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備後の応仁の乱(3)
「宮氏の向背」
守護所尾道近くまで攻め込まれたのであるから、東軍方の守護山名是豊にとって、この西軍方の攻勢は見過ごすことはできなかった。「碧山日録」によると、応仁2年(1468)12月、是豊は備後に帰り、西軍方に立ち向かった。
宮氏の本拠「かしわ村」
是豊の帰国には、別に大きな目的があった。西軍方に走った宮下野守の討伐である。従来、「応仁の乱」で、宮下野守は東軍に属したといわれてきた。『福山市史』上巻は、『応仁別記』を引いて、「宮氏では惣領宮下野守自身が是豊に従って上洛している」、「このころ(筆者注文明2年10月)山名是豊は宮下野守など備後の東軍を率いて近畿地方を転戟しており」と述べている。しかし、同書が根拠としている『応仁別記』には脱漏があり、証拠になり得ない。宮下野守の名が現れるのは、同書文明元年7月13日の、西軍大内政弘が摂津池田筑後守を責めた記事の後で、「山名弾正是豊、備後国宮下野寺ヲ責手二道、悉打順ケレハ、打テ上ラレ、兵庫へ切上ラレケリ(下略)」とある。
『福山市史』は、この記事を論拠に宮氏が東軍に味方したとしているが、では是豊は何処に宮下野守を遣わしたのか、さらに是豊は何処から何処へ「打テ上ラレ」たのか、などなど理解に苦しむ文章だ。
それよりも、宮氏の向背については『重編応仁記』六、摂津合戦事の記述を採った方が良い。「其頃東軍山名弾正是豊、備後国ノ住人宮下野守退治ノ為、彼国ニ馳下り、宮ヲ打従へ帰洛スル所ナレバ其儘摂州ノ兵庫二陣ス」
宮下野守が西軍に応じたことは、別の史料からも確認出来る。『応仁記」巻二、室町亭行幸之事によれば、応仁元年8月、室町御所に詰める奉公衆の内12名の者が西軍方に内通し、東軍細川勝元の要請により幕府から放逐されたが、この中に宮下野守、同若狭守も居た。これらのことから、『応仁別記』には記事の脱漏があることは明らかで、宮下野守は西軍に味方したとするのが正しい。
備後備中の境にそびえる坪生仁井山城址
「是豊の入国」
この是豊の反撃は、一応功を奏した。西軍の南下は阻止され、文明元年4月には、東軍が逆に北上し重永神上(世羅郡世羅町)で西軍と戦った。だが、是豊が上洛すると、たちまち西軍の反撃が始まった。西軍の総帥山名宗全は、備後に腹心の宮田教言を送り、是豊勢力の撲滅を謀った。宮田教言は、山内氏の拠点甲山城(庄原市本郷)を本拠に活動し、文明2年夏頃にはほぼ備後一国を制圧した。宗全は書状の中で「今に於いては外郡の儀も悉く落居したようで誠に目出度い」と述べている(「山内首藤家文書」124)。
これに対して是豊は、東軍方の有力武将として畿内を転戦していたが、領国備後の西軍方の動きを黙視することは出来ず、同年暮帰国を決意した。しかし、実際に是豊自身が備後坪生(福山市坪生町)に着陣したのは更に遅れて文明三年(1471)4月16日の事であった(三浦家文書)。(新びんご物語「あしだ川」掲載) |
備後の応仁の乱
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