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有地川流域の歴史、備後国福田荘
中世、荘園制の時代を迎えると、町域にも荘園が設定された。史料に見えるのは『福田荘』である。この荘園は鎌倉時代に延暦寺青蓮院門跡領として史料に現れ、その後南北朝時代、杉原氏が地頭として入部した。問題になるのはその荘域と、地頭杉原氏と在地伝承との関連である。
福田荘の鎮守「亀山八幡」
ます、福田荘の範囲である。在地の伝承では「竹満荘」の名は知られているが、福田荘の名は欠けている。これをどう考えるかである。福田荘の中心地が現在の大字福田一帯であったことは間違いない。在地領主の氏寺であったと推定される「福田寺(福性院)が存在し、地頭の拠点であった利鎌山城跡も存在する。
竹満荘の存在は否定的である。理由は福田荘は町域から遠く離れた、西南の尾道市高須町までを含んでいたと考えられるからだ。観応二年(一三五一)二月一二日、足利尊氏が杉原信平に恩賞として与えたのは「備後国福田荘高須」の地頭職であった。
福田寺跡の石塔群
これは尾道市高須町が福田荘に含まれていたことを意味する。飛地ということも考えられるが、『備後古城記』には福田の在地武士と考えられる福田・岡田氏の名が高須の古城主として書上げられている。芦田と高須の間に位置する「新庄本郷(本郷町)」は、福田本庄から分かれた新立の荘園と考えればよい。すると、福田荘は上下有地・樽磨を含むと考えられ、「竹満荘」は存在する余地がなくなる。
竹満荘は福田荘の「地頭分」の別称と考えられないだろうか。荘園領主と地頭領主が現地を折半する下地中分は芸備地方では一般的で、福田荘も下地中分の結果、大字福田と大字有地に二分され、その領家分(或いは地頭分)が後世「竹満荘」と称せられた、こう考えたいのである。
地頭杉原氏の伝承は在地では全く見られない。代りに伝えられているのは、本姓岡田氏という福田氏の系譜伝承である。
在地武士としての福田氏は、歴史上の存在である。応永三四年十一月一九日の杉原行勝譲状に「福田太郎」の名が見え、戦国期には福田三郎左衛門尉盛雅の活躍が史料上で確認できる。
問題は、これらの史料に見える福田氏と在地で伝承された福田(岡田)氏の関係である。結論を言えば、史料に見える福田氏は南北朝時代の地頭杉原氏の後裔と考えられる。
利鎌山城跡 理由は、杉原氏に伝えられた古文書を検討すると信平の子孫の一流が福田に本拠を置いたと考えられることと、利鎌山城の位置である。最近の新史料の発見によって備後杉原氏の本貫地は福山市の丸之内から本庄町一帯の「杉原保」であることが明らかになった。室町時代、杉原氏が府中の八尾城に本拠を置いていたことも明らかだから、八尾と杉原保との連絡が重要になる。その場合、高増山系の北と南に拠点になる山城を築いて備南支配の要にしようと考えたのではなかろうか。そして、その北の拠点が利鎌山城であり、南の拠点が山手町の銀山城であったと考えられるのだ。勿論、伝承に見える福田(岡田)氏が地頭杉原氏の後裔であるかどうかは、また、別の問題である。
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芦田の歴史
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2012/8/26(日) 午前 7:39 [ lyc2825b9z37zb9 ]
備後福田氏の家紋が知りたいです
福性院の家紋が福田氏の家紋でしょうか?
2014/2/13(木) 午後 2:54 [ tsu**ma_h*i7y* ]
福田氏の家紋は不明です。もし備後国人杉原氏の一族とすれば「剣巴」になります。
2014/2/13(木) 午後 3:47 [ ゆの屋又三郎 ]