小説 フジモリとデモクラシア

2000年の大統領選挙。あのときペルーで何がおきたのか。

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追記(3)




3 政治家ケイコ・ソフィア・フジモリの誕生


 声なき声はもうひとつ、驚くべき選択をした。

 大統領選挙と同時におこなわれた議会議員の選挙では、フジモリ元大統領の長女でファースト・レディ役をつとめていたケイコ・ソフィア・フジモリが、未来同盟(AF)から立候補して、大量得票を得て一位で当選した。

 ケイコ・ソフィア・フジモリの得票数は、六十万二八六九票だった。

 この数字は、フジモリ政権崩壊後におこなわれた二〇〇一年のやり直し選挙で一位で当選した女性政治家アネル・タウンゼントの三十二万九九七〇票を倍近くも上回るものだった。

 アネル・タウンゼントは、当時、フジ・モンテシーノスの腐敗追求の急先鋒だった。

 政治家になったケイコ・ソフィア・フジモリは、父親が追放されたプロセスの一つ一つを検証しなおして、父親の名誉の回復をはかりたいと願っており、愛する父のため、愛するペルーとフジモリスモのためにすべてをおこなうと宣言した。



 この選挙によって定員一二〇名の議会の各党の勢力は、オジャンタ・ウマラのペルー団結党(UPP)が四十五議席を得て第一党となった。

 アラン・ガルシアのペルーアプラ党(PAP)が三十六議席で第二党。

 ルルデス・フローレスの国民団結連盟(UN)が十七議席で第三党。

 フジモリ派のケイコ・ソフィア・フジモリの未来同盟(AF)は、十三議席を獲得して、第四党となった。


 選挙後の新しい政治勢力図は、大統領に当選したアラン・ガルシアとしても、自分の支持政党アプラの力だけでは安定した政治がおこなえない立場におかれたことを意味している。

 中道左派のアラン・ガルシアとしては、急進左派のウマラと手を結ぶのが議会で過半数を占めるためにいちばん手っ取り早いわけだ。

 しかし、ウマラの方がガルシア政権に一線を画そうとしているようであるし、ガルシアの方も、まさか前回の誤りを繰り返すことはないであろうという有権者の期待を身にしみて感じていることであろう。

 そうであればガルシア大統領には、ルルデス・フローレスの国民団結連盟(UN)の支持が必要だが、それだけでは五十三票にとどまり、議会で過半数の六十一票を確保することはできない。

 そこで重要になるのはケイコ・ソフィア・フジモリの未来同盟(AF)の支援ということになる。

 アプラ党、国民団結連盟(UN)、未来同盟(AF)の三党が協調すれば、議会で六十六票を確保することができるので、急進左派のペルー団結党(UPP)に対抗することができるようになる。

 ペルーではいまだに反フジモリの声は強いが、このような新しい政治勢力図のもとにあって、フジモリ派は、ペルーの政治におおきな影響力を持つことができるようになったといえる。

 フジモリ政権時代に汚職で追及されてコロンビアに亡命した大統領アラン・ガルシア、アプラの事務局長として反フジモリの急先鋒だった首相デル・カスティージョ、元大統領フェルナンド・ベラウンデの甥で反フジモリで闘ってきた外相ガルシア・ベラウンデがこのような新しい状況をどう理解し、ペルーをどのような方向に導いてゆくのか、関心が持たれる。


(了)
追記(2)




2 アラン・ガルシア大統領の誕生


 選挙が近づくにつれてオジャンタ・ウマラに対する支持率が急速にのびてきた。


 世論調査会社ダトム社がおこなった調査では、二〇〇五年一月には、パニアグア二四%、ガルシア一八%、フローレス一七%、ウマラ三%だった。

 しかし、その後、パニアグアとガルシアの支持率が徐々に下がり、フローレスが浮上してきたが、九月になるとウマラの支持率が急速に上昇し始めた。

 二〇〇六年一月には、フローレス二六%、ウマラ二五%、ガルシア一四%、パニアグアが一一%となった。



 選挙は、当初、女性候補のルルデス・フローレスが有利と考えられていた。

 ところがその後、オジャンタ・ウマラが支持率を伸ばし、四月九日の投票では、オジャンタ・ウマラが三〇・六%を得票して一位となり、アラン・ガルシアが二四・三%で二位、ルルデス・フローレスが二三・八%で三位となり、上位一位と二位のオジャンタ・ウマラとアラン・ガルシアの二人の間で決選投票がおこなわれることになった。

 ルルデス・フローレスは、二〇〇一年の選挙に続き、またもや決選投票に残れなかった。

 ルルデス・フローレスは保守派、アラン・ガルシアは中道左派、オジャンタ・ウマラは急進的な左派といえる。

 ペルーの有権者は、ベネズエラやボリビアにみられるような、いわゆるラ米諸国の左傾化と言われる現象のなかで、結果としてウマラとガルシアを選んだ。

 フジモリ派のマルタ・チャベスの得票は、七・四%にすぎなかったが、それでもフジモリ政権崩壊後の暫定政権の元大統領バレンティン・パニアグアの五・七%を上回っていた。



 決選投票は六月四日に実施された。

 結局、アラン・ガルシアが有効投票の五二・六%を獲得し、オジャンタ・ウマラが四七・三%となり、ガルシアが逆転して大統領に当選した。

 ガルシアが決選投票で勝利するにあたっては、フローレスやマルタ・チャベスに票を投じた有権者が、ガルシアに投票したといえる。

 有権者は、左派民族主義的な主張をし、自由市場経済に対する根本的な変革の必要を説いて、国の内外から懸念をもって見守られていたオジャンタ・ウマラよりもアラン・ガルシアを選んだ。



 ペルーでは、国の内外からの政治的喧騒のなかにあっても、いわば声なき声ともいうべき一般のペルー国民が政治を決定づけてきた。

 特定のイデオロギーに左右されることのない、無党派層ともいうべき市民たちが、二〇〇六年の大統領選挙でも、よりよき指導者を模索して揺れ動いた。

 アラン・ガルシアは、前回、大統領になったときに、年間七六四九%というハイパーインフレを招いたり、国際社会と対立してペルーを国際的な孤立に陥れたり、テロの蔓延を許して多くの犠牲者を出すなどの失政をしている。

 他方、オジャンタ・ウマラが大統領になれば、ペルーは急進的な左派政権になり、国際社会と緊張した関係に陥りかねない。

 ペルーの声なき声は、今回もまた、消極的選択しか途がないという局面に追いつめられた。

 しかし、ペルーの有権者は、今度はまさか前回の誤りを繰り返すことはないであろうという期待をこめてアラン・ガルシアに票を投じたといえる。

 ペルーの有権者の良識が、ペルーにとっても、国際社会にとっても、結果としてもっとも悪い選択をすることだけは避けた。
追記(1)





追記:二〇〇六年の大統領選挙



1 フジモリ抜きの二度目の選挙


 二〇〇六年、ふたたびペルーの大統領選挙の年が巡ってきた。

 フジモリの政治、フジモリスモに対する人気は高い。しかし、フジモリが去ったあと、フジモリスモを体現する候補者はいない。

 ペルーの一般の有権者たちは、またもや消極的選択を迫られる懸念がでてきた。


 四月九日を投票日とすることが決定され、一月九日に立候補者の届け出が締め切られた。

 全国選挙管理委員会(JNE)に立候補を届け出たのは二十四人にのぼるといわれているが、主な候補者は、バレンティン・パニアグア、アラン・ガルシア、ルルデス・フローレス、マルタ・チャベス、フェルナンド・オリベーラ、それにオジャンタ・ウマラということになる。

 チリで拘束されていた元大統領アルベルト・フジモリも、シ・クンプレ党が立候補を届け出たが、JNEは議会の公職追放決議を理由に立候補の届け出を却下した。

 また、現職の大統領アレハンドロ・トレドは、自らがおこなった憲法改正によって連続して立候補できなくなったので出馬しない。

 トレドの政党、ペルー・ポシブレは一応ベラウンデ・アウブリを候補に出しはしたが党内の足並みがそろっていない。


 これらの顔ぶれは、いずれも二〇〇〇年から二〇〇一年七月までのペルーの政治の舞台に登場した顔ぶればかりだ。

 人民行動党のバレンティン・パニアグアは、今回、中道戦線同盟(AFC)から出ている。

 パニアグアは、フジモリ政権崩壊後、やり直し選挙を担当する暫定政権の大統領として議会によって選任された。

 欧米的な民主主義を信奉しているパニアグアは、デモクラシアの回復を叫びフジ・モンテシーノス疑惑の追及に努めた。

 パニアグアが所属していたアクション・ポプラール(人民行動党)のベラウンデ政権は一九八〇年に民主的な政権として誕生したが、テロの多発と経済の混乱を招いてすでに国民の審判を受けている。

 それにペルー国民が求めているものは、必ずしも欧米的なデモクラシアではない。


 アプラ(アメリカ革命人民同盟)から出馬しているアラン・ガルシアは、雄弁で聴衆を魅了する才能を持っているが、かつて大統領として試みた社会主義的な政策は、国を破綻させ国民の信頼を失った。

 ガルシアは、フジモリ政権から汚職の疑惑で追及されコロンビアに亡命していたが、フジモリの失脚とともに時効が適用されてペルーに帰国することが可能となり、政界に復帰した。


 国民団結連盟(UN)のルルデス・フローレスは、エネルギッシュでバランス感覚のある女性政治評論家で、二〇〇一年のやり直し選挙のときに、トレド、ガルシアなどとともに選挙を闘った。

 フローレスにはフジモリスモの継承が期待されていたが、そのことがかえって仇となり、反対勢力からはフジ・モンテシーノスに近いと攻撃されて支持率を落とした。


 マルタ・チャベスは、二〇〇〇年の選挙でフジモリ政権の支持母体であるペルー2000選挙連合の一翼をなす新多数派運動の女性政治家だった。

 マルタ・チャベスは、フジモリ失脚後もルス・サルガード、カルメン・ロサダとともにフジモリ擁護の闘いを続けてきた。

 二人が失脚したあとも反フジモリの逆風を受けてきたが、未来への連帯党(APF)から出馬することになった。副大統領候補には、フジモリの実弟、サンチャゴ・フジモリを指名した。


 独立浄化戦線(FIM)のフェルナンド・オリベーラは、モンテシーノスによるコウリ議員買収ビデオを公開してフジモリ政権崩壊のきっかけを作った。

 フジ・モンテシーノス汚職追放を叫んでトレド政権と手を組んできたが、政権内での折りあいが悪く、つねにごたごたのもとになってきた。


 以上のなかで異色なのは、オジャンタ・ウマラ、四十三才である。

 フジモリ政権末期の二〇〇〇年十月二十九日、ペルー南部のモケグアで武装蜂起したが、フジモリ政権崩壊後の議会の穏便なはからいで国家反逆の罪を問われることなく軍に復帰した。

 ペルーのための連合党(UPP)から立候補しているが、UPPというのは選挙戦の過程でウマラへの支持率が急速に高まるのを見た左翼勢力が、選挙のために、にわかに結集してつくった政党である。

 ウマラは、左派民族主義をかかげており、一九六八年にクーデターで成立したベラスコ軍事革命政権に学ぶべきものが多いとし、自由市場経済に対する根本的な変革の必要性を説いており、国の内外から懸念をもって見守られていた。

 ベラスコ軍事政権は、農地改革、産業の国有化、ソ連との軍事協力などを推進した左派軍事独裁政権であった。

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