【ROKBOX】三日月みっつ♪

9/9◆かなり忙しいので、ちょっとお休みさせてもらっています。年末まで忙しいのですが、時間が出来たら遊びに行きますね!

戦国〜WARELIKE〜

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戦国時代に関する記事を、僕の視点で書いていきます。

ですから、教科書通りになってはいないこともあります。
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織田信長と明智光秀

この二人の最初の共通点


それは

斉藤道三

だった

マムシと呼ばれるほど粘り強い戦術・戦略・策略で有名だった道三

彼が自らの子供より愛した二人が

信長と光秀であった


信長の父・信秀は大軍今川勢を撃退する程の才能を持っていた

また道三はその信秀を再三撃退する才能を持っていた

縮小版 信玄・謙信 とでも言えるだろう


そんな高い才能を持つ二人が認めたのが信長で

そして道三は予言した

「やがて俺の子等は、あのたわけ殿の門前に馬をつなぐことだろう」

つまり・・自分の死後、織田信長の軍門に下るだろう・・ということだ


この点を踏まえても、光秀より信長の評価のほうが高かったのだろう

光秀の嫉妬の始まりだったようだ


また光秀は古きよき時代を愛した

特に神を拝んだ

しかし信長は神聖な延暦寺を焼き払い

高野山を攻撃した


ふるきを愛しつつも、光秀は道三に教えられ

銃の扱いに長けていた

光秀の誇りだった

しかしそれすら信長は覆した

「三段撃ち」

武田の最強騎馬隊を撃墜した戦法だ


光秀は生真面目な男で、人望が薄かった

信長は派手好きな男で、カリスマ性にあふれていた

この差が響き、光秀は部下に恵まれなかった

(補足:光秀に優秀な部下がいなかったわけではない。ただ少なかった。)


光秀は母親を人質に出して

信長はそれを無視し、母親のとらわれている国を攻めた

さだかではないが、そこで光秀の母親は殺されたと言われている


光秀は濃姫と結ばれる運命だったかもしれない

しかし結ばれたのは信長だった


光秀は自分こそ天下人になる人間だと思っていた

自分こそ最も優れた武将だと思っていたのだ

しかし現実では信長が上だった


他にも光秀は信長に足蹴にされたり

投げ飛ばされたり

遺恨・嫉妬を数えだせばきりがないだろう



最後には領土没収


これが引き金となり


その全ての負の力が信長抹殺に駆り立てた



[1582年6月2日]


本能寺の変が起こり

信長はこの世を去った



【辞世の句】


『人間五十年 天下のうちに比ぶれば 夢幻のごとくなり 一度生を得て 滅せぬもののあるべきか』


特に信長は


【にんげんごじゅうねん てんがのうちに くらぶれば】

【ゆめまぼろしの ごとくなり】


この言葉が好きだったという



・・・どんなに天才であろうとも

何が起こるかわからない

凡人が天才を打ち倒す

そんな一大事件だった


[1582年]

五月十五日



明智光秀は信長からこのような内容を付きつけられた

「出雲・石見(両方、現在の島根県)の二国を与える。しかしながら、明智領の近江(滋賀)・丹波(兵庫)の二国は召し上げる」

詳しく説明すると

現在光秀は、近江・滋賀と丹波・兵庫の二カ国から得る金・米で

自ら食べ、兵を養っている

しかし、それを信長は取り上げ

現在、毛利領の出雲・石見国を与えるといったのだ


これには一つ問題があった


百歩譲って、出雲・石見が織田領ならまだいい

しかし現在その二カ国は、大国である毛利領なのである

大国ゆえに攻め落とし取り上げるまで、約1年はかかる

その間、一切の収入がないということになるのだ


誰であろうこれには憤慨する

自分の命が危機に瀕する問題なのだから


ここで光秀の頭には、例の佐久間信盛がよぎった

( 佐久間信盛追放事件→http://blogs.yahoo.co.jp/rok_dorafa/7273405.html

当然、光秀は信盛の二の舞になることを恐れた

・・・これは「現実に起こった話」なのだから当然だろう

普段の恐れより、いっそう緊迫感のある恐れだった


五月下旬


彼は毛利家討伐の準備をしていた

当然、急ぎ落とさなければ金・米は底をつくだろう


当時の武士は頭を下げるくらいなら

切腹のほうがましだなどと、平気でいう人もいた

光秀もその人種だった

当然、金・米がつきれば頭は下げる

自分のためではない、部下のためだ

しかし、そのときの屈辱は耐えがたいものである


なぜかわからない人の為に、ここでいくつかある現在とは違う

当時の「常識」を説明しておく


1、「義理」という言葉はない

2、「裏切り」は見方によっては美徳である

3、「恥」これこそが最大の屈辱である


「1について」

当時は義理というその文字すら知らないのが現状だったと思っていい

当然、義理を果たすということもない

定着したのは江戸時代である

「2について」

裏切りを罰するのも定着したのは江戸時代

いま、みなさんが持っているの武士の概念は江戸時代に作られたと思ったほうがいい

当時

「武士は3度主人を変えて一人前」

(正確な言葉は忘れました。すいません。)

というような意味の言葉があったくらいで

主人を変えるということは、つまり主人を裏切るということなのだから

この時代どれだけ上下の繋がりが、あくまで儀礼的であり薄かったかがわかる


事実、戦国大名は守護大名という主人を殺し

自らが大名になったものがほとんどで

(武田家や島津家を除いたほとんど全ての大名がこれに当たるといってもいい)

むしろ裏切りで教養や実績を得たならば、高く評価されたくらいだった

「3について」

臆病者などとののしられれば、当時の武士は味方であっても平気で

切りかかったという文書が多く残っている

現代のアメリカと非常に似ているといえる


信長に散々に光秀はその「恥」をかかされていた

時に足蹴にされ、時に投げ飛ばされ、しまいには領土も取られた




その光秀がついに信長抹殺を決心した

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[1582年] 2月1日


ついに武田家を飲み込むときが来た


織田家当主・信忠は調略に成功し

信州の木曽義昌が内通に応じた


それをもって信忠は父・信長に報告

信長出馬が決定した


2月2日


武田家当主 武田四郎勝頼は木曽謀叛の報を受け

一万五千余の兵を率いて備えを固めていった


2月3日


織田家の出陣と共に

徳川家当主・徳川家康

北条家当主・北条氏政

が出馬した

(すでに北条はほぼ同盟国の状態になっている)


2月6日には武田家・家老(今で言う大臣クラス)である

下条九兵衛が逆心を企てて織田勢へ通じてしまった


2月14日には武田家・小笠原氏が内通を申し出てきたため

それに呼応し織田勢は進軍

武田家は素早く退却した


3月2日


時は進み 攻め進み


信忠の軍勢が篭城戦場に到着し攻めかかった

武田家は壮絶な死闘を繰り広げた

流石の武田兵であった

しかし名将・仁科盛信をはじめ多くの首が取られた



そして信忠は東国において強者の名も隠れなき武田勝頼に立ち向かった

そしてその勝頼が要地と考え

屈強の兵を入れ置いて守らせていた名城の高遠城へ一気に乗り入り

これを攻め破ったことにより、信忠殿は東国・西国に聞こえる栄誉を得た



この二つの大きな敗戦で

武田勝頼は孤立した

本城を捨て、配下の名将・小山田信茂をたずねた


小山田信茂はここに至って無下にも勝頼を突き放し、一行の受け入れを拒否した


その後一行はやむなく田野(山梨県中央部の現・大和村)という地の平屋敷に

にわか作りの柵を設けて滞陣し、しばし足を休めた。



3月7日


信忠は信濃から甲府に入り

武田勝頼の一門・親類・家老衆をことごとく成敗していった


3月11日


武田勝頼父子とその一門が駒飼(山梨県中央部)山中に引きこもっているとの報が

滝川一益のもとへ届いた

一益はすぐさま配下に先陣を命じ、かれらの下知のもと周辺を包囲した

すると逃れがたきを悟ったか

勝頼らはさも美しき歴々の上臈衆・子供たち四十余人を一人一人引き寄せ

花を折るがごとくに刺し殺していったのだった


その後残った者たちは散り散りになって織田勢へ切って出

おのおの討死を遂げていった


こうして武田家は滅亡した・・・



武田家は戦国時代、信虎・信玄・勝頼と続いた

その間殺めた人数は数知れず

最後は酷い死に様で

ここに因果応報となった



春の訪れ 世は光る

嗚呼 哀れなるは 四郎勝頼


[1581年]

まだこのころは羽柴性だが

秀吉は毛利氏と戦っていた


10月


毛利氏といえば中国地方の覇王

領土の大きさで言えば

関東の北条氏と同等だった

数年前の信長では歯が立たなかったであろう


大毛利元就は1571年に死去した

彼はそのさいミスを犯した


「領土を拡大するな」

「守ることに専念せよ」


自分がいなくなったら毛利は弱くなると

思い込んでいたのだろう

実際は逆だった


毛利氏がそのまま領土拡大していれば

天下を取れた可能性のほうが高い

信長が天下の信長になったのはここ数年


信長が包囲網に苦しんでいるとき、すでに毛利家は中国地方の覇王だった


そんな毛利もすでに衰えた

毛利氏に攻撃を仕掛けるものなどほとんどいない

だからそして戦う人数も限られる

自然、毛利兵隊は弱くなる


逆に織田家の兵は戦いを重ね

日に日に戦法が磨かれ

兵力は増している


毛利元就・武田信玄・上杉謙信・北条氏康が死んだ今

もはや敵はない



いま秀吉は鳥取城を包囲していた

毛利は守り体質からか、すでに篭城を決めていた

農民から兵士まで城に篭った


しかし戦争慣れしていないため

篭城の準備を怠った

毛利の名門・吉川家の指揮する城だったのにもかかわらず

準備を怠った

そのため、すぐに食料は尽きた


現在の食料は「雑草」

それも尽きたころには

「牛馬」


・・ときおり農民が数人

「ここから出し候え、助け候え」

と織田兵に空腹で出ない声で叫び哀願した


しかしそのたびに鉄砲で撃たれた


まだ息のあるその者のまわりへ、人が群がった

生きた「人肉」に群がった



・・結局

毛利方は吉川経家・森下道与・奈佐日本介の首と引き換えに

城中の者たちの助命を乞うた

秀吉はその申し出を信長に告げ、許しを得た


そしてその3人の武将は腹を切り

農民・兵は開放された


そしてあまりの哀れさに秀吉は食物を振舞った

しかし過半数は食べる力もなく

命が尽きたという


戦争の悲惨さ

敗北国の悲惨さ

体験しなくとも歴史は教えてくれる


[1581年]


佐久間信盛の追放が波紋を呼んだが

信長に逆らえるものはなく

これまでどおり順調に領土拡大は進んでいた


昨年末に

柴田勝家は加賀一向一揆を鎮圧

加賀を平定した


また勝家の平定と同じころ、徳川家康も武田家の守る遠江・西静岡の高天神城を

家康自身が在陣して包囲した

そして今年3月終わりには武田勢は過半数が餓死し

大勢が確定していた

理由は当主・武田勝頼が見捨てたことにある

君主として最低のことをしたことが

武田家の滅亡を早めた



このように信長サイドの作戦は非常に順調だった


中国地方も秀吉・光秀が出陣していた



そんなある日の8月17日

信長は紀伊・和歌山にある真言宗総本山・高野山の

高野聖(高野山における僧侶の中で最下層に位置づけられた人々)

を尋ね出し、数百人を捕らえてことごとく誅殺した

それは延暦寺での魔王の再来と恐れられた



また信長は同年10月伊賀・三重の伊賀侍衆を虐殺した

伊賀侍は基本的に中立をとっていた土豪だった



このようなことにより信長はいっそう恐れられた

民衆だけではない

将たちにも必要以上に恐れられた



しかしこの二つの虐殺には理由があった

高野山は真言宗の総本山ということにおごりをもった

そのため、中立といいながら敵大名に味方した

その点延暦寺と変わらない

正確には摂津伊丹にいた荒木村重残党を抱えこんでいた


そのため、信長はそのうち二名を差し出すよう朱印状をもって要求していた


残党狩りは当然といえる

これをしなければ敵勢力が増えるのだから


しかし高野山はおごり、これを無視しただけではなく

この時の信長の使者を10数人を

皆殺しにした

当時、使者を殺すことはありえなかった

敵地に赴いた勇敢な兵を殺すなど

言語道断だ

しかも殺したのは

僧侶


・・・どちらが正しいか??

・・・これでも信長は魔王と言えるのだろうか??


さらに伊賀では息子・織田信雄の責任だった

時に欲望は最悪の結果を生むという、いい例だ

信雄は信長に褒められたかった・認められたかった

おそらく嫉妬だろう

信忠が認められ、信長が健在の今、すでに織田家当主になっている

(実権は信長だが)

同じ兄弟が同じ舞台で出世するのを見るのは辛いだろう

気持ちはわからなくはない

しかし伊賀は手を出すほどの大きな勢力ではなかった

向こうもそれをわかっており

小さな反抗しか見せなかった


しかし信雄は彼らを殺そうとした

手柄を立てようとした

そして結果、信雄は負けた

無能だったのだろう


しかし織田家に負けは許されない

負ければ織田家の威信にかかわる

各国がまた活性化して

無用な殺し合いが始まるかもしれない


そのためその戦を放置することが出来なくなり

殺しあうことでしか決着が付かないところまできてしまった


結果が伊賀の虐殺だ


これは天下統一を狙うなら必然としか言えないだろう

これでも信長は魔王であったのか



欲・おごり・慢心など

人だけが持つといってもいいこの感情

これが表に出たら異常なことがおこるということを

歴史は物語っている

高野山のお土産といえば、お守りが有名

しかしこのような過去を持つ高野山に

ご利益があるとはとても思えない


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