小説 フジモリとデモクラシア

2000年の大統領選挙。あのときペルーで何がおきたのか。

おわりに

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おわりに


異文化社会に住む者の目から見たペルー




 当初、二〇〇〇年のはじめから二〇〇一年七月までにペルーで起こったことについて、メディアの報道をそのままに綴ったこの記録に「おわりに」の章は必要ないと思った。

 ペルーという国と社会、ペルーの政治風土と国民性、その中におかれているフジモリの姿をあるがままに再現すればこの記録の役割は終わると考えていたからである。

 しかし、一歩進んで、日本という、ペルーとはことなる価値観の社会に住む者の目から見た場合に、ペルーで起きていることがどのように見えるかということについてひとこと触れておくことは意味のないことではないと思いなおした。

 なぜならば、デモクラシアの名のもとに日系人フジモリをめぐってペルーでおきていることは、おたがいに相容れることの難しい欧米的な価値観と日本的な価値観の衝突の様相を呈しているからである。

 この「おわりに」の章は、ペルーという国、あるいはフジモリ問題について、異文化社会に住む筆者個人としての見方を示したものである。

 世界は多様な価値観にあふれている。ほかにもさまざまな見方があり得ると思う。そのような数多くの見方のひとつと理解していただきたい。



目  次










おわりに(15)




 ペルーでもグアテマラと同じようなことが起るだろうと言うのではない。


 多民族、多人種、多文化の国で国民統合、国民和解をはかることがいかに大変なことかということを理解してもらいたくてグアテマラを例としてあげたのである。

 グアテマラの場合、民族和解への道は、対立、対決、武力闘争の歴史だった。

 力で社会改革をはかろうとするゲリラとそれを抑えようとする軍による武力制圧は、数々の悲劇を生んだ。力による闘争が払った犠牲はあまりにも大きかった。

 三十五年におよぶ内戦の結果は、ゲリラ側が一方的に勝利して革命をなしとげたのでもなければ、軍が一方的に民主化の波を押さえ込むことができたというものでもなかった。

 結局、和平合意で達成された内容は、多民族、多人種、多文化の国グアテマラの現実をふまえて民族和解をはかるもので、落ち着くべきところに落ち着いた内容のものだった。

 それは、白人、先住民、混血住民のいかんを問わず、すべてのグアテマラ国民の共存、共栄を保障するための基礎を築くものであった。

 しかし、それにつけても三十五年の内戦と流血は何だったんだろうかと考えざるをえない。



 ペルーが、政治的に安定し、貧困が軽減され、テロの脅威が消え、すべての国民が民主主義の恩恵を受けることができるような国になるためには、ペルーもまたグアテマラと同じように、白人、混血住民、先住民のいかんを問わず、すべての国民の共存と共栄が保障される方向に向かわなければならないと考える。

 しかし、ペルーの政治的、経済的、社会的な変革は、絶対に、対立と抗争、武力闘争の過程を経ておこなわれるべきではないという思いが強くする。


 グアテマラの三十五年の内戦の轍を踏んではいけない。

 多民族、多人種、多文化国家であるペルーにおける平和共存の基礎作りは、ペルー国民の理性によって平和的におこなわれなければならない。

 それは、たとえグアテマラと同じように三十五年かかったとしても、戦争をしないでそれをなしとげなければならない。


 そのためには、まず、ペルーが進むべき方向について、国民的なコンセンサスが作り上げられなければならない。

 ペルーが進むべき方向は、多民族、多人種、多文化国家ペルーに住むすべての人びとの共存と共栄をはかることであり、そのためにはペルーに独自の民主主義を作り上げてゆく必要があるということについて共通の認識がもたれなければならない。

 そしてその目的を実現するためには、利害を異にする者どうしが、おたがいにその立場の違いを認め合い、おたがいに相手の価値を尊重しあい、容認しあわなければならない。


 そのような異民族間、異人種間、異文化の間の相互理解と相互尊重を、テロや武力闘争、流血を回避して実現するには、おたがいに相手に対する寛容と忍耐の精神が不可欠であるということを理解しなければならない。


 寛容と忍耐。

 これは非常に日本的な価値観でペルーの人たちにはなじみがないだろうが、ペルーの現状を見るとペルーの政治のゲームのプレーヤーたちには是非これを理解してもらいたいと思う。

 政敵には徹底的に厳しい政治的な不寛容は、ペルーの政治風土なのかもしれないが、対立、対決、武力闘争の過程からは前向きなものは何も生まれてこない。

 出てくるものは恒常的な政治不安か、テロの蔓延か、内戦でしかない。

 復讐と怨念は、さらなる復讐の暴力を生む。

 それを回避するものは、対決の精神ではなく、寛容と忍耐の精神であるということを、是非、わかってもらいたい。



 ペルーの政治のゲームのプレーヤーたちがすべきことは、ペルーに住むすべての人びとの共存と共栄をはかる方向に向かってペルーを導いてゆくことだ。

 その歩みは緩やかであっても、確実にその方向に向かって進まなければならない。

 誰が大統領になろうとも、どの政党が政権をとろうとも、寛容と忍耐の精神で国民和解をはかりながら、ペルーに独自の民主主義を築き上げてゆくことだと思う。

 いつまでも代々の大統領が亡命せざるをえない国であってはならない。政治の一貫性と継続性が保たれる国になってほしいと思う。

おわりに(14)




 ことの深刻さを具体的に理解するためにペルーと同じような社会構造のグアテマラの例を見てみたい。

 中米のグアテマラという国は、ペドロ・デ・アルバラードによってキチェ王国が倒されて一五二四年にスペインに征服された国である。{{{(注)}}}

 ペルーは、フランシスコ・ピサロによってインカ帝国の最後の皇帝アタワルパが殺されて一五三二年にスペインに征服された国である。{{{(注)}}}

 グアテマラは、天文学や暦を高度に発達させたマヤ文明の国である。

 ペルーは、日本人なら誰もが知っているインカ文明とそれよりはるかに古いプレインカ文明の国である。

 グアテマラとペルーは、ラ米諸国の中でも人口構成に占める先住民の比率が非常に高い国である。

 正確なところはわからないが日本の外務省のホームページによれば、グアテマラの人口の構成は、マヤ系先住民が四二%、ラディーノとよばれる混血住民が五〇%、欧州系が八%となっているという(二〇〇一年七月)。

 グアテマラという国は、先住民と混血住民が人口の九二%を占めている。

 ペルーの人口の構成は、おおよそ先住民が四七%、混血が四〇%、欧州系が一二%、東洋系が一%となっている(二〇〇八年二月)。

 ペルーという国は、このように先住民と混血住民が人口の八七%を占めている国である。

 先住民という言葉は少数民族という印象を与える。

 しかし、ペルーやグアテマラでは、先住民は少数民族ではない。国民の半分近くをしめているのだ。それに混血住民を加えると国民の大多数をしめることになる。


 ペルーもグアテマラも、貧富の差が著しく大きな国である。

 グアテマラの人口は、一一一〇万人。一人当たりのGDPは三六七四ドル、国民の五七・九%は通常の生活を維持する最低限の貧困ライン以下の収入しか得ておらず、そのうち一日一ドル以下の収入しか得ていない人が一〇・〇%いるという。{{{117}}}

 グアテマラとペルーが違うところは、グアテマラはペルーと異なり天然資源には全く恵まれていないという点だ。

 コーヒー、砂糖きび、バナナ、非伝統的産品と呼ばれる輸出用の若干の野菜、果物の程度であるが、白人資本で経営されるハシエンダとかフィンカと呼ばれる大規模農園で栽培される。

 ペルーもグアテマラも、国民和解が難しい国である。

 そして、ペルーもグアテマラも、アメリカの強い影響下にある。



 そのグアテマラで何が起ったのかというと、不平等な社会体制に反発して、一九六〇年からゲリラ活動が始まり、軍との間で壮絶な内戦へと発展していった。

 内戦は三十五年間も続き、一九九六年になってようやくグアテマラ政府とゲリラ組織URNG(グアテマラ国民革命連合)の間で和平が合意された。

 内戦中の犠牲者の数は、死者および行方不明者が二〇万人以上にのぼると推定され、被害者の八三%はマヤ先住民で、一七%が非先住民だったといわれる(国連真相究明委員会報告)。

 中米の小さな国、グアテマラにとってはきわめて大きな数字だ。



 内戦を終わらせ、民族和解をはかるための交渉のテーマとなった課題は非常に多く、複雑だった。

 一九九六年十二月に署名された和平協定は、単に戦争をやめることを約束するだけではなかった。

 多民族、多人種、多文化国家の国民の間の平和共存のための基本的な枠組みを作る努力がおこなわれた。

 そのためには先住民の地位や権利、文化や宗教、慣習の尊重、スペイン人の入植以来の土地問題にもかかわる農業問題など、スペインによる征服の時代にまで遡らなければならないテーマもあった。

 民主化と人権、文民政権の強化と軍の役割、内戦中におこなわれた人権侵害に対する真相究明、憲法改正と選挙制度、社会経済問題、難民問題、ゲリラの武装解除と社会復帰、停戦のための手続、和平合意の実施スケジュールと実施状況の監視などの課題が交渉の対象になり、一〇の協定が作られた。

 多民族、多人種、多文化国家における平和共存の基礎を定めたグアテマラの和平協定は、民族和解のための出発点にすぎない。現在、その実施のための国民的な努力が続けられている。



 日本人は、グアテマラの和平を支援することに労をいとわなかった。JICAの青年海外協力隊の若者たちも、商社の駐在員の人たちも、みんなグアテマラのためにほんとうによく働いた。

 キチェの山の中に日本政府のODA(政府開発援助)で、メキシコに亡命していた帰還難民を受け入れるバラックが無数に作られた。

 協力隊の若者たちはマヤ先住民の村に住み込んで、いっしょに野菜畑を耕しながらノウハウを伝えたり、日本から送られた中古のミシンを使って子供服の作り方を教えたり、にわとりを飼って収入につなげる方法を伝えたり、観光収入につながりそうな民芸品を作ったりした。

 商社の人たちは資源のないグアテマラの輸出品の発掘に奔走したり、マヤ先住民の人たちのために雇用の機会を作ろうとしたり、お医者さんや昆虫学者はデング熱やチャガス病の撲滅のために古タイヤに溜った水の消毒方法を伝えたり、茅ぶきの家の中で病気を媒介する虫を探したり、それはそれは皆よく働いた。

 それは、和平が、三十五年にわたる内戦を終わらせ、多民族、多人種、多文化国家であるグアテマラの人びとの平和共存の基礎を作るためのものであることに共感したからだ。


 グアテマラの和平の実現には、元人権擁護官だった故デ・レオン・カルピオ大統領と、当時、和平基金(FONAPAZ)の総裁としてメキシコからの帰還難民の受け入れに奔走していたアルバロ・コロンの功績が大きい。

 アルバロ・コロンは、マヤ先住民社会に受け入れられている非常に数少ない白人の一人だ。

 コロンは二〇〇七年の大統領選挙で当選して、今、グアテマラ史上初の中道左派の大統領になっている。






117 UNDP, “Human Development Report 2001”, p.147, 154 & 160


(注)イメージ資料:
(先住民と混血のひとたちが国民の大多数を占めるペルーとグアテマラ)

 ペルーのこどもたち:http://blogs.yahoo.co.jp/rokurogen/7633825.html
 グアテマラのこどもたち:http://blogs.yahoo.co.jp/rokurogen/7634137.html
 ペルーの首都のにぎわい:http://blogs.yahoo.co.jp/rokurogen/7660530.html
 グアテマラの村のにぎわい:http://blogs.yahoo.co.jp/rokurogen/7660887.html
 休日を楽しむペルーの市民たち: http://blogs.yahoo.co.jp/rokurogen/7736415.html
 聖週間を祝うグアテマラの村人たち:http://blogs.yahoo.co.jp/rokurogen/7736533.html
 ペルーのプレインカ遺跡:http://blogs.yahoo.co.jp/rokurogen/7802579.html
 グアテマラのマヤ遺跡:http://blogs.yahoo.co.jp/rokurogen/7802646.html
 スペインとペルー:http://blogs.yahoo.co.jp/rokurogen/7870754.html
 スペインとグアテマラ:http://blogs.yahoo.co.jp/rokurogen/7870982.html

おわりに(13)




7 フジモリはペルーの歴史の汚点ではない


 フジモリはいくつかの政治的な誤りをおかした。

 クーデターのあとも長期間にわたって強権的な体制を維持していたこと、大統領選挙の三選に出馬したこと、モンテシーノスの腐敗を見落としていたことなど、数えあげればいくつも出てくるであろう。

 しかし、フジモリが実施しようとした政策、フジモリスモは、これからのペルーが進むべき方向を示したものでそれ自体、正しいものだったと思う。


 ラ米では、本当の民主主義を目指すと、アメリカから叩かれ、つぶされるという歴史が繰り返されてきた。

 しかし、時代は変わりつつある。既存の不平等な社会体制や権力構造を維持することにしかならないアメリカの民主主義攻勢に疑問をいだくひとは増えてゆくであろう。

 ベネズエラでは、ウゴ・チャベスが、アメリカに叩かれながらも恵まれない人たちの支持を受けてアメリカの民主主義に抵抗している。

 ボリビアでは、二〇〇五年十二月に初の先住民大統領エヴォ・モラレス政権が誕生した。

 これらのことは、ラ米の歴史が、本当の民主主義を求めて動きだしていることを物語っている。

 真の民主主義を求める動きはこれからラ米の潮流になってゆくと思うし、ペルーも例外ではいられないだろう。

 この傾向を、警戒心をもってラ米の左傾化とか社会主義化と呼ぶ人がいるが、ウゴ・チャベスもエヴォ・モラレスも、要するに「大多数の国民の、大多数の国民による、大多数の国民のための政治」を実現しようという、ごく当たり前のことをしようとしているのではないかと思う。


 しかし、残念ながら、ペルーもこの方向に向かうべきだということについてペルー社会にはまだコンセンサスがない。

 フジモリスモは、もの言わぬ一般の人々から根強い支持を受けているが、その一方で、強権的なフジモリスモは、独裁で民主主義ではないという理由で激しく叩かれている。

 ペルーには、アメリカ的な民主主義が絶対的に正しいと信じてい人たちがまだまだ大勢いる。

 アメリカの民主主義で、ペルーの貧困やテロの脅威を解消することが出来ると本気で考えているのだろうか。


 アメリカの民主主義が正しいかどうかは相対的な問題だ。

 ペルーに必要な時もあれば、ペルーの民主化を阻害して、既存の社会体制、権力機構を維持し、防衛し、温存するためのイデオロギーでしかないこともある。

 そのことを理解していない人たちが声を高くしてデモクラシアを叫んでいる。

 先住民系の大統領トレドの誕生には期待がもたれたが、トレドはデモクラシアの名のもとにフジモリとフジモリスモを否定し、消し去ることに熱心なだけだった。

 ガルシア政権に追われているトレドは、今、アメリカで名誉ある教職のポストを与えられて歓迎されている。



 ペルーに必要なのは、アメリカの民主主義でもなければ、アメリカの内政干渉でもない。

 ペルーに独自の民主主義を築き上げることだと思う。

 しかし、そのことは、ペルーの伝統的な社会体制や権力構造を変えることを意味し、社会的な摩擦を生じる。

 日本にいてはなかなか理解できないことだが、ペルーのような国の場合、その摩擦はより深刻な様相を呈する危険性をはらんでいることを知っておく必要がある。

 ペルーは多民族、多人種、多文化の国で、国民の大多数が、古代インカ文明の末裔である先住民と混血の住民からなっている。

 そのような国で、今まで続いてきた伝統的な権力構造を変えて、少数の富裕層と大多数の貧困層の間の断絶を解消し、「大多数の国民の、大多数の国民による、大多数の国民のための政治」を実現しようとするならば、想像が及ばないほどの激しい摩擦を生じ、場合によっては流血の惨事を引き起こすことにもなりかねない。
おわりに(12)




(3)なぜフジモリはこれほどまでに嫌われるのか


 フジモリはペルーの一般の人たち心の底にあるものを理解していた。

 ペルーという国は、国民の大多数が実質的に国の政治や経済に統合されておらず、貧困のままに放置されている。

 ペルー社会の底流には、いちじるしい貧困と社会格差からくるフラストレーションが鬱積している。それが、恒常的に高い政治的緊張の背景にあると考えられる。


 フジモリは、そのようなペルー社会の現実を見て、「経済的、社会的側面を無視したデモクラシアはデモクラシアではない」と考え、「より恵まれない階層の人々のために現実的で具体的な機会が与えられるという意味でのデモクラシア」を実現しようとした。

 フジモリは、このような民主主義の考えにたって、テロを鎮圧し、ハイパーインフレを抑え、高度の経済成長を実現し、貧困問題と取り組んだ。

 しかし、その手法は、強権的であったために、西欧的な思考をするペルーの文化人やアメリカの民主主義と真っ向から対立し、容赦なく叩かれた。

 フジモリの民主主義は、たしかに欧米的な民主主義とはちがう。

 だが、アメリカの民主主義ではペルーが抱える問題を解決することはできない。フジモリの民主主義は、ペルーにとっては必要な民主主義ではないのか。


 フジモリ政権は、アメリカの民主主義の圧力によって崩壊したのではない。

 ペルーの一般の人たち、とくに恵まれない人たちは、フジモリの政治、フジモリスモに根強い支持を与えてきた。このような人びとは、ペルーという国の進むべき方向について明確な考えをもっている。

 フジモリ政権は、フジモリスモによって崩壊したのではない。

 フジモリの功績の背後で密かに増殖していたモンテシーノスの腐敗によって崩壊した。


 しかし、モンテシーノスの腐敗が表に出ると、フジモリとモンテシーノスを一体のものとして、デモクラシア!、腐敗の撲滅!、インプニダ(処罰のがれ)を許すな!、の叫び声の嵐がおこり、その中でフジモリの功績は全く消し去られ、あっという間に二十六以上の罪状が並べ立てられた。

 ペルーのすべての国民が資源大国の豊かさを享受できるような国になるためには、ペルーにはフジモリのような政治、フジモリスモが必要なのではないかと考えるのだが、フジモリの失脚以後、公の場に出てくる人たちは、誰ひとりとしてフジモリの功績について口にしようとはしない。

 このような状況が続いているのは、ペルーにとってきわめて不幸なことだが、それほどまでにフジモリの功績について語ることはタブーになってしまっている。


 では、なぜフジモリはこれほどまでに嫌われるのか。

 それは、フジモリがチーノだからだとか、フジモリの政治が強権的だったからだとか、フジモリが二重国籍を使って日本に逃げたからだとかいうこともあるかもしれない。

 しかし、もっと根本的な理由があるように思える。

 それは、フジモリスモにあるのではないかと思う。

 フジモリスモそのものに対する警戒心や猜疑心や嫌悪感が、フジモリ叩きの底流にあるのではないかと思う。


 フジモリは、ペルーを、ペルーの一般の国民が望んでいる民主主義の方向にもってゆこうとした。

 いわば、「大多数の国民の、大多数の国民による、大多数の国民のための政治」が実現していないペルーに、その実現をはかるための独自の民主主義を作り上げようとした。

 それは、恒常的な社会的不平等を解消し、公平な所得分配を実現し、富裕層も低所得層も等しく社会的責任を分担し、すべての国民が民主主義の恩恵を受けるような社会を作り上げることを目指すものだ。

 このようなフジモリスモは、突き詰めてゆけば、必然的に、ペルーの既存の社会体制、権力構造を変えてゆこうという要素を含むものである。


 フジモリは、毛沢東主義者でもなければ、マルクス・レーニン主義者でも、革命家でもない。

 単に、「経済的、社会的側面を無視したデモクラシアはデモクラシアではない」と考え、「より恵まれない階層の人々のために現実的で具体的な機会が与えられるという意味でのデモクラシア」を実現しようとしたにすぎない。

 ここにペルー人でありながら日本的な思考と価値観を受け継いだ日系人フジモリの姿を見るような気がする。

 しかし、その意味するところのものがペルーにとっては一種の革命に通じる要素をもっているので、フジモリやフジモリスモに対しては、特別の警戒心や猜疑心や嫌悪感がよびさまされ、必要以上のフジモリ叩きがおこなわれているのではないかと思う。

 ここに欧米的な思考と価値観を受け継いだ多くのペルー人の姿を見るような気がする。


 日本人の血を受けついで、どちらかというとナイーヴな人道主義者にすぎないフジモリが、革命を意図したとは思えない。

 叩かれるフジモリやフジモリの支持者にしてみれば、どうして自分たちはこれほどの仕打ちを受けるのだろうかと理解できないでいるに違いない。

 過剰なフジモリ叩きを、「魔女狩り」とか「政治的迫害」という意識を持って受け止めるのも無理はない。


 ここに、おたがいに相容れることの難しい欧米的な価値観と日本的な価値観の衝突が起きているのではないかと思う。

 要するに、フジモリは強権政治をおこなったが故にデモクラシアの名のもとに制裁を受けているのではない。

 日本的な発想で、ペルーに、ペルーが必要としている民主主義を実現しようとしたために、デモクラシアの名のもとに制裁を受けていると考えられるのである。

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