備後山城風土記

備後の山城と武将の紹介ブログです

備後の応仁の乱

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備後の戦い
 
 東西両軍に別れた備後の国人衆は、始め両軍の招きに応じて、近畿地方で戦った。
 
『応仁記』によると、江田・和智・山内・宮の諸氏は、大乱開始直後の応仁元年(1667)6月8日、西軍の総大将で備後の前守護山名宗全の扱きに応じて但馬国(硯兵庫県北部)に出陣し、東軍細川勝元の領国丹波(京都府北西部)に攻め入っている。
 
また、山内氏や渡辺氏、宮氏の一族法成寺尾張守等が京都の市街戦で活躍したことが記録に残っている(『山内首藤家文書』・『渡辺先祖覚書』等)。しかし、国人衆が両軍首領のため中央で血を流したのは僅かの期間であった。戦いが長期戦になると、彼らはいち早く帰国し、その最大の関心事、所領の確保・拡大を目指して狂奔することになった。
 
 備後に於ける東西両軍の戦いは、大乱勃発の翌年、応仁2年(1468)8月、世羅郡で始まった。すなわち、『山内首藤家文書』によると、同月3日、庄原甲山城の山内豊成の軍勢を中心とした西軍方は、同郡小世良(世羅郡世羅町)に侵入し、東軍方の軍勢と戦っている。
 
 
イメージ 1
苧原要害、中山城址
 
戦いは、最初西軍方優勢の内に推移したようだ。翌文明元年(1469)2月、山内豊成を中心とした西軍方の軍勢は大きく南下し、東軍杉原氏の領内「杉原苧原」(尾道市小原町)に侵入した(「小早川家証文」160号等)。
 
 東西両軍の合戦が先ず世羅郡で始まったのには理由がある。それは世羅郡の大部を占める高野山領「太田荘」がこの時期、実質的に現任の守護で父宗全に背いて東軍方に味方した山名是豊の支配下にあったためだ。同荘は、応永9年(1402)、山名氏の「守護請」となっており、守護山名氏にとって備後に於ける拠点として大きな意味をもち、是豊もこの地を経済的な基盤としていた。太田庄を誰が握るかが大乱の帰趨を決める鍵となった。また、山内氏を中心とした西軍方の軍勢がさらに南下の姿勢を示したのは、その先に是豊の本拠、守護所尾道があったからである。
 
守護所尾道
従来、備後守護としての山名氏は、守護所を神辺城(福山市神辺町)に置いていたと考えられていた(「福山市史」上巻等)。しかし、神辺城の初見は、確実な史料の上からは戦国時代の天文年間のことであり、この説は見直されつつある。尾道西国寺の『再興寄付帳』によると、室町中期、同寺は守護山名持豊を初めとした山名一族の力によって再興されており、さらに、「尾道浦」は高野山領太田荘の倉敷地として、前述のように山名氏の支配下にあった。備後に於ける山名氏の本拠は尾道であったとするのが安当であろう。
 
 
イメージ 2
十刹の一つ、尾道天寧寺
 
すなわち、山内豊成を中心とした西軍方の国人衆は、是豊の守護所が置かれていた尾道を目指して南下を繰り返したのだ。

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