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2003年、夏の決勝、ダルビッシュを擁する東北高校を破り常総学院は優勝した。
すでに勇退することが決まっていた木内監督にとって有終の美だった。
バントを使わない強攻策で打ち崩し、本塁打も0.この年のチームは「守」のチームで
特にずば抜けた選手がいたわけでもない。インタビューで「どうして私の最後の夏にこんなにツキまくるのか」と述べた。
高校野球で木内監督は異質な存在である。
まずスカウト活動をしない。「木内と野球がしたいというやつだけ来ればいい」という姿勢だった。
選手を猛練習で育て上げることはせず、全体練習の時間が短いことは有名で、一定の能力のある選手には技術面での具体的な指導はほとんど行わないなど個々人の選手の能力向上にはあまり関心がなかった。
木内監督の野球をひとことでいうなら「頭を使う野球」または「実戦的野球」だろうか。
普段は無作法で誤解を招く印象があるが、野球に関しては緻密で戦術の妙や試合の流れを読む能力は誰もが認め
ときにはセオリーも無視する。無死で走者がいても強攻策に出ることもある。賭けではなく、もちろん「流れ」を読んだうえである。
このような場面だとバントが得意な選手は、バントを決め得点圏にランナーを進めれば役割を果たしたことに普通はなるのだが、木内監督の場合は違う。
状況、流れを読まず安易に小技を使った選手を2軍に落としたことが今年あった。消極的姿勢だと監督は思ったからである。
延長10回1死満塁。川崎将太君は3球目のカーブをためてすくい上げた。バットの芯は外れ、やや浅い右飛球になったが、三塁走者がサヨナラの本塁に滑り込んだ。
川崎君はバントを得意にしていた。だが、この場面でスクイズは封印した。それには、理由があった。
2カ月半前、春の県大会決勝で、やはり霞ケ浦を相手に1点を追う9回2死から代打で同点打を放った。延長に入ると、得意のセーフティースクイズで勝利に貢献した。
ところが、木内監督の目は厳しかった。練習試合でもバントで出塁しようとする川崎君の消極性が嫌われ、春の関東大会が終わると「2軍」に下げられた。
その日以来、川崎君はバットを振り続けた。6月中旬、2軍の練習試合で9打数9安打と活躍できた。その日の午後、川崎君は1軍の練習試合に呼び戻された。
茨城大会決勝。常総学院は霞ケ浦の先発にてこずり、1点のビハインドのまま終盤を迎えていた。
1点を追う9回1死一塁、カウント0―1から、川崎君が打席に送られた。左前安打でつなぎ、チームは同点に追いついた。「危ない時に開き直れるのが3年生だ」(木内監督)。2軍落ちをへて、川崎君は開き直れるように成長していた。
木内監督が現場復帰して以降、「マジック」という言葉が独り歩きし、選手の中には「自分たちの力だ」と反発する声もあった。だが決勝のサヨナラ劇で、今までにない一体感がベンチに生まれたという。川崎君も采配の妙を実感した1人だ。「先発だと打てないが、代打だとなぜか打てる」
目まぐるしい選手交代には意味がある。だが、「最後は気持ちで戦う」。そんな木内野球の「神髄」に近づき始めた選手たちが、5年ぶりの全国制覇に向けて走り出した。
(富山正浩) 「朝日新聞」より
4回戦は0―0の均衡を8回の代打攻勢で打開。準々決勝も3連続バントで流れを引き寄せた。 テレビでは準決勝と決勝のサヨナラ勝ちを「木内マジック」と言っていたが、監督自身にすると「マジック」でも「奇策」なく必然的な采配だったのであろう。
1990年代、木内監督は「今の子はイエスマンが多い」などと取手二高時代のような選手の反発心のなさを嘆いたことがあった。
今年のチームの選手には、反発心もあり、なおかつ「木内野球」を実感して理解してきている。
自分も「木内ファン」のひとりだが、再び豪快、痛快かつ緻密な野球を楽しみにしている。
試合後のインタビューの「木内節」も楽しみだ。
追記
今年のエース島田君はの1987年の春の選抜大会で甲子園に出場し、夏の選手権ではエースの島田直也投手(日ハム→横浜→ヤクルト→近鉄)の息子。
自分のように父親を知ってる世代は、懐かしさとかも出てくるかも。
1987年全国高校野球 決勝 PL学園VS常総学院
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