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知恵袋で回答を作るために、久々に『資本論』を読んだので、その引用と自分なりのコメントをとっておくことにしました。 W-Gすなわち、商品の第一の変態または売り。商品価値の商品体から金体への飛躍は、私が他のところで名づけたように、商品のSalto mortale(生命がけの飛躍)である。この飛躍が失敗すれば、商品は別に困ることもないが、商品所有者は恐らく苦しむ。 (向坂訳『資本論』第一巻、岩波文庫、p.188。) デカルトの名文句、「コギト、エルゴ スム」の「コギト」と「スム」の間にはSalto Mortale(生命がけの飛躍)がある。考えたということだけでは、存在にはならないということ。『存在と時間』のハイデガーによるデカルト批判とは異なる点で、デカルトのコギトは再検証が必要である。
W-G-Wなる循環は、一つの商品の極から発出して、ほかの商品の極をもってとじられる。この商品は、流通から出て消費に帰着する。したがって、消費、すなわち欲望の充足、一言でいえば、使用価値がその最終目的である。これに反して、G-W-Gなる循環は、貨幣の極から発出して、結局同じ極に帰着する。したがって、その推進的動機と規定的の目的は、交換価値そのものである。 (同、p.260。) 商品-貨幣-商品
というサイクルが示すのは、人間の持つ商品は異なる商品に変化することによって、人間の欲望を充足させるということ。 労働者でいえば、労働者の労働は、なんらかの商品を取得し、消費することにより、従来の所有者である労働者の欲望を充足させる。 もちろん、一時的には、(G-W-Gという循環において)最初に前貸しされた価値一〇〇ポンドは、流通においてこの価値に付け加わった一〇ポンドの剰余価値と区別される。しかし、この区別はただちに消失する。この過程の終わりにおいて、一方には一〇〇ポンドの原価値があり、また他の側には一〇ポンドの剰余価値がある、というように出てくるのではない。出てくるのは一一〇ポンドの一つの価値であって、それは、価値増殖過程を開始するために、最初の一〇〇ポンドと同じように、全くこれに相応する同一形態にある。貨幣は、運動の終わりには、再び運動の発端として出てくる。 (同、p.264。括弧は引用者による。) コギトのなれの果ては、あらたなコギトに戻る。いわゆる永劫回帰説。
たとえばハイデガーの「関心」。「存在者」の「存在」は、「世界」に「投げられている」「現存在」の「配視」によって、「あらかじめ」「現存在」に「開示」されている。したがって、「現存在」の「現」は「将来」の「時熟」により構成される。しかし、「将来」とは「本来的」には「既に」という「時間」をもっている。この「時熟」という概念が価値増殖過程の運動を思わせる。 さらにはニーチェが道徳を価値に対応させたことも考慮せよ。 この運動の意識的な担い手として、貨幣所有者は資本家となる。…かの流通の客観的内容--価値の増殖--は、資本家の主観的な目的である。そして抽象的富の収得増大のみが、彼の行動のもっぱらなる推進的動機である限り、彼は、資本家として、または人身化せられ、意志と意識とを与えられた資本として、機能する。…貨幣退蔵者が獲ようとと努力する価値の休みなき増大は、貨幣を流通から救い出すことによって、行われるのであるが、より聡明なる資本家は、これを常につぎつぎに流通に投げ出すことによって達成する。 (同、p.266。) やや皮肉な意味も含めて資本主義的な社会における意志と意識は価値増殖により根拠づけられる。
G-W-Gにおいては、貨幣の還流は、その支出そのものの様式によって、なければならぬものになっている。この還流なくしては、操作は不成功に終わり、または過程は中断され、そしてなお完了していないのである、というのは、この買いを補足し結了する、売りという第二の段階がないからである。 (同、p.260。) つまり売れなかったものは、存在しなかったということ。
何かを考えても、他の人に何らかの形で伝わらなかったものは、存在しなかったということ。 ハイデガーにおける「現存在」の「存在」の「終わり」。 ハイデガーも「存在者」の「存在」についてのエクリチュールについて、「文」により「存在」が伝わるとは述べている(どこだったか忘れた)。ただ「頽落」という様態により、「論理学的」に「真」であるとは限らないが。 |
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資本の前貸しにより、労働は搾取され、 資本は剰余価値を創造する。 その剰余価値は新たに前貸しされ、 あらたな労働が搾取される。 このような資本主義的弁証法によって、 搾取される人は次々と生まれる。 前貸しされる資本の量は増えるが、 その増加は前貸しされる対象の人数が増えるだけであり、 個々の前貸しされる金額の量が増えるわけではない。 その一方で、資本自体は増大するので、 金利はプラスで設定される。 この乖離が大きくなると、
信用がなくなる。 ただそれだけのことです。 |
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昔は電車通勤だったので、電車の中で本を読んでました的な話を以前しましたが、 徒歩通勤だと本を読むタイミングがなさすぎです。 お金に余裕があれば、カフェでも行って、ブルジョワ〜☆な感じで本を読みますが、浪費家のために金はありましぇん。 電車で少しでも読まないと「続きを読みたい」という意思がわいてこないので、家でも全然本を読めてません。 というわけで、最近は会社の昼休みに本を読むようにしています。 そうすると家でも読めるんですね。 少しでも読むと、中途半端で終わらせると嫌で、きりのいいところまで読みたいというリズムが生まれる。 しかし昼休みに本を読むと、午後の仕事中に強烈な眠気が襲う。 というわけで、それを防ぐためには、夜しっかり寝ることが重要なのです。 夜にしっかり眠れた日の昼は本を読んでも仕事の最中に眠くなることはない。 ちなみに昨晩はサラリーマンの文化でもあるノミュニケーションというか、送別会でした。 そのため、夜が遅くなって、ホッピーがきいていて、一日中眠かったです。 なお、ホッピーはストレートで飲みました。 チェイサー(焼酎)は頼みませんでした。医者に禁酒といわれているので。
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『共産党宣言』の内容をほとんど忘れたし、いまさらほじくり返して読むのも面倒なので、放っておくことにしました。 で、今読んでいる本の読書メモというか、単に感じ入ったところを引用するだけに変更… 著作権上、問題がありそうですね… いいかえれば、同じ時間で生産される個数が増加し、したがって、同じ一個に消費される労働時間が減少するのと同じ割合で、出来高賃金は引き下げられる。出来高賃金のこの変動は、それだけでは純粋に名目的なものであるが、資本家と労働者とのあいだに不断の闘争を呼び起こす。なぜかといえば、資本家が、これを現実に労働の価格を引き下げるための口実に利用するか、または、高められた労働の生産力に、高められた労働の強度が伴っているからである。あるいは、労働者が、かれの生産物にたいして支払われるのであって、彼の労働力にたいしてしはらわれるのではないかのような出来高賃金の外観を真に受けて、それに応じて、商品の販売価格の引き下げが行われないような賃金引き下げには、反抗するからである。「労働者は、原料の価格と製品の価格とを注意深く監視して、彼らの雇い主の利潤を、正確に見積もることができる」。このような要求を、資本は、当然、賃労働の性質にかんする大きな考え違いとして、片づけてしまう。資本は、産業の進歩に課税しようとするこの僭越を罵倒して、労働の生産性は、労働者には何の関係もないものである、と露骨に断言する(六三)。 (六三) 「労働組合は、賃金を維持しようとする努力から、機械装置改良の利潤に与ろうと努める!」(なんという恐ろしいことだ!)「…彼らは労働が短縮されたからといって、賃金の引き上げを要求するのだ。…いいかえれば、彼らは産業の改善に課税しようとするのだ」(『諸貿易の結合について』新版、ロンドン、一八三四年、四二ページ)。 マルクス著、向坂訳、『資本論』、岩波文庫、第三巻、p.86-89。 そういえば、ステップの量で金額が決定するソフトウェア業界でも、プログラム言語の改良(?)によってステップが短くなると割引して見積もりをしますね… C言語だったら1ksを、Javaなら0.8ksなので、いくらいくら安くなりますみたいな。
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