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備後の守護と地頭(その2)
荘園と武士
中世は荘園と武士の時代であった。しかもこの両者は当初より切っても切れない関係にあった。時は平安の終わり頃、各地の有力者は競って原野を開墾して、所領としていった。しかし、この開発は平穏に行なわれたものではない。周囲には同じように所領を拡大しようとする競争者があり、支配下の有力農民の間にも機会があれば主人を押しのけて自ら領主に成上がろうとするものがいた。ライバルを蹴落とし、所領を支配するには武力がいる。こうして各地に続々と武士団が誕生した。彼らはより有力なボスの下に結集して利権を守ろうとする。復習になるが、これを経済的な見地からみれば「荘園」の発生となり、社会的な見地から考察すれば「武家政権」の誕生となる。すなわち、荘園のあるところ武士がいたはずなのだ。福山地方にもその痕跡はある。
吉津庄と杉原保
吉津庄と平居士
福山市街地の北には、木之庄から吉津・奈良津となだらかな丘陵が続いている。この丘陵は奈良津の東で大きく隆起し、蔵王山の山塊を造り、さらに谷を隔てて宇山から神辺町の竹尋にかけて欝蒼とした山林を形成している。中世、この山塊の南麓には「吉津庄」或いは「吉津保」と呼ばれた荘園が存在した。現在、吉津の地名は「北吉津」などわずかに名残を止めているに過ぎないが、かつては広大な面積を持った荘園であった。中世の文書には「吉津庄内木之庄」「吉津庄内千田村」「吉津保内宇山村、市村」とあって、木之庄はおろか千田・宇山・市村(現蔵王町)もその範囲に含まれていた。
南北朝時代の建武年間(14世紀前半)、この地に一人の僧侶が足を止めた。後に臨済宗永源寺派の開祖となった寂室元光である。寂室は建武元年(1331)、この地の「平居士」に招かれて約3年滞在し、清新な禅風を広めた。寂室語録によると居士は寂室に傾倒して、自らの居宅を寂室に提供し寺とした。これが室町期に全盛を極めた永徳寺の開基伝承であるが、この「平居士」なども吉津庄内に力を持った在地勢力の一人であろう。
胎蔵寺釈迦如来胎内文書
この文書の発見によって杉原保は
福山市の丸の内から本庄一帯であることが判明した
今日、吉津の平居士は室町戦国期に備後の代表的な在地豪族として知られた「杉原氏」の一族と考えられている。今の城山にはかつて「常興寺」という禅宗の伽藍が存在した。この寺の什物に「杉原常興寺」と記されたものが近世まで伝わっていた(備陽六郡志)。また、本庄八幡社には杉原氏の先祖平貞盛を祭る境内社が存在したという(福山志料など)。
長井氏と長和庄
福山市の西部瀬戸町一帯に存在した荘園長和庄にも、在地土豪の痕跡が残っている。同町長和に所在する的場山城は、低い丘陵上に築かれた典型的な初期城館跡だが、この城は近世の地誌によると、長和弾正左衛門なる人物が居城し、源平合戦に平家に味方して滅んだと伝える。この長和氏なども在地生えぬきの武士の一人であろう。
田総家文書4号
長和庄の場合、鎌倉期に地頭として入部した長井氏の活躍が有名である。長井氏は鎌倉幕府草創の功臣大江広元の嫡流にあたる関東御家人で、広元の次男時広が出羽長井庄(山形県)を本拠として長井氏を称したのに始まる。ちなみに、のちに戦国大名として芸備地方を支配した毛利氏は広元の四男季光の子孫にあたり、元就が備後に勢力を伸ばすにあたっては惣領家にあたる長井一族の援助が大きかったと言われている(福山市史上巻など)。
的場山城址に残る中世の石塔
長井時広は鎌倉幕府から備後守護に任命され、一族は各地に土着して、在地の豪族となった。長和庄の地頭職を相伝したのは、田総長井氏(本拠甲奴郡田総庄)と福原長井氏(本拠三上郡信敷庄)で、それぞれ室町時代後期まで長和庄の東方地頭職と西方地頭職を保持した(田総文書など)。長和庄内に本拠を置いた長井一族もあったようで、同氏の系図には「長和」を名字とした者もいた(尊卑分脈)。
草戸千軒の繁栄と長井氏
長和庄は現在の瀬戸町から佐波・草戸・水呑・田尻町一帯を庄域とした広大な荘園で、その年貢積出港・市場として繁栄したのが有名な草戸千軒町遺跡である。
国宝明王院五重塔
直接の史料は残されていないが、この草戸千軒町の繁栄と長井氏は密接な関係があったと考えられている。その一つの証拠が現明王院五重塔の伏鉢に刻まれた銘文である。伏鉢の銘によると国宝の五重塔は、貞和4年(1348)「沙門頼秀」の勧進によって再建された。実はこの「頼秀」の名は長井氏の系図に出てくる名前と一致するのである。系図によると時広の三男泰茂は「長和」を名字とし、その次男に「頼秀」という人物が現れる。また、他の記録からもそれをうかがわせるものがある。現明王院は中世「常福寺」と称した「律宗」の寺院であったが、この「律宗」こそ、鎌倉幕府の執権北条氏が支援した宗派であったのだ。長井氏は幕府の要人として北条氏と緊密な関わりを持った御家人であった。北条氏の庇護下に備後の守護を務めたと言ってもよい。すなわち、律宗の寺院が存在するところは長井氏の勢力が強く及んでいた、と考えて良いのだ。
草戸千軒町遺跡のあったあたり
或いは、長井氏はこの長和庄内(もっと言えば草戸千軒付近)に守護所を置いていた可能性がある。備後国内で律宗の寺院が存在したのは、ここ草戸と尾道、大田庄内(現世羅町)の3ヶ所、いずれも長井氏が触手を伸ばした地域である。
いずれにしても当時の武士は経済感覚が鋭敏であった。「町」は宝の山のような存在であった。取引に税金を懸けることも出来るし、年貢米の売買で莫大な利益をあげることが可能であった。鎌倉という大都市の住人であった長井氏が草戸千軒の繁栄を見逃すはずはない、と考えるのだが…。(田口義之「あしだ川」連載中) |
新びんご物語
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