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1984年全国高校野球 決勝 PL学園VS取手二  試合は9回裏、4対3で取手二高が1点リード。
この回の先頭打者、バッターボックスには、桑田、清原の1年先輩の3年生、背番号「12」の清水 哲がバッターボックスに。
清水はこの日、ショートゴロ2つ、センターフライ2つだった。
石田か投じた2球目はやや高めに入り、清水はバットを振りぬき打球はレフとスタンドへ吸い込まれていった。
大歓声で揺れる甲子園のグランドの2塁ベースあたりで、清水はガッツポーズ。本塁に帰ってきたときに軽くジャンプしてベースを踏んだ。

  彼は躍動していた。


世間の多くの人はKKコンビばかりに目がいっていたと思うが、自分の甲子園のヒーローと言えば池田高校の水野、そしてPL学園の桑田と清原だった。
そのほかの選手に注目することはなかった。

桑田と清原はドラフトで注目を集め、プロで二人は球界を代表するスター選手となった。

KKコンビが最後の夏を終え、二人の進路の行方に世間が注目してた頃、清水は同志社大学一回生。
1985年9月22日、関西学生リーグの公式戦、近畿大学との試合中に、二塁へヘッドスライディングしたときに相手のショートと激突して首の骨を折る。
一命を取り留めるも、首から下は動かなくなり身体障害者になった。
一度に多くのものを失い、残ったものは大きな喪失感と絶望感だけだった。

自分は彼を知ったのは、10年ほど前にテレビでやっていたドキュメントだった。
そして最近「心にいつも甲子園〜“最強”PL学園の選手は今〜」という番組を見た。
黒木泰典さん、今久留主成幸さんとともに清水哲さんが取り上げられていた。
番組中、清水さんは事故当時のことを語った。「こんな体で生きていても仕方ない、死にたいと思っていた」。
しかし清水さんは、決勝での同点ホームランを思い起こすにつれ、「自分にはまだまだできることがあるのではないか」と考えるようになった。
「体の状態は変わったけど清水哲には変わりないから、あのときあれだけできたのだから、これからもできる。甲子園での経験、あのホームランの経験を無駄にしないためにも
ただ寝てるわけにはいかない」。あの事故以来、心は2塁上で死線を彷徨っていたが、絶望の淵から立ち直りホームへ生還した。

まずは口にくわえた棒でパソコンを操作する練習からはじめ、自分でできることを増やしていった。
そして病院から地域へと生活の場を移し、講演活動で全国各地に飛び回るのが彼のライフワークのひとつとなっていった。
現在、彼はヘルパー派遣や福祉移送のNPO法人を設立、グループホームを立ち上げる夢を持っている。


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