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永井氏由来
ー芸備地方における「関が原」の意味―
ここに「永井(長井)氏由来」という古びた半紙の綴りがある。庄原市総領町稲草の龍興寺という禅刹に伝わったもので、内容は江戸時代前半期の書状をまとめたものである。
備後地方の歴史を紐解いてみると、世の中を一変させた大事件として、「関が原」(十六世紀―十七世紀)と「水野氏の断絶」(十七世紀―十八世紀)がある。
中でも1600年の「関が原の合戦」を契機に起こった毛利氏の防長移封は、芸備地方に深刻な影響を及ぼした。なにしろ鎌倉以来連綿と在地を支配してきた国人衆のほとんどがこの時毛利氏と行をともにしたのだ。これは現在の各家の「引越し」といった生易しいものではない。当時の国人衆の「家」は一つの企業体である。それが根こそぎ防長に引っ越したのだ。
そこには人々の別離があった。在地に残る者、主君に付いて去っていく者、現在と違いこの別れは永遠と言っていいものであった。数百年住み慣れた土地を離れる苦しみはいかばかりであったか…。引き裂かれた一族は毛利氏が芸備を回復するまで永遠に会うことは無いのである。そして、それは叶わぬ夢であった。
「永井氏由来」の中に綴られた数通の書状は、そうした「別離」の悲しさを現代の我々に知らせてくれる。
田総文書「長井聖重譲状」
この「別離」の主人公は田総長井氏である。田総長井氏は鎌倉幕府草創の功臣と言われた大江広元の子孫に当たる。広元の次男時広は出羽長井庄を苗字の地として「長井」を称し、父の跡を継いで幕府の中枢に参画した。そして、その子孫の一流は備後守護職を相伝し、備後の各地に庶家を輩出した。田総長井氏はその一つで、甲奴郡田総庄(現庄原市総領町)に土着し、在名を採って「田総氏」を称した。正に「鎌倉以来」の旧族と言っていい。
ところが、この鎌倉以来の田総氏も住みなれたふるさとを離れるときが来た。「関が原」である。田総氏の当主はこの時、有名な安国寺恵慧の讒訴を受け、浪人中だったとも言うが、それにしても四百年近く続いた豪族である。在地には親しい一族や被官が多く残っていた。この頃、田総氏の当主元里、その子元勝は相次いで死去したが、後を継いだ元忠は縁を頼って長州萩に赴いた。元忠の姉妹は毛利家中の歴々に嫁いでいるし、なにしろ長井氏と毛利氏は元を正せば同じ一族なのだ。そして、寛永年間、目出度く毛利家に仕官することが出来た。田総の龍興寺の僧が萩の元忠の住まいを訪れたのは、丁度この頃であった。元忠はさっそくこの僧に故郷への手紙を託した。
長井田総氏の菩提寺「龍興寺」
「皆様ご健勝の由で何よりです。さてさて一生の間、今一度お目に懸かりたく思っておりましたのに、善鏡(僧の名前)のお物語りで、そちらの様子を知ることが出来、大変喜んでおります…」
「父元勝が大坂で死去しました節も弔い執行された由、改めてお礼申し上げます…」
「私母はこちらで死去して二十八年になります…」
「皆様ご存知の清十郎とは私のことです。今は長井七郎右衛門と名乗り、当年とって五八才になります…」
龍興寺に伝えられた「永井氏由来」
元忠の書状を受け取った田総の一族田総孫右衛門はさっそく返事を書いた。
「清十郎様を長井七郎右衛門様と申し、御息災の由、何よりです。殊にお子様お二人御ありの由、また、御仕官の望みを達せられた由、誠に忝く存じます…」
「ご存知の亀谷の滝口又左衛門は死去しましたが、その子の万ふくと申すものは今は又左衛門と申し、水野日向守殿御領分四五千石ほどの代官を勤めております。今五十二歳になりますが元忠様が故郷を出立された時のことを子供心に覚えておると申しております…」
「元忠様のお守役を勤めた右谷の二郎四郎は今年で八十歳になりますが息災です。この者も元忠様の息災な御様子を聞き、喜んでおります。…」
孫右衛門の書状には、この調子で故郷の所縁の者の様子が綿々と綴られる。そして、最後にこう締めくくられている。
「そちらの田総長井家所縁の方々にお伝え下さい。『田総には古老の者が無事息災でおります』と…」
龍興寺田総氏墓石
何故か、この中に萩に移った筈の元忠の墓もある
書状の奥付は寛永十三年(一六三六)とある。関が原の合戦から三六年、一族離散の痛みはまだ当時の人々から消えてはいなかったのだ。
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