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新備後物語(八)―中世山城の起源―
断崖上の城塞
各地の史跡を訪ねていると、時に不思議な遺跡に出くわす。20年ほど前のことだ。神石郡油木町(現神石高原町)の教育委員会から依頼されて、町内の山城跡をしらみつぶしに調査したことがある。
断崖上の山城跡、追畑城址(中景のピーク)
夏の暑い日、地元の人に案内されて追畑城というのを訪ねた。小野という所にある山城跡で、道から降りて尾根道を歩いていくと30分程でその跡に着いた。見ると成羽川に臨んだ断崖絶壁の上ではないか…。はるか下に川筋が白く光っている。確かに城の遺跡と思われる平坦地と堀切はある、だが、周囲を見渡しても田圃はおろか家らしきものはない。
また、福山市山野町に田原城というのがある。これも山野峡の断崖上にある山城跡で、アマチュア画家やカメラマンが筆やカメラを向けている「聖岳」といえばご存知の方も多かろう。
田原城址(聖嶽)
これらの山奥の断崖上に築かれた山城跡に立って思うのは、こんな所に立て篭もって何のメリットがあるのだろうか、と言うことである。
館と山城
一般に、中世山城の起源は、在地武士の「館」にあると言われる。彼等は敵から身を守るために、館の周囲を掘や土塁で守りを固め、有事に備えて背後の山頂に山城を築いた。
御領「堀館」跡
山城跡の大部分は、こういった武士達が所領を守るために築いた山城である。だが、初めに述べた山奥の山城跡はこの考えでは理解できない。後の戦国大名が築いた見張りや連絡用の砦とも違う。周囲に街道や要所もなく、こんな所に城を築いても意味がないように思われる。
悪党と山城
ところが、歴史を調べていくと、一度だけこんな山奥の断崖上に城を築いた時期があった。鎌倉時代の末期のことで、こうした山城を利用した者達を当時の人々は「悪党」と呼んだ。
元弘の変で楠正成と東西呼応して挙兵した
桜山四郎入道(福山市・中興寺蔵)
悪党の「悪」は、猛々しいとか強いを意味した。勿論、彼等は今日の悪党に通ずることもやった。山賊や追い剥ぎ・こそ泥といった悪事も彼等の所業の一つであった。だが、鎌倉末期になると、悪党は幕府を脅かす存在となった。没落した御家人、幕府に反抗する武士たちが続々と悪党の群れに加わっていったのだ。この時期の幕府は「得宗専制」と言って北条氏の専制下にあった。御家人は北条氏の支配に甘んじるか、「新たな道」を選択するかの二者択一に迫られた。気骨のある者は、悪党となって北条氏に反抗した。彼等は、北条氏の討伐に備えて山奥に根城を築いた。追畑城や田原城といった山奥の断崖上の山城は、彼等悪党によって築かれた根城だったのである。
桜山氏の拠った桜山城址(福山市・国史跡)
悪党の登場は、幕府の命脈を縮めた。元弘元(1331)年、後醍醐天皇の倒幕の激に真っ先に応じたのは、楠木正成や赤松円心、備後の桜山四郎入道などの「悪党」であった。(田口義之「あしだ川」連載中) |
新びんご物語
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おはようございます(^^)楠木正成、千早の城も山奥ですよね!住みにくいなんてもんじゃない。やはり隠れ家的なアジトと言う認識なんでしょうか?城と言われる程、大げさな遺構も少ないですしね。勉強になります ポチ
悪党集団のアジトが中世の山城のイメージなんですね!
2012/12/4(火) 午前 10:14 [ みつ ]
みつさん
コメントありがとう。
南北朝時代の山城は確かに住みにくそうですね。
楠木正成の千早城、いつか登ってみたいと思っています。
2012/12/4(火) 午前 11:17 [ ゆの屋又三郎 ]