備後山城風土記

備後の山城と武将の紹介ブログです

町名を訪ねて

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塩田として誕生した、福山市松永町
 JR松永駅の南口に降り立つと、その変貌には驚かされます。かつて塩田が広がっていた駅前には、広い道路が真っすぐ南に伸び、両側にはモダンな住宅や商店が軒を並べています。
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本庄重政自刻像(承天寺蔵)
 今から三百余年前、本庄重政が“袋の海”と呼ばれていた松永湾を埋め立てて、塩田を造成しようとした時、ここには遠浅の海原が広がっていました。陸は、現在の神村から南に“松崎”と呼ばれる岬が、南に突き出ていたのみでした。
 松永の埋め立ては、万治三年(一六六〇)の春に始まったと伝わっています。当時重政は、福山藩に帰参して七年目で五五才、既に多くの干拓事業を手掛け、藩の興廃を一身に担った感がありました。しかし、松永塩田の造成は、その彼にとっても容易な工事ではありませんでした。沖に築造した堤防は嵐のたびに流され、完成は七年後の寛文七年(一六六七)と伝わっています。
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松永地区の干拓の様子
松永の町名はこの時に生まれました。この地は初めにお話ししたように、神村の松崎の地先に造成されました。重政は、その「松」にちなんで、中国の吉祥句「松寿永年」から、新たに造成された土地の繁栄を祈って「松永」と命名したのです。
 それだけに重政のこの塩田に対する愛着は深く、自らの居宅(現在の本庄神社の地)を塩田の東の丘の上に移し、その南には菩提寺として承天寺を建立しています。そのため彼によって造成された松永村は、いつしか“本庄村”と呼ばれるようになった言われています。
 しかし、これが彼の子孫に災いしました。彼のこの行為は、福山藩の中に本庄氏の別天地を作ることでした。重政が生きているうちは彼の声望を憚って黙認していた藩も、彼が延宝四年(一六七六)に没するとさっそく本庄氏の追放を画策します。すなわち、喧嘩という些細な罪を取り上げて重尚を領内から追い出し、本庄氏の勢力を松永から一掃してしまうのです。(田口義之「町名を訪ねて」福山リビング新聞連載)

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