備後山城風土記

備後の山城と武将の紹介ブログです

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水呑町の「洗谷」は見所いっぱい
①洗谷貝塚
縄文時代の貝塚遺跡、昭和八年水呑小学校の橘高武夫氏によって発見された。昭和四十六年の発掘調査によって、今から八千年前の縄文早期の土器や弥生式土器が出土し、福山周辺では最大の縄文貝塚であることがわかった。
 
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②芦田川旧堤防
現在の芦田川は昭和初年の大改修工事後の姿で、以前は本庄二股で二つの川に分かれ海に注いでいた。かつての芦田川の堤防はその時の工事によってほとんど消滅したが、洗谷随入に一部残っている。
③鞆軽便鉄道「妙見駅」跡
大正二年に開通した「鞆鉄道」は、時代の波に押されて昭和二十九年に廃止された。五十歳以上の方は「ラッキョウ汽車」として記憶されているが、その跡も旧鉄路にそって点々と残っている。洗谷には「妙見駅」があった。
④お菊茶屋跡
明治元年一月九日、尾道にいた長州軍は福山城目指して進撃を開始した。これがいわゆる幕末の「福山戦争」である。この時、長州軍の一隊は今津から熊野を通って南から福山城を攻撃しようとした。この時、すでに福山藩は戦意なく、長州軍に使者を派遣して戦う意思のないことを伝えた。その使者三浦義建と井上馨(当時今出頑八と偽名を使う)が会見した場所が妙見山下の「お菊茶屋」であった。
⑤松尾神社
創立年月日は不祥だが、宝暦六年(1756)の棟札が残っている。腰から下の病の平癒祈願で知られ、信者の奉納した御神酒徳利の数は数万本と言われ、地元では「日本一」と自慢している。なお、松尾明神は、本来「酒造」の神様である。
⑤宝山
現在の妙見山はかつては「宝山」と呼ばれ、一説にはこれが「福山」の地名の起こりになったという。すなわち、この宝山に対する「福山」が現在の城のある常興寺山で、勝成はこの「福山」を縁起のいい地名として新城下町を「福山」と名づけたと言う。なお、「宝山」は銅山に因む地名と考えられ、現在でも洗谷の奥に古い「銅鉱山」の跡「間歩」が残っている。
⑥妙見神社
妙見山の山頂に建つ神社で「妙見山」の通称はこの神社による。創立年代は不祥だが、以前は縁日に屋台が並ぶほど賑わったという。妙見は「北辰妙見大菩薩」とも称され、北辰すなわち「北斗七星」を神として祭ったもので、古来鉱山と深い関わりがあるといわれている。

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個人的にはい剖く惹かれますねぇ。
そのうち「ぶら探」で企画が有りそうですねぇ。

2012/5/29(火) 午後 0:52 [ 胡 備後守 ] 返信する

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その内をご期待ください。

2012/5/29(火) 午後 1:54 [ ゆの屋又三郎 ] 返信する

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