にすぎない。
ブルジョワも資本を増やして、その見返りとして貨幣を要求するということであるとすれば、彼は何も持たずに労働を商品として資本に売り、その交換物として貨幣をもらう限りにおいてはプロレタリアートとなんら変わらない。

じゃあ、真のブルジョワとは一体…

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