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町名を訪ねて 福山市「多治米町」
「タジメ?」「どんな字を書くのですか」市外の人にお会いする時、よく尋ねられます。
私は、初めこの町名は、江戸時代前期の福山総奉行本庄重政の命名ではなかろうか、と考えていました。
と言いますのも、多治米は江戸時代前期の干拓地で、完成した万治元年(1658年、寛文9年との説もある)は、ちょうど重政の活躍時期に重なるからです。重政といえば、松永塩田の開発が有名です。しかも「松永」は彼の命名になるもの。
「多治米」もあるいは…と推理してみたのです。 しかし、「多く米を治める」村とは、いかに封建の世とはいえ無粋が過ぎます。
かつての土手跡、右は川口
では、一体この町名は何に由来するのでしょうか。一つ、興味深い説をご紹介してみましょう。それはタジメは「田〆(しめ)」ではないか、という説です。多治米の形は北が締まって、南に開いた形をしています。また、「〆」は干拓地の土手を締め切ることにもつながります。
最初、沖の干拓地のことを単に「田〆(しめ)65丁」と呼んでいたのが、後に藩役人の誰かが、したり顔で「多治米」と書いた…。いかにもありそうな話です。
最近、都市化して変容著しい町ですが、歩いてみますと、点々とかつての干拓地の面影を見ることが出来ます。
多治米西の荒神さん
まず、東と西の荒神さんです。どちらも当時の土手の上にあって風水害から人々を守ってきた神様です。特に西の荒神さんは、一名「流れ荒神」と呼ばれ、かつてすぐ西を流れていた芦田川に上流から流れ着き、そのまま祀つられたものといわれ、この地が干拓地であることを無言のうちに私たちに教えてくれます。
また、沖野上と川口の堺の用水路もかつての汐廻しの跡で、干拓当初はこの溝を使って田畑にわく塩水を海に排水していました。
こんな史跡も、いつまで現在の姿を留めることができるでしょうか。(田口義之「町名を訪ねて」福山リビング新聞連載より) |
町名を訪ねて
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そういうことでしたか。意味合いを間違えて理解してました。
失礼を致しました。
2012/6/5(火) 午後 7:07 [ 胡 備後守 ]
何か不用意なことを云いましたでしょうか?反省、反省
2012/6/5(火) 午後 8:06 [ ゆの屋又三郎 ]