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足利義昭の「鞆動座」
鞆は、古くから開けた港町である。最近、遺跡としての鞆が注目を集めているが、発掘してみると、鎌倉・室町時代の遺構は勿論、平安・奈良時代から、更には弥生や縄文の遺物に出くわすと言う。
鞆の鎮守「祇園」(現沼名前神社)
邪馬台国時代の投馬国云々は別にして、この地が港町として古くから栄えたのには理由がある。鞆の沖合は、瀬戸内海の東西から入り込んで来る「潮」が丁度ぶつかるところである。東から来る船はここまで満ち潮に乗ってやって来て、鞆港で一休みした後、こんどは逆に引き潮に乗って西に進めば楽である。西から来る船も同様に、鞆を中継地として「潮」に乗って東に航海した。これが鞆が「潮待ちの港」と呼ばれる理由である。
今も残る元禄期の商家
古来、この地で、船出を待った人は多い。万葉歌人大伴旅人も任地への往復の途中、ここで歌を詠んでいるし、前号で紹介した室町幕府の創始者足利尊氏もそうである。
足利義昭(京都・等持院)
しかし、鞆が船旅の中継地であっただけに、ここに足を止めた旅人の中には、中央の権力闘争に敗れ、都への望郷の念に燃えながら、空しく“船出”を待つ者も多かった。天正4年(1576)2月から、天正10年(1582)までの六年間、この地にに本拠を置き、都への帰還の夢を、この「潮待ちの港」に託した室町幕府最後の将軍、足利義昭もその一人である。(続く)田口義之「備後散策」より
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足利氏鞆に起り、鞆に亡ぶ
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