備後山城風土記

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新びんご物語

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備後の守護と地頭(3)ー石清水八幡宮領藁江庄ー
 
中世の人々
 中世の人々の生活は、荘園の中で行われた。それは現代の私たちが福山市の「市民」、或いは神辺町の「町民」として生きていくよりも、もっと生活に密着したものであった。私たちは住民票を他市町村に移せば簡単に引越しできるが、中世の人々は違った。生まれ育った荘園を離れるということは、「流浪の民」となることであった。確かに中世を通じて、「遍歴」を重ねる人々は多かった。木地師や轆轤師は材料になる木々を求めて各地を渡り歩いた。また、芸能を生活の糧として全国を遍歴する人々もいた。しかし、彼等は荘園の農民と違って彼等なりの秩序があり、社会の構成員としてそれなりの収入を得ていた。だが、荘園から出た農民にはそんな生活の方法はなかった。糧を求めて各地を放浪し、飢饉ともなれば道端に白骨をさらすだけであった。
 
石清水八幡宮領藁江荘
 福山市街地から西南に約10キロ、赤坂で国道を南に折れ、峠一つを越えると金江町に入る。かつての「藁江(わらえ)荘」の故地である。
 現在の「藁江」は、金江町内の大字の一つになっているが、中世には松永湾岸のほぼ三分の一を占める広大な荘園であった。
 荘園の中心が、ここ金見の八幡さんである。八幡さんの建つ丘は、荘園の東に聳える馬背山から西南に伸びた丘陵の突端で、ちょうど荘園の真中に位置する。
 藁江荘の荘園領主は、京都の石清水八幡宮である。平安時代後期、この地に所領を得た石清水八幡は、領民を物心両面から支配しようとした。荘園のほぼ中央を占めるこの丘に八幡宮の分祠を建て、荘園の支配の要とする。荘園の住民から見れば、領主の支配は、神様の後ろ盾を持っている。反抗すれば神罰が下る。人々の心の中に、神や仏が大きな位置を占めていた時代、これでは領主に反抗することも出来ない。
 
藁江庄の鎮守近居八幡
イメージ 1
 
 こうして石清水八幡宮の藁江荘支配は順調に滑り出した。勿論、神様は実際に荘園の支配などしない。領主の代官が代って行なうのである。金見の八幡さんが建つ丘は次第に高さを増して馬背山に向う、そして、八幡さんから一つの谷を越えたところに「藁江城」と呼ばれる丘陵がある。登ってみると山頂は平らに均され、尾根続きには空掘の跡と思われるところも残っている。比高はさほどでもない、山城の跡と言うより中世の屋敷跡と言った方が良い。言うまでもなく、これは荘園を実際に支配した代官の居館の跡である。
 
八幡さんと神宮寺
 藁江荘の初期の代官のことははっきりしない。金見の八幡社のすぐ東隣には「実蔵坊」という真言のお寺が建っている。あるいは初期の藁江荘には僧形の人物が代官として都から派遣され、荘園の管理に当たっていたのではなかろうか。明治維新までは神仏混合といって、神社の管理を僧侶がするのは当たり前のことで、神官より坊さんの権力の方が強かった。各地の有力な神社にはたいてい神宮寺と呼ばれる寺院があって、神社の実権を握っていた。おそらく実蔵坊もかつての神宮寺だったのであろう。本堂の前には南北朝時代の銘文を持つ宝筐印塔があって、歴史の古さを物語っている。
 
実蔵坊の宝篋印塔(永和四年銘)
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地頭と代官
 しかし、時代が下ってくると僧侶や神官では荘園の支配が難しくなってくる。特に鎌倉時代以降、武士が地頭として入ってくるとその支配は困難を極めた。地頭は実力で荘園を押さえようとして、次第に荘園領主の言うことを聞かなくなっていった。
 京都の荘園領主にとって地方の荘園は命の糧であった。年貢が送られてこなくなるとたちまち彼等の経済は苦しくなってきた。
そこで荘園領主が採った手段が武士を領主の代官に任命して地頭に対抗させる、という方法であった。
 鎌倉時代以降、武士というと地頭というイメージがあるが、そんなことはない。鎌倉・室町期、地頭でない武士はいたるところにいた。特に、瀬戸内海地方には多かった。彼等は、もと平家の家人だった者や、幕府の御家人になることを嫌って朝廷に仕えた武士たちで、幕府に反感を持っていた。
彼等は荘園領主から荘園の代官に任命されることで在地に力を伸ばそうとした。こうなると荘園の支配は武士同士の勢力争いの様相を呈してくる。荘内には武士たちの拠点として山城が築かれ、武士たちの小競り合いが日常的になって来た。
 
藁江城址
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藁江城と赤柴山城
 金江町の藁江城もこうした武士同士の勢力争いの中で築かれたのであろう。藁江荘には地頭が置かれた形跡はないが、南北朝、室町と時代が下るにつれて、武力がなければ、荘園の支配などとうていできない世の中となっていった。
 八幡さんから北を望むと、山頂を平にした山が目に付く。赤柴山城跡である。標高260メートル、山頂は三段に削平され、周囲には石垣を築いた跡も残っている。江戸時代の記録によると、応永年間(14世紀末)藁江九郎左衛門繁義がこの城に居城し、同五年(1398)、渡辺氏にこの城を譲って藁江城に移ったと言う。
 
赤柴山城址
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 城跡の伝承に出てくる藁江氏や渡辺氏もこうした中で、浮かんでは消えていった荘園武士の一人なのであろう。
 だが、この荘園からは、地付きの豪族はとうとう現れなかった。戦国時代の初め、九州探題を勤めた渋川氏の一派は備後に土着し、東隣の山南を本拠としてこの地をも実力で占拠した。赤柴山城には渋川氏の代官が居城し、藁江氏や渡辺氏を押さえて荘園に君臨した。石清水八幡宮領藁江荘の終焉である。(田口義之)

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