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長崎県佐世保市で同級生を殺害したとして逮捕された女子高校生が、「人を殺してみたかった」と供述していることが分かりました。
女子生徒(16)は26日夜、自宅マンションで同級生の松尾愛和さん(15)の後頭部を工具で殴り、ひもで首を絞めて殺害した疑いが持たれています。遺体は首と左手首が切断されていました。捜査関係者によりますと、女子生徒は「人を殺してみたかった」「人の死に興味があった」という趣旨の供述をしているということです。一方、市内の葬儀場では松尾さんの通夜が営まれました。 テレ朝ニュース 7/29
また、とんでもない事件が起こってしまった。サカキバラ事件を思い出させるような陰惨な事件である。現在、加害者の家庭環境や小学校時代の事件などが盛んに紙面を賑わしている。そういった事実に対してマスコミは「なぜもっと早く手を打たなかったのか」という相変わらずの論調である。
その中で一番気になる論調は道徳教育に関してである。佐世保と言えば2004年にも小学6年生が同級生を視察するという痛ましい事故があった。その後、おそらく佐世保では様々な教育的な取り組みが行われたはずだ。しかし、今回同様の事件が起こり、いわゆる教育評論家という人々や大学で教育学などを研究している教授達が新聞で「対応が甘かった」「マンネリになって形骸化していた」「事件が風化していた」などと偉そうな事を言い、さらにかわいそうなことに当事者である教育関係者にインタビューで反省の弁を語らせている。こういったマスコミの誘導でどれだけ多くの人が教育に対して幻想を抱き、現実に対して幻滅をするのか理解しているのだろうか。
ここで当たり前のことだが、はっきりと言いたいことがある。まず第一に教育は万能ではない。万能どころかほとんど無力といった方が近いかもしれない。道徳教育をいくらやろうと、その効果はかなり小さいと認識しておいた方がいい。また、教育はすべての生徒に等しく効果があるわけではない。人によっては逆効果ということも当然ある。そして、彼女のような猟奇的な殺人事件を犯す人間に普通の学校教育が効果があるとは思えない。
教育に対する過度な期待を抱かせないで欲しい。そうすればするほど、教育に対して何も期待していない人を増やすだけだから。
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教育
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進研模試の平均得点率は35%、偏差値60で得点率50%である。したがって、偏差値60以上でなければ有意差はなく、それ以下の生徒に関してはデータとして価値はない。なぜなら、単に問題が一、二個、偶然当たったというレベルでしかないからだ。さらに、模擬試験の問題は英語力以外の思考力や読解力が大きく作用しているので、問題文を見てだいたいの長文の内容を類推できる読解力さえあれば、英語力0であっても、選択問題で2,3問(6,9点)は得点することができる。実際、偏差値60以下の生徒を見ると、毎回順位が大幅に変わっているし、学校の定期テストの点数と全く関連性がない。結局、英語力をはかる物差しとしては偏差値60以上の生徒しか機能しないのだ。
定期テストはできるが、模擬試験になるとできないと言う生徒がよくいるが、主に二つの原因がある。一つ目は、定期試験は確認テストであり、平均点は60点に設定してあることだ。生徒の得点は30点が赤点なので、25点〜95点くらいだ。まあ、要するに、狭い範囲で難易度をかなり低めに設定してあるわけだ。一方、模擬試験は先ほど書いたように、平均点は35点である。学校によってもちろん平均点は違うが、我が校でだいたい40点弱である。また、二つ目の原因は、模擬試験が応用力を試しているところだ。理屈や理論を覚えるのではなく、丸暗記をして1対1で物事を覚えている生徒、例えば、教科書の英文を丸暗記しているような生徒は、単語が一つ変わっただけでもう対応ができない。とりあえず目先のテストに対応するあまり、こういったテスト勉強をする生徒がとても多い。
では、普段から、応用力を試すようなテストをしたらどうかと考える人もいるが、そうなると平均点60点という目標が達成できない。テストの2割程度を応用問題にすればいいという意見もあるが、できない生徒にとっては残りの8割で30点を取ることは不可能なのだ。そうすると、「そんな生徒は落とせばいい」「指導力が無いのだ」といわれそうだが、高校生がみんな一生懸命勉強しているわけではないし、一部は全く勉強をしない。単位を取らせないなどというと、文科省やマスコミが黙ってはいない。難しい問題なのだ。
こんな事を考えながら、ネットを見ていたら面白い記事があったので、引用しておく。ワシントン・ポスト紙に掲載された、メリーランド州の7年生(日本の中学1年生に相当)のベテラン教師の投書。
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こんなナンセンスを教えなくてはいけないなら、少なくとも上手に教えようと私は心に決めた。自分に高い基準を課し、授業を体系化し、個人指導を行い、プラスアルファの課題を出し、授業を面白くしようと努力した。……すぐに生徒の間で私の人気は上昇し、親とも連絡を取り合い、多くの生徒に確実にAを取らせた。
校長室に呼び出されたのはその頃だった。……校長は私がDやFをつけた生徒約10人のリストを示した。当時、私が教えていたのは120人程度だから、割合としては標準的だ。私は校長に各生徒の記録を見せた。テストや課題の点数が低いのではなくて、課題を提出していないこと、つまり責任感が欠けていることを示した。個人指導の記録や、親に宛てた手紙も見せた。だが校長は追及をやめなかった。
つまりこういうことだ。『落第はあってはならない』と『DやFをもらう子がいるのは、教師に足りないところがあるからだ』。足りないところ? 確かに私は、生徒に回答を教えてやらなかったし、文字どおり生徒の手を取って課題をやらせなったし、毎晩、生徒の自宅までついて行って宿題をきちんとやるよう指導しなかったし、生徒の怠慢を見逃してやらなかった。……教師がありえないレベルの仕事を要求される半面、生徒は自分の取り組みについてほとんど責任を負わされておらず、落第することもありえない
もう一つ、オレゴン州の高校教師の投書
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1992年頃までは、どのクラスにも課題をまったくやってこない子が1人はいた。そういう子が2人いるのはかなり問題があるクラスだ。それが今は10〜15人いる。最近、1980年代に作ったテストを見てみた。難しい包括的なテストで、ヒントも示されていない。今ならこういうテストで合格点を取れる子はほとんどいないだろう。
私たちは授業のレベルを下げている。その低下はとどまるところがなく、いずれどんなに出来の悪い生徒でも合格点をもらえるようになるだろう。昔も今も子供の『本質』は同じだ。……違うのは、昔の子供たちはいやいやながらも宿題をやってきたことだ。今はやってこない
どちらも他国とは思えないような共感できる教師の叫び(ぼやき)である。幸運にも我が校の現状はここまで酷くはない。だが、確実にこの状況に近づいていることは確かだ。教育問題は先進国の間で共通であり、正解のない問題ということだ。
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日体大には毎年1つ大きな大会ある。その大会のメインイベントとして70から80人による集団行動がある。一糸乱れぬ行進で、前進交差や後進交差などを行い、観客を魅了する。だが、わずか11分の演技のために選手たちは200日にも渡る辛い練習を重ねているのだ。
練習の前半はひたすら歩くことだけで終わる。 1つは11分の集団行動するための体力をつけるためだ。全身に力を入れて、駆け足程度の速さで歩調を合わせることは我々が想像しているよりも遙かに体力を消耗する。その体力を得るために、彼らは毎日6,7時間もただ歩き続けるのである。
だが、ただ歩き続けることはもう一つの意味がある。自分の弱さと戦い、限界を超えるためだ。彼は終わりの時間を決めないでただ歩かせる。いつ終わるともわからない練習を続ける事ほど苦痛はない。人は終わりが見えていた方ががんばれる。だが、彼はそれを許さない。常にベストを要求し、継続する事を求める。その中で、自分が思う限界に一人一人が近づいていく。そのとき、実生活での甘えや日常生活での中途半端さが全部出てくる。自分の弱さや甘えが出てきて、ほとんどの人はあきらめてしまう。
ごく少数の自分の弱さに打ち勝ったものだけがこの壁を乗り越えることができる。だが、その人々でさえ、自分だけでは限界を超えることができない。周りの様々なサポートがあって初めてその壁を乗り越えることができるのだ。そして、その壁を乗り越えることができた人だけが、酔いしれることができる達成感がある。その達成感が人を成長させ、自信を与えてくれる。
限界に挑戦している時には一人の例外も許されない。誰もが、逃げ道を探しているときに、ダメになったら離れて、元気になったら戻るということを繰り返していたらダメだ。何処かで線を引かないと。これ以下の人はダメだという線を引かないとダメだ。
では、その壁を乗り越えられなかった人は全員だめなのだろうか。いや、ある事柄に関して、限界を乗り越えられなくても、自分をあまり責めてはいけない。努力が大切で結果はその次である。指導者の中には明確な到達点がある。その到達点へたどり着くため、一つのことを仕上げるための厳しさには指導者は妥協できない。でも、それについていけなかったからといって、だめではない。人には向き不向きがあり、全員が一つの目標に対してクリアできるわけではない。努力しても、たどり着けなかった人は、また、別の目標に向かっていけば良い。
集団行動では個人個人の自分勝手な意識でやっていてはいけない。自分で集団行動はこんなものだと思ってやっているだけではだめだ。勝手に決めてはいけない。指導者が言っている通りにやる必要がある。集団行動では監督が絶対なのだから。
監督の話は、どれもが心に突き刺さる。サンダル履きで合宿へ来た生徒への言葉もそうだ。
「階段で躓いて怪我したら、自分が一人怪我とか病気をしたら周りに迷惑がかかるという意識があるのか?それが集団なんだと意識してきたか?こんな格好で、こんな意識でいたら、話にならない。こういう集団なのか?これが日体大か?」
「限界に挑戦している時はそれだけに専心しなければだめ。」
「自分たちの成長に自信を持てるようになった時期が大切。」
しかし、なんと言っても演技を終えた、彼らに言った言葉が素晴らしい。
「ごめんね、長いこと文句ばかり言って。」
能力のある人間に、どれだけ厳しい指導をできるのかが、指導者の分かれ道。彼は、自分がどんなに大変な負荷を生徒達にかけていたのか十分知っている。知っている上で、彼らの限界を超えさせ、一つの明確な到達点にたどり着いたのだ。
陳腐な言葉だが、教育は愛情だ。彼言うと説得力がある。たとえ、指導法が間違っていたとしても、指導する人が一生懸命真剣に訴えたら、人はわかる。いくら綺麗なことを言っても、裏で不満を言っている人はわかる。
一生懸命何かをやるのは素晴らしい。それは言葉ではわかっているが、実際体験できる人は少ない。そういったチャンスを与えてくれた環境や指導者に彼らは感謝すべきだと心から思った。
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高等学校で、新学習指導要領に基づいて英語が行われるようになって半年が経過した。
「授業は英語で行うこととする」などという訳の分からない変更とともに、相も変わらず新しい指導法が押しつけられている。今のはやりはcan-doリストというものだ。要するに生徒が時期ごとに、何ができるようになるかを明示したリストであり、それに基づいて授業を計画するわけだ。英語の4技能のうちライティングを例に取ると、1年生の終わりには「身の回りの生活について5,6文で英語で表現できる」とか、2年生の終わりには「社会の問題に関して、意見を述べる事ができる。」なんて書いてある。それを、各学校で4技能について細かく作れというわけだ。さらに、can-doリストとシラバスを連動させ、バックワードデザインを元にして授業計画を作り、ルーブリックを用いて評価をしなさいと注文が来る。いったいこれは日本語なんだろうか? さて、表題に移りますが、アベノミクスに関してどう感じているだろうか?実は、専門家の間でも評価が割れています。「アベノミクスは効果が無い。景気回復基調は野田政権末期から始まっているし、株高もアメリカの景気が良くなってきたからに過ぎない。異次元の緩和策によってそのうち国債が暴落してしまう。」などという経済学者もいるし、首相のブレーンのエール大学の浜田さんなんかは、アベノミクス効果を信じて疑っていない。実は、経済学は学問として完成されていない。以前、ノーベル賞を取った経済学者たちがアメリカでヘッジファンドを建てたが、破綻してしまったという話があったが、絶対的に正しい理論など存在しないのだ。これはあまりにも不確定要素が多い人間が関わる活動だからであろう。宇宙のひも理論や数学理論などは人間の介在する場所が無い。したがって、紆余曲折はあっても、真理に向かって進んでいけるはずだ。だが、経済学はケインズ理論であっても、ある特定の条件でのみ成立するという人もいるし、真っ向から否定している人もいる。経済学はまだまだ未発達の分野であるか、地震予知学のように元々不可能な分野である可能性が高い。 英語教授法も実は完成されていない。母国語の獲得方法でさえ、まだ分かっていない事が多いのだ。「いわんや外国語をや」である。脳科学が発達してきたここ10年でようやくおぼろげに記憶のメカニズムがはっきりしたばかりである。シュリーマンのような言語の天才と一般人の違いもよく分かっていない。したがって、ここ30年だけでもいろいろな学者が英語学習の方法論や理論を発表している。そして、そのたびに日本の英語教育は右 往左往しているのだ。「文法訳読法」から「オーラルメソッド」や「オーラルアプローチ」など様々な方法を経ている。しかし、注意しなければいけないのは、学者が発表している理論はあくまで仮説の域を出ないことだ。ある特定の状況下でのみ、その効果が認められているに過ぎない。例えるなら、「リンゴダイエット」の次に「紅茶キノコダイエット」「断食ダイエット」とめまぐるしく変わるキャッチーなダイエット方法に食いついていくようなものだ。その度に、現場では少なからず混乱がおき、慣れない方法に四苦八苦して授業を進めることになる。can-doリストにしても、英語で授業を行うこと(イマージョン)に関しても、日本での実績があるわけでは無い。そんなあやふやな方法を全国で右へならえで実施するリスクにどう対処するのだろうか? 我々に必要なのは優れた理論ではなく、優れた実践である。教育現場は、まだまだ未発達の英語教育理論を行う実験場ではない。理論に裏付けされてなくても、日本という地理的にも言語的にも特殊な状況下で、ある程度効果があった実践方法を行うしかない。まだ、科学が発達しておらず、ウイルスや細菌の知識がなかった頃でも、風邪を引いたときには十分効果がある治療法があった。もちろん、現代科学で否定された民間療法もあるが、その多くは今では十分科学的裏付けがなされている。英語教育も同じである。耳障りの良いカタカナの方法論に飛びつくのでなく、上位下達で強制的に教授法を返させるのではなく、現場の教師達が試行錯誤しながら日々行っている実践を続けていくべきだと考える。 |
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全体的には難しすぎて、私の能力では理解することができませんでした。ただ、部分的に理解できたところに面白い内容が書いてあったので、まとめてみました。
□なぜジョニーは読むことができないのか
1950年代のアメリカで学力低下問題が起こったとき、教師が教え方をもっと熟達すべきという議論が起こり、文字の教え方について伝統的な方法を批判し新しい教授法を提案したルドルフ・フレッシュの「なぜジョニーは読むことができないのか」が話題となった。アレントは学力低下をあおり、教授法の革新を唱える風潮を厳しく批判した。これによって、教育は解決困難な課題を抱え込んだと憂慮した。 アメリカの学力がヨーロッパより劣っているのは、かの国より水準が劣っているからではなく、逆に、教育という特定分野で最も進んでいるからだ。アメリカの教育の危機は進歩主義教育の破産を意味している。さらに、この危機が大衆社会の要請に応えることから生じたが故の恐ろしく困難な問題の存在を告げている。
学力低下は教育の不足ではなく、教育の過剰によってこそ引き起こされる。教育学は教授法一般の科学になってしまい、その結果教師が身につける技能は教え方であって、特定の専門科目に習熟していることではないと考えられるようになってしまう問題である。学力問題が教育の方法や技術の問題へと還元されている。このことは日本における教員養成や教育改革の風潮にも色濃く影を落としている。
□ポピュリズムの罠
「ポピュリズム」は、「頑張ればみんなできる」という幻想に立脚しているという。言い換えれば平等主義と能力主義の結びつきである。そこには、大衆に対して、生まれたときはみんな平等、機会均等、あとは頑張って勉強すれば、社会的な地位が配分される、というメッセージが発せられている。したがって、「ポピュリズム」には自己責任論がつきまとう。できないのは、努力しない本人のせいである。 この流れの中で、「親力」つまり、家庭や親の果たす役割の重要性を説く傾向がある。家庭でもきちんと知的な訓練をしないと、学力向上は望めないという脅迫的対応へと向かっている。だが、親力の及ばないような子供の持って生まれてきたものや、その社会が与えるものが存在するので、親は子に対して決定的たり得ない。社会的、能力的不平等が再生産されるだけ。ポピュリズムの思想はヨーロッパでは1970年代には崩れ始めている。 また、明治の学制における「級」の思想(能力別生徒編成≒メリトクラシー)から「組」の思想(生活を共にする同年齢別生徒編成)へと移行してきたのが、再び、「級」の方向へ向かおうとしている。 □学校選択制とアカウンタビリティの特徴
ミネアポリス市 1970年〜2002年 学校選択の指標は「スクールアチーブメントデータ」という学校評価点。あわせて、学校ごとの貧困家庭の比率と英語を第一言語にしない児童生徒の比率が記載。したがって、学校評価点は単純に比較されず、貧困家庭の比率が高い、あるいは英語を第一言語にしない児童生徒の比率が高いにもかかわらず、ある一定の評価点を確保すれば、ハンディを克服した学校として高い評価が得られる。ただ単に点数が高いから人気があると言うことにはならなかった。 2002年〜2012年 NCLB法施行 テストで基礎学力を測定、テストは人種や生育環境を同じくするグループごとに分けて数値化。すべてのグループが同一の学力基準に到達できない場合には、学校はそれに対して説明責任を負わなければならない。具体的には、連続して到達できない場合には、制裁としてチャータースクールへの転換が迫られる。 結果としては、以前の制度で「ハンディを克服した学校」として表彰された学校(貧困家庭率80%、英語を第一言語にしない生徒率36%で、5点満点で3.11点)が警告を受けるという事態になった(黒人グループと低所得者グループが基準に達しなかった) 2013年〜 オバマ政権によりNCLB法破棄が認められる
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以上が、私が気になった部分である。これを読むと第一次安倍政権とこれから安部さんがやろうとしていることが如何に的外れかが分かる。まず第一に、学力低下を教員の質の向上という発想で克服しようとした教員免許制度である。質の向上に少しでも役に立つならまだ良いが、教える側の大学も参加している教員も罰ゲームとしか思っていない質の低い講習会である。今や何のためにやっているのかさっぱり分からない。また、特に英語教育で酷いが、教授法について文法訳読式は悪であるという発想の元、「英語で授業」やcan-doリスト、ルーブリック、タスクの活用といった大学で英語学を研究している大学教授の思いつきにつきあわされている。
さらに、「学びのすすめ」で家庭の教育の重要性を諭し、自ら学ぶ生徒(私はほとんどお目にかかったことがないが・・)による総合学習の時間での自立学習を勧め、全国統一テストを小5、中2?で実施して、アメリカよりもざっくりとした得点のみの発表をして、序列を作る。秋田や北陸などの教育を渇望し、誘惑がすくない県と大阪のような○○問題のある地域を多く抱え、学習以外に誘惑が多い県とを数値で比較しても仕方が無い。 勉強することが、将来への確実な切符ではなくなった先進国では、学力の問題はとても複雑で解決困難な課題である。もちろん、あきらめてはいるわけではないが、ちょっと方向性が違う現在の流れにただただ不安である。 |




