|
大田荘と尾道
大田荘の倉敷地「尾道」 現在の港町尾道の起源が「大田荘」の倉敷地にあるのはよく知られている。大田荘とは現在の世羅郡の大半を占めた広大な荘園で、その年貢の積出港として指定されたのが「尾道村」であった。すなわち、尾道市の中心部は遠く離れた大田荘の「飛び地」であったのである。 天寧寺三重塔
大田荘をめぐる人々
この大田荘をめぐる歴史群像は多彩である。まず、荘園として開発申請を政府に申請した平重衡は、平清盛の五男で源平合戦の最中「南都の焼き討ち」を行ったことで知られる。すなわち、あの東大寺の大仏さんの首を最初に落とした人物だ。また、当時の荘園領主はその領有を確実にするため中央の権力者を「本家」として名目的な領主としたが、重衡が大田荘の本家と仰いだのは後白河法皇であった。しかし、大田荘の運命は平家の滅亡と共に一転した。源平合戦後、法皇は大田荘を源平合戦の戦死者を弔うための財源として、紀州の高野山に寄付したのである。こうして有名な高野山領大田荘が成立する。 万福寺跡層塔(世羅町堀越)
記録によると、鎌倉時代、大田荘には「600町」の田圃があったとされ、、高野山にとっては正にドル箱的な荘園であった。その年貢は1800石に及び、尾道はその積み出し地として発展していったのである。大田荘の最盛時には、甲山から尾道を結ぶ街道は人や馬で溢れ、秋には年貢を運ぶ船で港はごった返したのである。鎌倉時代後期の文書によると、当時の尾道には千軒の家が甍を連ね、立ち並ぶ蔵には財宝が満ちていたと言う。 (田口義之「備後の歴史と人物」より) 浄土寺多宝塔
|
尾道散策
[ リスト ]







