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石田親子

7月16日、北神奈川大会 2回戦 藤沢・八部球場 川和 8―5 霧が丘
背番号「20」の一人の投手がマウンドに立っていた。
川和高校2年の石田翔太。この日は志願しての先発だった。15日、石田は病院のベットで父をみとった。
4回まで毎回走者を出す苦しい投球内容。4回0/3を3安打4失点、天国の父に捧げる70球だった。

1984年、夏の甲子園 決勝 木内監督が率いる茨城・取手二高が快進撃を続け決勝まで進んだ。
高校野球ファンは驚きを持って見ていたと思う。その戦いぶりをメディアは「のびのび野球」と伝えていた。
取手二高のエースは石田文樹。石田翔太君の父親である。

自分は決勝を見た覚えがない。ひょっとしたら外で遊んでいたのかも。
それ以前の試合は何試合か見ていたので、すごい1年生のKKコンビも知っていたし、取手二高の快進撃も知っていた。
何ヵ月後だろうか、詳しくは覚えていないが先輩との会話で「石田が大洋に入った」という会話をしたのも記憶の奥底に埋もれていたのだが
16日に「取手二高のエース、石田文樹死去」の文字を見て会話の記憶など、いろいろよみがえった。
それよりもなによりも、まだ働き盛りのはずなのにと驚きと残念な気持ちになった。
その夜、YouTubeで24年前にみることがなかった決勝の試合を思わぬ形で見ることになった。

試合前の土砂降りは「激闘」を予感させるものだったのか、「激闘」と呼ぶにふさわしい試合だった。


訂正  KKコンビは、このとき2年生




1984年全国高校野球 決勝 PL学園VS取手二


  



  亡き父にささげる力投だった。背番号「20」の石田がマウンドに上がった。7回を無失点と好投した初戦(橋本)とは異なり、4回まで毎回走者を出す苦しい投球内容。「マウンドでは(父の死を)忘れようと思った。私情を持ち込みたくなかったから」と強い意志で投げ抜いた。5回、先頭打者に安打を許し降板したが、4回0/3を3安打4失点。気持ちがこもった70球で試合の流れを作った。

 志願の先発だった。この日、岩本晃典監督(20)から「投げられるか」と聞かれ、「いけます」と即答した。「顔をみても普段と変わらなかった」(同監督)とマウンドに送り出された。171センチ、61キロ。177センチの父より小柄だが、自己最速は135キロ。体全体を使うフォームは父をほうふつさせる。女房役の山田一輝(3年)も「気持ちが入っていました」と右腕の粘投に目を見張った。

 ナインから後押しされた。6−3とリードを広げた4回、茂垣太志主将(3年)が2ランを放ち、突き放した。「頼れるエースと思っています。チームのため、石田のために打ちたかった」。病状を知っていたのはごく一部の学校関係者など数人。部員には誰ひとり知らされていなかった。この日、初めて訃報(ふほう)を知ったナインは「知らないことにしよう」(茂垣主将)と全員、普段通り接した。その打線は9安打8得点と結果で後押しした。

 小2の時に野球を始めた。「自分が(野球の)質問をしないと、教えてくれませんでした」という。だが、病床の石田さんは今大会をどれだけ楽しみにしていたことか。親しい球団関係者が6月に見舞った際、ベッドで日程表を見ながら「4回戦までいけるかもしれない。自分の息子が投げるのは見ていられないんだよね。でも良くなったら、やっぱり試合を見に行きたい」とうれしそうに話していたという。願いかなわず、石田さんは息を引き取った。15日、石田は病院のベットで父をみとった。「ありがとう」。ほとんど意識のない父に感謝の気持ちを込めて、最後の言葉をかけていた。


 7月17日  「日刊スポーツ」より



 石田翔太君はまだ2年生、今後の活躍を期待します。

 そして石田文樹氏のご冥福をお祈りします。

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