小説 フジモリとデモクラシア

2000年の大統領選挙。あのときペルーで何がおきたのか。

はじめに

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はじめに(1)

            



はじめに



 アルベルト・フジモリが大統領として三期目の立候補をした二〇〇〇年のはじめから、アレハンドロ・トレドが天下をとる二〇〇一年七月までの一年半の間、ペルーでは、「デモクラシア」(民主主義)の嵐が吹きまくった。

 この間のペルーの政治は津波のように押し寄せる「デモクラシア」という叫びによって激しく揺り動かされた。

 フジモリ政権を崩壊させ、トレド政権を成立させるエネルギーとなった「デモクラシア」ではあるが、この理念の発現形態をみていると、デモクラシアとは何か、民主主義とは何かという問題をあらためて考えさせられた。


 ペルーという国と社会は、多くの複雑な要素から成り立っている。

 まず、ペルーの対外的な顔となっている、知的、文化的、政治的、経済的に欧米人にまさるともひけをとらない多くの優秀な白人ペルー人たちがいる。

 その一方で、ペルーの人口の大多数(あえてくりかえすが文字通り「大多数」なのである)をしめる勤勉で忍耐強い先住民と混血ペルー人がいる。

 とてつもない資源大国でありながら厳然として存在しつづけるいちじるしい貧困。その貧困に密接に結びついている麻薬その他の犯罪とテロの潜在的な脅威。

 政敵の攻撃には手加減を加えることのない妥協を許さない厳しい政治のゲームのプレーヤーたち。

 政治のゲームの喧噪の中にあって国の進むべき道を必死に模索しようとする多くの政治的無党派層のひとたち。

 敏感に揺れ動くかれらの意識を追い求める世論調査会社。

 さらには、ラ米の国として、ペルーもまた、好むと好まざるとにかかわらずアメリカの強い影響の下におかれているという現実。

 そして、われわれ日本人の精神的、文化的、生物学的な遺伝子を受けついで、日本的な価値観を残しつつ、いまやペルー社会の不可分の構成員となっている実直な日系ペルーのひとたちがいる。


 ペルーという国と社会は、これらの多数で複雑な要素がからみあって日々激しく躍動している。

 フジモリをめぐる問題を、公平に、客観的に、かつ、わかりやすく説明することは容易なことではない。

 そこで、ペルーで起きたことを報道されたままに書くことによって、読者に、ペルーという国と社会、ペルーの政治と国民性、そしてペルーの人々にとっての民主主義について、じかに体験していただくほうが近道だと考えた。

 この記録は、この一年半の間に、デモクラシアという名のもとに、ペルーでおこったことを、新聞、テレビ、ラジオなどのメディアの報道に基づいてそのままに綴ったものである。

 ここに書かれてあることは、当時、すべてのペルーの市民が、メディアによって日常的に、見せられ、聞かされ、知らされたことばかりである。


 ところで、この記録を読んでいただく前に、読者の便宜のために二〇〇〇年のはじめから二〇〇一年七月までにペルーで起こった出来事の概略を記しておく。

 それに、フジモリが登場するまでのペルーがどうだったのかということと、フジモリ政権の十年についても記しておくことにする。二〇〇〇年のはじめから一年半の間におきたことは、それ以前におきたことと密接に関連しているからである。



目 次








はじめに(9)




(5)逆風の中での三回目の立候補


 二〇〇〇年の大統領選挙が近づくにつれて、ペルーの司法や選挙管理機関の独立性に対する疑問が提起されるようになったり、報道の自由に対する侵害が指摘されるようになるなど、ペルーにおける民主主義の状況について国の内外からの圧力が強まってきた。

 その点ではとくに米国議会の態度には厳しいものがあった。


 一九九九年十月四日、米国議会下院は、選挙管理機関の独立性、報道の自由の侵害を憂慮する決議を採択した。

 この決議は、(イ)司法及び選挙管理機関の独立性の侵害、報道の自由に対する妨害は、ペルーの民主主義を脅かすものであり、米国は米州地域の一員として憂慮する、(ロ)米国政府及び米州地域各国は、ペルーにおける民主主義、報道の自由、司法の独立への脅威について米州人権委員会が行う報告を検討すべきである、(ハ)ペルーにいる米国の代表及びOAS(米州機構)、世銀、IDB、IMFなどの国際機関における米国の代表は、ペルーにおける民主主義への脅威及び法の侵害について米国の懸念を明確にすべきである、と述べている。


 この米国議会下院の決議に対してフジモリ大統領は、翌十月五日、コメントを発表、現段階でペルーの民主主義は完璧なものではないが、ペルーは民主主義の強化に向けて取り組んでいると述べ、選挙管理機関などへの介入はおこなっていない、ペルーは深刻な国内状況を改善させたが、最近までテロに脅かされる状況にあった、麻薬対策ではペルーは米国のよき協力者であるなどと述べ、とかく批判の多かった国家情報局(SIN)については、今後しかるべき国家機関の監督のもとにおくと釈明した。


 国家情報局(SIN)については、主たる任務がテロ対策と麻薬対策であったものの、テロが収束した時代になってからは、収集した秘密情報を政治目的に使っているのではないかと噂されるようになっていた。

 そこでフジモリ大統領に対しては、どこまで国家情報局(SIN)の活動を規制できるのか、とくに大統領顧問であり国家情報局の顧問でもあるモンテシーノスの職務範囲をテロ・麻薬対策に限定できるのかどうかなどといった点が注目されるようになっていた。


 フジモリ大統領の釈明にもかかわらず、十一月八日、米国議会上院もペルーにおける司法及び選挙管理機関の独立の侵害、報道の自由に対する侵害等について懸念を表明する決議をコンセンサスで採択した。



 このような状況の中でフジモリ大統領は、一九九九年十二月二十七日、大統領選挙第三選への立候補を決意した。

 第一副大統領候補にトゥデラ国連大使を指名し、第二副大統領候補にマルケス現第一副大統領を指名した。


 もしフジモリ大統領が三選出馬をすることなく身を引いていたならばおそらくペルーの歴史に残る名大統領となっただろうということは当時、よく耳にした話である。


 それではなぜあえて立候補を決意したのか。


 いまそれをうかがい知ることはできないが、以下に、フジモリ大統領が三選に出馬して国内、国外の抵抗にあいながら第三期政権を発足させるまでのこと、大統領の側近のモンテシーノス顧問が野党議員を買収しているビデオが暴露されてからフジモリ政権が崩壊するまでのこと、そしてその後のパニアグア暫定政権を経てアレハンドロ・トレド候補がペルーの大統領に就任るまでのことを、新聞、テレビなどの報道に基づいてそのまま綴ることにする。




「はじめに」
(了)


はじめに(8)




(4)批判された強権政治


 このような実績がある反面、フジモリ大統領の政治の強権的な側面に対しては国際社会からも批判され、司法改革、民主主義の強化、人権分野、などにおいては十分な成果が見られていないなどと指摘された。

 フジモリ大統領の支持率は、一九九七年の日本大使公邸占拠事件の解決で高い支持を得たあとは、二十%台にまで低落した。

 その原因としては、大統領三選問題、憲法裁判所判事罷免事件、イフチャー事件などといった問題があり、それに構造的な失業・貧困問題が不人気となった原因といわれた。



 フジモリ大統領の三選問題というのは、フジモリ大統領が二〇〇〇年の選挙に立候補する資格があるかないかという問題である。

 一九九三年に改正された憲法は一回のみの連続再選を認めている。

 一九九〇年に就任し、すでに二期つとめているフジモリ大統領に、三回目にあたる二〇〇〇年選挙に立候補する資格はないというべきなのか、あるというべきなのかという問題である。

 七十九年の旧憲法下での当選も含めて数えれば九十五年の当選は二回目の当選ということになり、三回目の出馬にあたる二〇〇〇年選挙への立候補は憲法の認めない出馬ということになる。

 それに対して一九七九年の旧憲法下での一九九〇年の当選を考慮に入れないで、一九九五年の当選を九十三年憲法の下での第一回目の当選と考えた場合には二〇〇〇にもう一度立候補することに問題はないということになる。


 フジモリ大統領の三期目の出馬を巡っては、野党や反政府勢力は大統領の連続再選を一回限りとした憲法に違反すると主張していた。

 それに対してフジモリ支持派は九十年のフジモリ大統領の初当選は現行憲法の制定前の当選だったので再選の数にかぞえるべきではなく、連続再選にはあたらないと主張して対立を深めていった。


 この争いに終止符を打ったのは一九九六年に与党主導で採択された憲法解釈法であった。

 ペルーの議会は、一九九六年八月二十二日、与党であるカンビオ90と新多数派運動党の多数で、九十三年憲法が施行される前に開始された大統領任期は計算に入れない、すなわちフジモリ大統領が一九九〇年に初当選したのは旧七十九年憲法の時代であり、九十三年憲法のもとにおける第一回目の当選と考えるべきではなく、九十三年の新憲法のもとでは一九九五年の当選をもって第一回目の当選と考える「憲法解釈法」を可決した。

 これによって、フジモリ大統領の二〇〇〇年選挙への出馬が可能となったが、野党や反フジモリ勢力はこの決定に反発し、一九九六年九月リマ弁護士会は憲法裁判所に訴訟を提起し、憲法解釈法を廃止することを求めた。

 また、市民団体民主フォーラムは、憲法解釈法を廃止するための国民投票を求める署名運動を企画し、これを阻止しようとする与党との間で国民投票の合法性をめぐって、全国選挙管理委員会(JNE)と全国選挙手続事務所(ONPE)を巻き込んで攻防をくりかえした。


 一九九七年一月三日、憲法裁判所は、憲法解釈法を合憲とする判決を出した。

  しかし、それとは別にアギーレ、レイ、レボレドの三名の判事は、「憲法解釈法」はフジモリ大統領の立候補には適用できないという判決を出した。

 これに対し議会は、三名の判事が憲法裁判所の名においてこのような判決を出したことを問題にし、弾劾手続きを進め、五月二十九日、与党カンビオ90・新多数派運動の多数により、憲法違反を理由にアギーレ判事、レイ判事、レボレド判事を罷免する決議を可決した。

 これが憲法裁判所判事罷免事件であるが、これに抗議して憲法裁判所長官ヌジェント判事が辞任したため、憲法裁判所は四名の判事が欠員となり、その後機能停止に陥った。

 罷免された三名の判事は、この措置を不服として米州人権裁判所に提訴した。ペルーの民主勢力や国際社会は、これを支援して三名の裁判官の復権をペルー政府に強く求めた。


 これらの事件に加え、イフチャー事件というのがある。

 イフチャー事件というのは、反フジモリ政権の報道をおこなっていたテレビの第二チャネルの社主バルーチ・イフチャーに関する事件で、ペルー国籍を取得したにもかかわらずイスラエル国籍を放棄しなかったイフチャーに対し、ペルー政府は、一九九七年七月、イフチャーのペルー国籍を剥奪した。

 これに対してイフチャーは米州人権裁判所に提訴し、国内、国外の人権団体は、罷免された三名の判事の復権やイフチャーのペルー国籍の回復を支援した。


 この間、フジモリ大統領はペルー人ではなく、日本人ではないかという、フジモリ大統領の被選挙資格に疑義を呈するキャンペーンもおこなわれた。

 大統領の被選挙資格は、「生まれながらのペルー人」であることが要件となっている。

 この点について、一九九〇年の大統領選挙中には、バルガス・リョサ候補を擁立していた選挙連合フレデモ(民主戦線)がフジモリ候補はペルー生まれではなく、日本生まれなのではないのかというキャンペーンをおこなったことがあるというが、一九九七年にも、七月二十四日付の週刊誌カレタスやジャーナリストのセシリア・バレンスエラが再びこの問題を提起した。

 しかし、八月八日、フエンテス弁護士が詳細な資料を提示して記者会見をおこない、また、八月十日にはフジモリ大統領の母親ムツエさんがテレビに出演して、フジモリ大統領がペルー生まれであることを証言した。


 そのほか、米州人権裁判所の管轄権から脱退問題というのがある。

 加盟国の国民は、個人の自由と基本的権利が侵害された場合には、米州人権裁判所に提訴することができることになっている。

 米州人権裁判所は、一九九九年、ペルーの軍事裁判で無期の刑に処せられていたチリ人の四名のテロリストについて、通常裁判で裁判をやりなおせという判決を出した。

 これに対しフジモリ政権は、ペルーの法秩序を侵害するものであり、テロリストたちを自由にするものであると抗議して、米州人権裁判所の管轄権から脱退した。

 これに対してペルーの民主勢力や国際社会は、米州人権裁判所の管轄権への復帰を求めていた。
はじめに(7)




(3)フジモリ第二期政権


 第一期目の政権でめざましい成果をあげたフジモリ大統領は、一九九五年、第二期目の政権を目指して大統領選挙に立候補した。

 一九七九年の旧憲法は大統領の任期は一期と決め、再選を許さなかったが、一九九三年の憲法改正で再選が可能となった。

 フジモリ大統領の対立候補としては、ペレス・デ・クレアル元国連事務総長ほか計十四名が立候補したが、選挙戦ではフジモリ大統領と国際的著名人であるデ・クレアル元国連事務総長が終始有力な候補で、それ以外の候補者は支持率一〇%以下に低迷した。

 選挙戦が終盤に近づくなか、デ・クレアル候補など野党勢力は政府への批判をくり返し強調したのに対し、フジモリ候補は野党勢力を批判するキャンペーンを抑え、実績に基づく信頼を前面に出して有権者の支持を求めた。

 フジモリ候補は、雇用の拡大、貧困対策を第二期政権の公約としてかかげ、九十年と九十五年の状況を比較しつつ、現在はテロとインフレが克服され、国際金融社会への復帰が達成されるなど、失業・貧困対策をおこなう条件が整っていると説明し、この政策を今後一層進めるためには政策の継続が必要であることを訴えた。


 一九九五年四月九日に第一回目の投票がおこなわれた。

 この投票でフジモリ大統領は有効票のうち四七九万六九五三票、六四・四二%という過半数を獲得し、決選投票を待つことなく再選をはたした。

 対立候補のデ・クレアル候補は、一六二万四四四一票、二一・八一%を獲得して第二位となったが、フジモリ候補には遠くおよばなかった。

 同時におこなわれた議員選挙では、フジモリ大統領の与党カンビオ90・新多数派運動が、二二八万〇〇一八票、五二・一〇%を得て、一二〇議席のうち過半数の六十七議席を獲得した。また、第二位のペルー統一運動党(UPP)は、六一万一九二一票、一三・九八%で、十七議席を獲得するにとどまった。


 この選挙は、大統領の連続再選を可能にした一九九三年憲法の下ではじめて実施された大統領・国会議員選挙で、過去五年間のフジモリ政権の成果が問われると同時に、一期かぎりが一般的となっていたラ米諸国の大統領選挙のなかで、ペルー国民が現職大統領の再選という選択をおこなうか否かが注目された選挙であった。

 また、クーデター後の民主制憲議会選挙をボイコットした人民行動党とアプラ党がフジモリ大統領に対しておこなっていた「非合法」、「権威主義」、「独裁」などの批判に対し、国民がどのように受け止めているかを知る選挙でもあった。

 有権者の投票意思を問う世論調査によれば、選挙二ヶ月前頃からフジモリ候補への支持率は徐々に下がりはじめる傾向を示していた。

 そのことから、フジモリ候補が勝利しても辛勝、最悪の場合には第一回目の投票で過半数を獲得できないのではないかとの予測もされていた。

 また、選挙日近くまで、「民主主義の欠如」、「権威主義的」などといったフジモリ批判の声の影響や、大統領の再選による弊害を懸念する「再選アレルギー」の存在や、失業・貧困問題に対する不安などの理由により、世論調査で投票態度「未決定」や「白票」と答える有権者が一五%から二〇%存在していたといわれる。

 しかし、最終的にはこの浮動票がフジモリや与党に投票され、勝利につながったといわれる。

 浮動票がフジモリ支持に向かった要因として、「フジモリなきフジモリ路線」を実践するにたる力量を持った対立候補がいなかったことがあげられた。

 第二位のデ・クレアル元国連事務総長は、選挙運動では社会政策の拡充、民主主義の制度化を掲げ、反フジモリ勢力の結集を図っていたが、民衆層への浸透力に欠けたことが敗因になったと考えられた。



 一九九五七月二十八日に、二〇〇〇年七月二十八日までの任期で第二期フジモリ政権が発足した。

 フジモリ大統領は、第二期政権では雇用の創出および貧困削減に取り組んだ。

 しかし、エル・ニーニョによる自然災害やアジア、ロシア、ブラジルなどの経済危機の影響などもあり、思うような成果をあげることはできなかった。貧困や失業問題は、ペルーに深く根ざした難しい問題であり、引き続き課題として残った。


 一九九六年十二月十七日。

 その日、日本大使公邸で開催されていた天皇誕生日祝賀レセプションを、最高幹部の一人であるセルパを含むMRTAの残党が襲撃し、六〇〇名以上を人質にとり公邸を占拠するという事件がおきた。

 公邸占拠は四ヶ月続き、翌一九九七年四月二十二日、一四〇名からなる特殊部隊が強行突入して、日本人二十四人を含む七十二人の人質の内七十一名を無事解放して事件は終結した。

 この人質解放作戦をフジモリ大統領は、プレインカ文明の遺跡名にちなんでチャビン・デ・ワンタル作戦と呼んだ。


 フジモリ大統領は、外交面では、一九九八年十月、独立以来の懸案であったエクアドルとの国境問題の平和的解決に成功した。

 エクアドルとの国境紛争については、一八二一年の独立当初から両国間で争われてきており、一九四一年には武力紛争に発展した。

 その後、四十二年に両国国境の主要通過点を規定するリオデジャネイロ議定書が締結され、紛争は一応収束した。しかし、同議定書に基づく国境確定作業において両国の見解が分かれ、七十八年、九十五年などに武力衝突が発生した。

 一九九六年からエクアドルとの間で平和的解決に向けた交渉がくり返された。

 一九九八年一月以降は、リオデジャネイロ議定書の保障国である米、ブラジル、チリ、アルゼンチンの関与も一層積極化した。

 その年の七月から八月にかけて軍事的緊張が高まる場面も見られたが、最終的にはフジモリ・マワ両大統領の決断により、十月に包括的合意文書に署名するにいたった。

 その後、合意発効までの要件であった国境標石の設置が完了して、国境問題は解決し、さまざまな二国間協力プロジェクトがすすめられた。


 また、十九世紀の国境紛争以来チリとの間に存在しいていたアリカ港の管理問題も解決した。

 この問題は、一九二九年に条約が結ばれたが実施取り決めが未締結であったために両国の懸案となっていた。

 フジモリ大統領は、一九九九年十一月、アリカ港使用に関する実施取り決めを締結し問題を解決した。


 さらに一九九八年にはペルーをAPECのメンバー国にした。
はじめに(6)





(2)フジモリ政権第一期目の成果


 第一期目のフジモリ政権は、国家再建に努力し、その成果には目を見張るものがあった。


 ペルーでは、一九八〇年代後半から九十年代前半にかけてテロリスト・グループによる殺戮が猛威をふるった。

 主として「センデロ・ルミノーソ(SL)」および「トゥパク・アマル革命運動(MRTA)」の二大テロ組織によるテロ活動であったが、当時は、刑務所や大学はテロの巣窟と化していて、テロリストたちは警察署に対する爆弾攻撃や与党下院議員の殺害、レストランに対する爆弾攻撃等をおこったという。

 政府や治安機関を標的にするばかりでなく、ペルーを支援する外国企業および外国公館に対する攻撃もおこなわれた。


 しかし、一九九二年四月五日の緊急措置以降、政府はテロと対決する姿勢を固め、議会によって廃止、修正されたテロ対策に関する委任法を大統領緊急令として復活させたほか、八月にはテロ犯罪を祖国に対する反逆と見なして最高刑として無期懲役を定め、軍事法廷で裁くなど一連の法制度を整えた。

 また、憲法に保障された個人の権利を一部制限して、軍、警察によるテロリスト対策を容易にする非常事態宣言地域を設定することにより、多数のテロリストを逮捕したほか、九十二年六月にはトゥパク・アマル革命運動(MRTA)の最高指導者ビクトル・ポライを逮捕し、同年九月にはセンデロ・ルミノーソの最高指導者アビマエル・グスマンを逮捕した。

 テロ対策法および投降者減刑法に代表される「アメとムチ」政策が功を奏するなどして、テロ組織の核心部の摘発が相次いだ結果、組織内の統制、資金繰り、武器・弾薬・爆弾などの調達が極めて困難な状況となり、両組織とも首都圏においては満足に活動できない状態となった。(注)

 しかし、このテロとの戦いの過程で、バリオス・アルト、ラ・カントゥータの事件もおきた。



 一九九〇年八月、フジモリは、ガルシア政権の残した経済破綻状況からの脱出とハイパーインフレの抑制を目的として、「フジショック」と呼ばれる経済調整計画を発動した。

 その結果、九十年には七六四九%だった高いインフレが、フジモリの大統領就任以後は次第に終息し、一九九八年には六・〇%という数字になった。

 対外経済関係の面では、輸入付加税一〇%の廃止と関税の引き下げによる輸入の自由化を徹底し、また、銀行の民営化、為替市場の自由化、外国通貨預金の凍結解除、外国投資の環境整備等を実施した。

 さらに、行財政改革として、各省経費の一〇%を削減し、公務員の勧奨退職推進等により財政赤字の幅を縮小させた。

 国営企業の民営化については、イエロ・ペルー社(製鉄)やセロ・ベルデ社(非鉄金属)の民営化、さらにはペルー電話公社等の売却を実施した。

 このようにしてフジモリ登場前の崩壊した国内経済の建て直しと国際金融社会との関係の修復に努力した。

 日米をはじめとする国際社会の側もこのようなフジモリ政権の努力を支援したためにペルーは国際金融社会に復帰することができた。



(注)関連記事:
 非常事態宣言地域の撤廃

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