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7月31日8時0分配信 スポーツ報知


 今春センバツで優勝投手に輝いた沖縄尚学・東浜巨(なお、18)が東都大学リーグの亜大に進学することが30日、分かった。プロ志望届は提出せず、10月30日のドラフト会議では指名対象選手から外れる。

 最速148キロを誇る右腕を巡っては、センバツ制覇を経て評価が急上昇。各球団とも上位候補としてリストアップしており、進路が注目されていた。東浜は4年後にはプロ入りの意思を持っているが、現時点では時期尚早と判断。13日の沖縄大会決勝で浦添商に敗退後、学校側と進路についてあらためて話し合い、かねてから希望していた亜大進学を決めた。

 亜大は巨人・木佐貫らを輩出するなど投手の育成には定評があり、心身ともにレベルアップを図る上でベストの進路と考えたようだ。




1984年全国高校野球 決勝 PL学園VS取手二  試合は9回裏、4対3で取手二高が1点リード。
この回の先頭打者、バッターボックスには、桑田、清原の1年先輩の3年生、背番号「12」の清水 哲がバッターボックスに。
清水はこの日、ショートゴロ2つ、センターフライ2つだった。
石田か投じた2球目はやや高めに入り、清水はバットを振りぬき打球はレフとスタンドへ吸い込まれていった。
大歓声で揺れる甲子園のグランドの2塁ベースあたりで、清水はガッツポーズ。本塁に帰ってきたときに軽くジャンプしてベースを踏んだ。

  彼は躍動していた。


世間の多くの人はKKコンビばかりに目がいっていたと思うが、自分の甲子園のヒーローと言えば池田高校の水野、そしてPL学園の桑田と清原だった。
そのほかの選手に注目することはなかった。

桑田と清原はドラフトで注目を集め、プロで二人は球界を代表するスター選手となった。

KKコンビが最後の夏を終え、二人の進路の行方に世間が注目してた頃、清水は同志社大学一回生。
1985年9月22日、関西学生リーグの公式戦、近畿大学との試合中に、二塁へヘッドスライディングしたときに相手のショートと激突して首の骨を折る。
一命を取り留めるも、首から下は動かなくなり身体障害者になった。
一度に多くのものを失い、残ったものは大きな喪失感と絶望感だけだった。

自分は彼を知ったのは、10年ほど前にテレビでやっていたドキュメントだった。
そして最近「心にいつも甲子園〜“最強”PL学園の選手は今〜」という番組を見た。
黒木泰典さん、今久留主成幸さんとともに清水哲さんが取り上げられていた。
番組中、清水さんは事故当時のことを語った。「こんな体で生きていても仕方ない、死にたいと思っていた」。
しかし清水さんは、決勝での同点ホームランを思い起こすにつれ、「自分にはまだまだできることがあるのではないか」と考えるようになった。
「体の状態は変わったけど清水哲には変わりないから、あのときあれだけできたのだから、これからもできる。甲子園での経験、あのホームランの経験を無駄にしないためにも
ただ寝てるわけにはいかない」。あの事故以来、心は2塁上で死線を彷徨っていたが、絶望の淵から立ち直りホームへ生還した。

まずは口にくわえた棒でパソコンを操作する練習からはじめ、自分でできることを増やしていった。
そして病院から地域へと生活の場を移し、講演活動で全国各地に飛び回るのが彼のライフワークのひとつとなっていった。
現在、彼はヘルパー派遣や福祉移送のNPO法人を設立、グループホームを立ち上げる夢を持っている。

石田親子

7月16日、北神奈川大会 2回戦 藤沢・八部球場 川和 8―5 霧が丘
背番号「20」の一人の投手がマウンドに立っていた。
川和高校2年の石田翔太。この日は志願しての先発だった。15日、石田は病院のベットで父をみとった。
4回まで毎回走者を出す苦しい投球内容。4回0/3を3安打4失点、天国の父に捧げる70球だった。

1984年、夏の甲子園 決勝 木内監督が率いる茨城・取手二高が快進撃を続け決勝まで進んだ。
高校野球ファンは驚きを持って見ていたと思う。その戦いぶりをメディアは「のびのび野球」と伝えていた。
取手二高のエースは石田文樹。石田翔太君の父親である。

自分は決勝を見た覚えがない。ひょっとしたら外で遊んでいたのかも。
それ以前の試合は何試合か見ていたので、すごい1年生のKKコンビも知っていたし、取手二高の快進撃も知っていた。
何ヵ月後だろうか、詳しくは覚えていないが先輩との会話で「石田が大洋に入った」という会話をしたのも記憶の奥底に埋もれていたのだが
16日に「取手二高のエース、石田文樹死去」の文字を見て会話の記憶など、いろいろよみがえった。
それよりもなによりも、まだ働き盛りのはずなのにと驚きと残念な気持ちになった。
その夜、YouTubeで24年前にみることがなかった決勝の試合を思わぬ形で見ることになった。

試合前の土砂降りは「激闘」を予感させるものだったのか、「激闘」と呼ぶにふさわしい試合だった。


訂正  KKコンビは、このとき2年生




1984年全国高校野球 決勝 PL学園VS取手二


  



  亡き父にささげる力投だった。背番号「20」の石田がマウンドに上がった。7回を無失点と好投した初戦(橋本)とは異なり、4回まで毎回走者を出す苦しい投球内容。「マウンドでは(父の死を)忘れようと思った。私情を持ち込みたくなかったから」と強い意志で投げ抜いた。5回、先頭打者に安打を許し降板したが、4回0/3を3安打4失点。気持ちがこもった70球で試合の流れを作った。

 志願の先発だった。この日、岩本晃典監督(20)から「投げられるか」と聞かれ、「いけます」と即答した。「顔をみても普段と変わらなかった」(同監督)とマウンドに送り出された。171センチ、61キロ。177センチの父より小柄だが、自己最速は135キロ。体全体を使うフォームは父をほうふつさせる。女房役の山田一輝(3年)も「気持ちが入っていました」と右腕の粘投に目を見張った。

 ナインから後押しされた。6−3とリードを広げた4回、茂垣太志主将(3年)が2ランを放ち、突き放した。「頼れるエースと思っています。チームのため、石田のために打ちたかった」。病状を知っていたのはごく一部の学校関係者など数人。部員には誰ひとり知らされていなかった。この日、初めて訃報(ふほう)を知ったナインは「知らないことにしよう」(茂垣主将)と全員、普段通り接した。その打線は9安打8得点と結果で後押しした。

 小2の時に野球を始めた。「自分が(野球の)質問をしないと、教えてくれませんでした」という。だが、病床の石田さんは今大会をどれだけ楽しみにしていたことか。親しい球団関係者が6月に見舞った際、ベッドで日程表を見ながら「4回戦までいけるかもしれない。自分の息子が投げるのは見ていられないんだよね。でも良くなったら、やっぱり試合を見に行きたい」とうれしそうに話していたという。願いかなわず、石田さんは息を引き取った。15日、石田は病院のベットで父をみとった。「ありがとう」。ほとんど意識のない父に感謝の気持ちを込めて、最後の言葉をかけていた。


 7月17日  「日刊スポーツ」より



 石田翔太君はまだ2年生、今後の活躍を期待します。

 そして石田文樹氏のご冥福をお祈りします。

帰ってきた名将

2003年、夏の決勝、ダルビッシュを擁する東北高校を破り常総学院は優勝した。
すでに勇退することが決まっていた木内監督にとって有終の美だった。

バントを使わない強攻策で打ち崩し、本塁打も0.この年のチームは「守」のチームで
特にずば抜けた選手がいたわけでもない。インタビューで「どうして私の最後の夏にこんなにツキまくるのか」と述べた。

高校野球で木内監督は異質な存在である。
まずスカウト活動をしない。「木内と野球がしたいというやつだけ来ればいい」という姿勢だった。
選手を猛練習で育て上げることはせず、全体練習の時間が短いことは有名で、一定の能力のある選手には技術面での具体的な指導はほとんど行わないなど個々人の選手の能力向上にはあまり関心がなかった。
木内監督の野球をひとことでいうなら「頭を使う野球」または「実戦的野球」だろうか。
普段は無作法で誤解を招く印象があるが、野球に関しては緻密で戦術の妙や試合の流れを読む能力は誰もが認め
ときにはセオリーも無視する。無死で走者がいても強攻策に出ることもある。賭けではなく、もちろん「流れ」を読んだうえである。
このような場面だとバントが得意な選手は、バントを決め得点圏にランナーを進めれば役割を果たしたことに普通はなるのだが、木内監督の場合は違う。
状況、流れを読まず安易に小技を使った選手を2軍に落としたことが今年あった。消極的姿勢だと監督は思ったからである。

 

 延長10回1死満塁。川崎将太君は3球目のカーブをためてすくい上げた。バットの芯は外れ、やや浅い右飛球になったが、三塁走者がサヨナラの本塁に滑り込んだ。
 川崎君はバントを得意にしていた。だが、この場面でスクイズは封印した。それには、理由があった。


 2カ月半前、春の県大会決勝で、やはり霞ケ浦を相手に1点を追う9回2死から代打で同点打を放った。延長に入ると、得意のセーフティースクイズで勝利に貢献した。


 ところが、木内監督の目は厳しかった。練習試合でもバントで出塁しようとする川崎君の消極性が嫌われ、春の関東大会が終わると「2軍」に下げられた。


 その日以来、川崎君はバットを振り続けた。6月中旬、2軍の練習試合で9打数9安打と活躍できた。その日の午後、川崎君は1軍の練習試合に呼び戻された。


 茨城大会決勝。常総学院は霞ケ浦の先発にてこずり、1点のビハインドのまま終盤を迎えていた。


 1点を追う9回1死一塁、カウント0―1から、川崎君が打席に送られた。左前安打でつなぎ、チームは同点に追いついた。「危ない時に開き直れるのが3年生だ」(木内監督)。2軍落ちをへて、川崎君は開き直れるように成長していた。


 木内監督が現場復帰して以降、「マジック」という言葉が独り歩きし、選手の中には「自分たちの力だ」と反発する声もあった。だが決勝のサヨナラ劇で、今までにない一体感がベンチに生まれたという。川崎君も采配の妙を実感した1人だ。「先発だと打てないが、代打だとなぜか打てる」


 目まぐるしい選手交代には意味がある。だが、「最後は気持ちで戦う」。そんな木内野球の「神髄」に近づき始めた選手たちが、5年ぶりの全国制覇に向けて走り出した。


(富山正浩)   「朝日新聞」より



4回戦は0―0の均衡を8回の代打攻勢で打開。準々決勝も3連続バントで流れを引き寄せた。 テレビでは準決勝と決勝のサヨナラ勝ちを「木内マジック」と言っていたが、監督自身にすると「マジック」でも「奇策」なく必然的な采配だったのであろう。


1990年代、木内監督は「今の子はイエスマンが多い」などと取手二高時代のような選手の反発心のなさを嘆いたことがあった。
今年のチームの選手には、反発心もあり、なおかつ「木内野球」を実感して理解してきている。

自分も「木内ファン」のひとりだが、再び豪快、痛快かつ緻密な野球を楽しみにしている。
試合後のインタビューの「木内節」も楽しみだ。


追記

今年のエース島田君はの1987年の春の選抜大会で甲子園に出場し、夏の選手権ではエースの島田直也投手(日ハム→横浜→ヤクルト→近鉄)の息子。
自分のように父親を知ってる世代は、懐かしさとかも出てくるかも。



1987年全国高校野球 決勝 PL学園VS常総学院


慶応 田村圭

この選手、いまのところ進路は慶応大に進学するのではと言われているが、ドラフト候補でもある。




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