備後山城風土記

備後の山城と武将の紹介ブログです

備後の武将

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美作枡形城主福田三郎左衛門尉盛雅
 
 福田三郎左衛門尉「盛雅」で問題になるのは、この人物の活躍が永禄・天正年間に至っても見られることだ。しかも美作の城主として…。
 
 福田盛雅について、「日本城郭大系」13広島・岡山版の津山市医王山城(岡山県津山市吉見)のところに、次の記載がある。
 
「時は移り、永禄九年(1566)に出雲の富田城は毛利氏によって落城し、尼子氏は滅んだ。そして、天正年間(1573〜92)に入って、美作は毛利氏と宇喜多氏が対峙することとなった。この時、医王山城は毛利方に属していて、枡形城主福田盛雅が預り、毛利輝元は在番衆として湯原春綱を送っていた。天正八年(1580)に宇喜多氏は医王山城を攻撃したが、湯原春綱・小川右衛門兵衛尉元政・塩屋元貞は宇喜多方への内通者を出しながらも三の丸を死守し、篭城したといわれる。このため宇喜多勢は撤退した。しかし、天正十年(1582)に毛利氏と羽柴(豊臣)秀吉の和議により、美作は宇喜多領に属すこととなった。ほどなく本城も開城したものと思われる。(下略)」
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盛雅が籠城した医王山
また、巻末の城址一覧の所にも、「枡形城 苫田郡鏡野町香々美藤屋 小早川隆景が築城。永禄年間、福田勝昌が入城。天正七年、毛利・宇喜多氏の攻防戦。」とある。
 
美作枡形・医王(祝)山両城に於ける福田盛雅の活躍は史実である。
 
「先ず兵糧の儀、追々枡形に至り指し上げ候の間、お心安んずべく候、毎事福 三(福田盛雅)相談ぜられ、是非当城の儀(医王山)此方てだて待ちつけられ、(天正8年6月19日付小早川隆景書状)」
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医王山城の石垣
「何ヶ度申し候ても当城(医王山)堅固御覚悟比類なく候、此の表御出勢の儀、油断無く相催し候、其の段盛雅(福田)江申し入れ候、其の表御手立ての儀、程あるべからず候、御加勢御待ち付け肝要に候(天正8年9月十四日付毛利氏年寄連署書状)」※(「閥閲録」五十一より)
 
 史料は、枡形城主福田三郎右衛門尉盛雅が援軍の小川元政・湯原春綱等と共に、寄せ手の宇喜多勢と悪戦苦闘する様子を伝えている。
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激戦となった医王山城の尾崎丸
 問題は、この美作枡形城主福田盛雅と、備後国芦田郡福田利鎌山城主福田氏との関係である。「福田」は、さほど珍しい名字ではない、両者は全く別の家系の可能性もあった。
 
 枡形城の福田氏が備後の出身であったことは、意外な史料の出現で明らかになった。
「東作誌」に収録された次の史料がそれだ。
 
清居山新龍寺棟札
「永禄十二巳巳十二月十九日願主権律師重明
 奉造立仏壇成就時地頭備後国住福田三郎右衛門尉代官寺岡備前守諸旦那繁昌処」
 
 この史料が証明したのは次の一点、永禄十二年(1569)、新龍寺の所在する旧美作国東北条郡北高田庄上横野村、現在の津山市上横野一帯の領主(地頭)は、備後国の国人福田三郎右衛門尉であった、という「事実」だ。(田口義之「新びんご今昔物語」大陽新聞連載)

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