小説 フジモリとデモクラシア

2000年の大統領選挙。あのときペルーで何がおきたのか。

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昨夜3月23日の夜にBSフジで放映された「官僚批判の論理と心理-デモクラシーの友と敵」の著者、野口雅弘氏を招いてのインタビュー番組は面白かった。

著者は、ポピュリズムに走りがちな今の日本社会の傾向を懸念し、それに警鐘を鳴らしているものと理解した。

この番組をみていろいろと考えさせられた。

以下は、著者が直接指摘したことではない。番組を見て一視聴者として感じたことである。


最近の世論調査では支持政党なしが48.7%に達している(NHK調査)。
国民の半数近くが、政治が民意を反映していないことにフラストレーションをつのらせている。

しかし、総選挙がおこなわれたとしても現状では支持できる政党が存在しない。

政治や行政に対する不信がカリスマ指導者を求める傾向を生みやすい。
わかりやすい、単純化した主張をする政治家が絶大な支持を得る土壌が作られつつある。


最近の日本では、政治家もメディアも、もっぱら官僚たたきに明け暮れている。
政治の無能のはけ口が公務員に向けられている。

民主党政権は公務員の俸給を切り、定員を大幅に削減する。
しかも、公務員の新規採用を09年度比で7割以上削減するという。

それが国民の信頼と納得を得る上で不可欠だと主張している。ポピュリズムというものは必ず国民を引き合いに出す。


しかし、この政策はどこかおかしい。
それは本当に国民が求めていることなのだろうか。


従来の行政に問題があるのであればそれを改める必要はある。
それは絶対に必要なことである。責任感があり、透明性のある、効率的な行政にしなければならない。

しかし、だからと言って行政府そのものを破壊し、弱体化してもよいというものではない。
それどころか今の日本は、今までになく優秀なテクノクラート集団を必要としている。

未曾有の危機を乗り越えるためには救国の意志と能力のある献身的な行政官が大量に必要だ。
そのようなときに、新規採用を70%削減するというのは信じられない政策決定に思えてならない。


今の日本は、簡単にまとめると次のような困難に直面している。

産業の衰退と超低経済成長。高失業率と低所得社会。高齢化社会と年金医療制度の危機。止まることを知らない巨額の財政赤字の累積と国債の暴落の懸念。そして銀行の破綻と国民の預金消滅へと連鎖してゆく国家破産の脅威。首都直下型巨大地震の現実的な可能性。いつ終わるとも見通しのつかない原子力災害の収拾。電気料金の値上げと増税という形で全国民の負担になってくる天文学的な賠償と補償。

それに加えて日本の手ではどうすることもできない国際政治や国際経済の構造的な変化。欧米の政治的、経済的凋落。新興国の勃興と強まる自己主張。近隣諸国からの政治的軍事的な脅威の増大。先の見えないアラブ諸国の革命の連鎖と産油国不安定化の懸念。そして石油価格の歴史的な高騰など。

さらには人の手ではどうすることもできない大規模な自然災害の頻発。日本経済に大きな打撃を与えたタイの洪水。原発抜きの電力事情に大きな影響を与える寒波、猛暑など。


どの問題をとっても優秀なテクノクラート集団の専門知識を結集して総力をあげて対応しなければならない問題ばかりだ。

それを効率的に組織するのが政治の役割である。
行政府を強化し、危機に対応できるようにすることが、今、緊急に求められている政治である。


日本では、政治主導が声高に叫ばれている。
では、政治家たちが主張している政治主導とは何なのか。


民主党政権の福島原発事故への対応ぶりが明らかになってくるにつれて、その実態が明らかになってきた。
それは、ズブの素人集団による衆愚政治にほかならない。

大勢の副大臣、政務官たちが各省に乗り込んできて政治主導の睨みをきかせている。彼らは一体どれほど行政に貢献しているのだろうか。


国がこれほどの危機にみまわれているという時に、恐ろしいことだ。
行政府が危機に瀕している。民主主義の根幹である三権分立が、なし崩しに破壊されようとしている。


「官僚批判の論理と心理-デモクラシーの友と敵」の著者は、わかりやすい、単純化された主張をする政治に対する警鐘を鳴らしているのだと思う。

日本人の思考は、本来、欧米思考とは異なる複眼的な思考にその良さがある。

単純にものごとを割り切らない忍耐強い思考。
日本の歴史と文化の結晶である日本的な「ものの見方、考え方」に日本人のよさがある。

右に左に揺れ動きながらそれでもなお忍耐強くよりよき途を模索する。それが日本人なのだ。


しかし、今や流動化した日本社会にあって、軸足が定まらない日本の政治にしびれを切らせた有権者は多いと思う。

支持政党がないと感じている国民、つまり政治が民意を反映していないと感じている国民はすでに述べた通り48.7%に達している。

だが、ごたごたに苛立ってはならない。ゴタゴタに耐えなければいけない。しびれを切らしてはならない。わかりやすい、単純化された思考の主張に流されてはならない。

声高に自己主張することを好まないもの言わぬ日本の政治的無党派層は、じつは非常に知的な人たちだ。
「良識」と呼ばれる日本的な「ものの見方、考え方」をもった人たちだ。

かれらが戦後の日本の政治の方向を決めてきた。これからもそうでなければならない。


ポピュリズムに流されがちな現代日本の政治状況に対する著者の警告は、日本人らしい「ものの見方、考え方」を忘れるな、ということを言いたいのだと思う。

日本が進むべき道を見失いつつあるときに、勇気をもって「官僚批判の論理と心理」というテーマを世に問うた野口雅弘氏に敬意を表したい。

また、官僚たたきだけをしていてそれでよいとしているメディアにあって、2時間にわたってこの番組を放映したBSフジを見直した。

(了)
昨日、NHK BS プレミアムで面白い番組を見た。

オペラ歌手岡本喬生さんが、自分なら蝶々夫人をこう演出すると意気込んで日本人の眼から見たオペラ"蝶々夫人"をイタリアで公演しようとした。

結果は、気の毒にも岡本さんの挑戦はヨーロッパ人の思考と価値観の壁にぶつかり敗北した。


蝶々夫人のオペラは今まで何度か観たが、オペラとしてのすばらしさに感動するとともに、最後にはいつも日本人としての何とも言えぬ違和感が残っていた。

それは日本女性がアメリカ人にもてあそばれて棄てられたという話の筋書が面白くないばかりではない。
中国と日本をごちゃ混ぜにした舞台装置、役者の衣装、物腰などすべてがどことなくおかしい。

そして、キリスト教に改宗した蝶々夫人を仏教の僧侶たちから迫害される場面など、ものごとを対比、対決させて見るヨーロッパ人的なものの見方、考え方、価値観が随所にあって、それが日本人であるわたしの違和感につながっていたのだと思う。


岡本さんも蝶々夫人にはわたしと同じような違和感を感じていたのだろう。日本人の価値観で蝶々夫人を演出したならばこうなるというところをヨーロッパ人に見せたいと思われたのであろう。

ヨーロッパ人は、自分たちのものの見方、考え方、価値観で異文化社会を評価し、自分たちのものの見方、考え方、価値観で結論を出す。

その結果、日本人のありのままの姿がヨーロッパ人の価値観で歪曲されて、現実の姿からはかけ離れた日本人のイメージが作られる。

それがおかしいと日本人が発言すると、相手からは日本人が想像もしなかったような反応や反発がかえってきて、議論がすれ違い、議論が議論として成り立たない状況が生まれる。


日本についての誤ったイメージが100年以上にわたって世界に発信され続けていることについて、日本人としては黙ってはいられない。

そこで少なくともありのままの日本や日本人の姿を描写してほしいと願う。

しかし、先方は、オペラ蝶々夫人の対日認識が間違っていてもそれでよいのだという。

オペラ蝶々夫人はそういうものとして芸術性が評価されてきたのだからプッチーニの原作に手をつけることは許せないと頑張る。

それも一理ある。


しかし、日本人が、もし西欧人と同じものの見方、考え方、価値観をもっていたらどうなるであろう。

人種偏見だと言って世界中における蝶々夫人の公演の中止を声高に訴えるだろう。

それが国際社会における普通の反応だ。

日欧間の文化摩擦に火がつけられる。


しかし、日本人はそんなバカなことはしない。

日本人として違和感を感じていてもヨーロッパ人の価値観によって作り出された蝶々夫人のオペラとしての芸術性を評価し、尊重しているからだ。

そのために日本人は自らが偏見を持って見られることをも甘受する。

そしてそればかりではない。

日本人はヨーロッパ人と共にそれを観賞することを楽しむ。日本人もヨーロッパ人とともに蝶々夫人を唱う。

そんなことはヨーロッパ人には考えられないことだが、日本人にとっては不思議なことではない。

それが日本人なのだ。

日本人と欧米人とのものの見方、考え方と、そこから生まれてくる価値観には根本的な違いがあるように思う。


岡本さんの試みは、ヨーロッパ人のものの見方、考え方、価値観に対する日本人のものの見方、考え方、価値観の真っ向からの挑戦にほかならなかった。

そして、岡本さんはその挑戦に敗れた。

なぜ、敗れたのか。

それを知るには、欧米思考がどのようなもなのか、そして日本思考がどのようなものかを客観的に知る必要があるのではないだろうか。


岡本さんが敗れたとはいえ、欧米的な思考と価値観が絶対的に正しいというものではなく、日本的な思考と価値観が絶対的に間違っているというものではないはずだ。

双方に良い点、悪い点があるはずだ。

それを客観的に知り、欧米思考にはない日本思考の良い点に対する自信を持ち、欧米思考に対して冷静に対応する必要があるように思う。


番組の中でインタビューを受けたスズキ役のイタリア人の歌手が、日本人を知らないままにスズキを演じることに居心地の悪さを感じているらしい応答ぶりが印象に残った。

日本人も欧米人も、同じ人間としてそれほどおおきな違いがあるわけではない。

ちがうのは、それぞれの歴史と文化の結晶である「ものの見方、考え方」と、そこから生まれてくる「価値観」だ。

このイタリア人女性は、岡本さんの挑戦に対して自分たちの価値観が絶対的に正しいと開き直るだけの自信がなかったのであろう。

このようなヨーロッパ人を見るとこよなく親しみを感じる。


(2011.12.05)

フジモリ裁判の現状

二〇〇九年十一月、ペルー。
七十一才になったフジモリ元大統領に対する裁判も大詰めを迎えている。

フジモリ元大統領に対しては数多くの告発がおこなわれてきたが、そのなかでも主なものは、一九九〇年代のはじめにテロとの戦いの過程でおきた軍部による市民虐殺事件であるバリオス・アルトとラ・カントゥータ事件についての責任、モンテシーノス元大統領顧問を解雇するために一五〇〇万ドルを慰労金として公金から支出しようとした責任、政敵の電話盗聴、メディアや議員の買収に関する責任である。

 ペルーの最高裁特別刑事法廷は四月七日、バリオス・アルトとラ・カントゥータ事件について、人道に反する犯罪を指揮したとしてフジモリ元大統領に対して重殺人、傷害、拉致の罪で禁固二十五年の有罪判決を言い渡した。

 また、同裁判所は七月二十日、モンテシーノスに対する慰労金を公金から支出しようとしたことに対して禁固七年六ヶ月、二年十ヶ月の公民権停止、三百万ソルの罰金を言い渡した。

 次いで同裁判所は九月三十日、政敵の盗聴、メディアや議員の買収などの罪として、禁固六年、二年の公民権停止、国家に対する賠償金二千四百万ソルおよび盗聴被害者個々人に対する三百万ソルの賠償の判決を下した。

 ペルーでは複数の判決は加算されるのではなく最高刑が適用されるといわれているので最高二十五年の禁固が適用されることになる。

 判決については、最高裁特別刑事法廷では1回に限り最高裁内の上級審に控訴が可能で、フジモリ元大統領側は控訴しており、十一月二十三日から三日間の予定でバリオス・アルトとラ・カントゥータ事件についての最終審がおこなわれることになっている。

 二〇〇六年にガルシア政権が誕生して以来すでに三年がたち、ペルーでははやくも二〇一一年の大統領選挙に向けた動きが始まっている。

 十月に世論調査会社IMAがおこなった支持率調査では、リマ市長のルイス・カスタニェーダが20・5%、国会議員のケイコ・フジモリが20%、前大統領のアレハンドロ・トレドが14%、国民団結連盟(UN)党首のルルデス・フローレスが11・2%、ペルー・ナショナリスト党(PNP)党首オジャンタ・ウマラが7・8%となっている。

 フジモリ元大統領の長女ケイコ・フジモリは、自分が大統領に当選した暁には父親の恩赦を実現すると明言している。


(関連記事)

(1)2009年4月5日にオバマ大統領がプラハでおこなった演説はすばらしいものだった。
アメリカの大統領が「核保有国として、核兵器を使用したことがあるただ一つの核保有国」であるということを公に認めたこと、そして、核軍縮のイニシアチブをとると発言したということは日本人にとっては思いもよらないことだった。
なぜかというと今までアメリカ人の意識の中には広島・長崎が完全に欠落していたからだ。それがアメリカの大統領自身が広島・長崎を認めたからだ。
そして核軍縮。
核兵器国に取り囲まれている日本には核兵器国になる選択肢はない。政治的にも、経済的にも、軍事的にも日本には非核兵器国として自国の安全を確保してゆくしゆくしかない。
そのような日本とってはアメリカの核の傘が必要だが、究極的にはすべての核兵器国に核を放棄してもらうしかない。
そのイニシアチブをアメリカ自身がとるという。
日本人としてはオバマ大統領のプラハ演説を、歓喜をもって歓迎せざるをえない。

(2)しかし、オバマ演説は、唯一の被爆国である日本を念頭においておこなわれた演説だったのだろうかというときわめて疑問である。
アメリカという国は、政治のゲームをする国である。
オバマ演説の本来の標的は、核兵器国ロシアであり、核兵器国中国であり、事実上核兵器国となっているインドでありパキスタンであり、そしてこれから核兵器国になることを目指している北朝鮮とイランだったのではなかったのか。
そればかりではない。核武装に走るかもしれない日本を念頭においていたのかもしれない。
日本からのオバマ演説を歓迎する声は、アメリカにとってはむしろ思いがけないことだったのではないだろうか。

(3)オバマ大統領は、「ゴールはすぐには到達できないでしょう。私が生きている間には恐らく難しいでしょう」と慎重に留保を付している。
ロシアや中国、その他の国が核軍縮や核の放棄に応じない場合には、アメリカは一方的に核軍縮をすることはないという留保だ。
ということは、何ら現状が変わるわけではないということだ。
オバマ大統領がアメリカの一方的な核軍縮を宣言したのであれば評価に値する。しかし、そうではないのだ。
アメリカは、率先して核軍縮を宣言することによって、ロシアや中国などに対して外交的に有利な立場に立とうとしているのかもしれない。

(4)アメリカという国は、自由や民主主義や人権を外交の手段につかう国だ。
従軍慰安婦問題では、従軍慰安婦問題の当事者でもなく、歴史認識の当事者でもないアメリカが、従軍慰安婦の人権を盾にして日本に歴史認識を迫ってきた。
人権を外交の手段に使うというのは、カーター大統領に始まるアメリカ民主党の悪しき伝統だ。
核軍縮の宣言も、ほかの核兵器国に対して外交上のカードとして使うことを宣言したにすぎないのかも知れない。
アメリカという国を知ってみると、オバマ演説をそのまま素直に受け入れることには躊躇せざるをえない気持ちが心のどこかにある。

(5)そのオバマ大統領に、ノーベル賞が与えられることになった。
オバマ大統領の言葉が実行されれば、それほどすばらしいことはない。
しかし、オバマ演説は、アメリカの一方的な核軍縮を宣言したのではなく、なんら現状とかわりないことを宣言したにすぎない。要するに政治のゲームをおこなっているにすぎないと見られても仕方がない。オバマ大統領にノーベル賞というのは、ノーベル賞委員会もまた政治のゲームを演じているということである。無責任なことだ。
ノーベル賞の金メダルが核兵器保有国に対する実質的な圧力になるのならともかく、見え透いた政治のゲームはなんの効果もないばかりか、かえってノーベル賞の信頼性をそこなうばかりだ。
オバマ演説はまだ全てが未知数だ。オバマが去れば雲散霧消するかもしれないのだ。そのようなときにノーベル賞を与えることの実質的な意義をみつけることはできない。(了)

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